むぎの城さんぽ

日本100名城&続日本100名城を巡っています。
近頃は山城歩きもエンジョイしてます!

北新波砦(群馬県)

2019年02月27日 | 
北新波砦きたあらなみとりで
別名
構造
築城者新波氏
築城年代15世紀後半~16世紀中期
指定史跡県指定史跡
場所高崎市北新波町216  地図

北新波砦は、57メートル四方を土塁と堀で囲み
南側に防御施設と思われる張り出しを設けています。
箕輪城主で知られる長野氏は、長野郷を基盤として発展し、
北新波砦も長野氏に関係する武士が居住していたと考えられています。



駐車場

公園になっているので西側に駐車場が完備されています。


案内看板

駐車場と本丸広場の間に設置されている案内看板です。


北新波砦史跡公園

本丸広場への入り口は東西南北に各1ヶ所設けられています。


復元土塁

復元された土塁で本丸は囲まれています。
土塁の外周を今は埋め立てられて砂利が敷かれていますが堀が廻っていました。


本丸広場

ほぼ正方形で周囲を土塁が囲い、館があったと思われます。
虎口は北と南の2ヶ所とされ、建物跡や井戸跡、生活用具類や古銭
墓石等が出土しています。
そして…ここの芝が気持ちよさそうに見えたので寝転がってみました!

イテテテ…

タワシのように痛い芝生でした


張り出し(内側)

出桝形状の張り出しがあります。



土塁の上には通り道が設けられていて、
張り出しの部分もコの字になっているのが判ります。


詰所

公園東側には長屋門のような詰所があります。
中から話し声が聞こえていて人の気配を感じました。
公園の管理者かな?


休憩広場

休憩広場のあずまやの中には北新波砦の案内や
北新波砦史跡公園周辺史跡案内が掲げられています。


満勝寺郭

北新波砦に隣接して満勝寺があります。
この敷地も北新波砦の郭で城館としての機能を果たしていたものと思われます。


満勝寺

郭内には満勝寺の他に長野幼稚園もあります。
というわけで、散策は満勝寺までで奥の長野幼稚園までは許可無く
進入出来ないのでお気をつけあれ。


武田家の紋

そして気になったのは屋根に見えた菱の紋。
武田信玄の侵攻によって箕輪城が落城した際にこの砦も
オセロのように武田の紋に塗り替えられたのでしょうか。



この日は中で法要をされていました。
そのために入り口の門が偶然解放されていたのかもしれません。
普段は幼稚園の入り口と一緒なので門が閉じられているかもしれない(未確認)です。


満勝寺の石憧

満勝寺の石憧は1524年(大永4年)に造られ、当時の仏教信仰の様子を知る
貴重な資料とされ高崎市の指定史跡とされています。
石憧は、中国で流行ったものが日本に伝わり日本でも鎌倉時代頃から多く造られるようになりました。
因みに、この石憧の上に載っている笠は別のもので後に付けられたそうです。



本堂正面にも武田の紋が掲げられています。


遺構は既に破壊されていたものの、土塁の復元など史跡として残そうという姿勢が
良く見えます。
また市民の憩いの場としても安心して活用できる良い環境でもあり、この日も
公園には整備をする人、散歩をする人、ボール遊びをする親子の姿も見えました。
平和を感じる史跡でした。


平成31年2月2日訪問




長野業政と箕輪城 (シリーズ・実像に迫る3)
黒田基樹
戎光祥出版



榛名神社(群馬県)

2019年02月25日 | その他
榛名神社はるなじんじゃ
別名式内社
構造神社
造営者快良
造営年代1210年(承元4年)
指定史跡国指定重要文化財
場所高崎市榛名山町849 地図

927年(延長5年)に創建されたといわれています。
本殿は200余年前の文化3年に再建され、御祭神は後方の御姿岩の洞窟の中に祀られています。
境内には、武田信玄が箕輪城攻略の際に矢を立て戦勝を祈願した矢立杉をはじめ、
現在は巨大な岩など、神々が宿る若者からも人気のパワースポットとして賑わっています。




道中には沢山のパワースポットがあり、見どころが沢山あるので
随神門から本殿までは約600メートルの道のりを飽きることなく上まで登って行けます。


随神門

この随神門は、もともと仁王門でしたが神仏分離令により仁王像は焼かれ
現在は現在は明治39年に祀られた随神像が祀られています。



川を挟んで対岸にある鞍掛岩を横目にどんどん登って行きます。


神宝殿

参道に立つ三重塔は神宝殿です。
県内で唯一現存する木造塔婆建物で、1869年(明治2年)に竣工されたものです。


瓶子瀧

瓶子(みすず)とは神に供える神酒を入れる器のことで、
瀧の流れている岩の名前が瓶子岩と呼ばれていることからこの瀧を瓶子瀧と呼ぶようになりました。
手水鉢のあるところからとても綺麗に見えます。


矢立杉

国指定天然記念物の矢立杉は、武田信玄が箕輪城攻略の際
参拝矢を立てて必勝祈願をしたと云われている巨木です。


双龍門

4枚の扉にはそれぞれ丸く文様化された龍の彫刻が施されていることから
双龍門と呼ばれるようになりました。
天井には水戸藩主徳川斎昭公が宋の哲宋皇帝勅製の墨を下賜した墨で上り竜と下り竜が画かれています。


拝殿

権現造の複合建築で、拝殿と本社で幣殿で繋いでいるのが特徴です。


神楽殿

神に奉納する神楽を演じる場所で、本殿と向かい合って床の高さが同じです。


天井画

神楽殿の格天井には花鳥獣や神楽面などが天井画として画かれています。



この門の先には門前そばが食べられるお店があります。


本坊

奥に見える建物が地場産の食材を使用した蕎麦茶屋です。
こちらで食事をすると駐車場にも車を置けるので神社に近いです。


門前そば

榛名山近隣の蕎麦の実やお店の裏にある岩魚の生け簀には榛名山の湧き水を使っています。
和食定食のおかずには榛名山麓で取れた山菜自等を使用しています。



榛名山の湧き水で入れた「湧水コーヒー」です。
この他にも岩魚や山菜など自然豊かな食材にこだわったお料理があります。


榛名神社へは受験生の親として合格祈願にやって来ました。
武田信玄も必勝祈願に訪れた神社で、私も日頃から榛名神社の必勝パワーは
凄い!と感じているところなのでしっかりと合格祈願をして参りました。
その結果…見事2校合格しました!
あらためて榛名神社のパワーを実感しました。


平成31年2月3日訪問

筑前上の砦(群馬県)

2019年02月20日 | 
筑前上の砦ちくぜんうえのとりで
別名
構造
築城者稲葉氏
築城年代不明
指定史跡
場所富岡市妙義町上高田 地図

筑前上の砦は、安中方面からの敵を迎え撃つ為に築かれた砦で
高田川を挟んで対岸にある郷士谷津の砦(筑前屋敷)を繋ぐ狼煙台とも
言われている場所です。




完全に畑と化した砦跡には遺構とみられるものはほぼ壊滅しています。
砦があったとされるのは、正面の墓地から左側の畑になっている場所と思われています。


旧道

現在この道は農耕車のみ通過でき、一般車は砦を避けるように新道の方を通ります。


堀跡か?

この道から右側が堀跡ではないかと推定されていますが…。
窪みも無いし、むしろ土が盛られていてまったく想像すら出来ません。
この道が堀跡か?



段になった畑があります。
土塁ではなさそうです。



墓地のあるこの辺りが一番高くなっている場所です。



畑以外の土塁を見ると、なんとなくそんなところに砦の名残かなと
思いを馳せてみる…。


宮坂武男氏の「境目の山城と館」を見て訪れたのですが、普段からよく使う道で
この本が無ければ、ただただ…通り過ぎる地点です。
段丘を登るので確かにその分眺望もあるわけですがこの光景を見ても
残念ながらここが砦であったことは知る由もない。
調査もなされていないので詳しいことは判っていません。


平成31年2月9日登城



信濃をめぐる境目の山城と館 上野編
宮坂武男
戎光祥出版

城がたり(攻城団)

2019年02月19日 | イベント・行事
「城がたり」

城がたりvol.1「マンガとトークでわかる丸岡城」という攻城団のイベントに参加すべくやってきました。
「城がたり」とは、攻城団が主催するお城をテーマにしたトークイベントで今回が第一回目となります。
ゲストには漫画家の大久保ヤマト先生と歴史研究家の榎本秋先生を招いての丸岡城について
語っていただきました。


ふくい南青山291

ふくい南青山291(グラッセリア青山内)東京都港区南青山5丁目4-41にある
福井のアンテナショップです。


受付

2Fに受付がありますが、ここで団員のひよどり下総守さんにお会いして
受付まで案内してしていただきました。
受付には12月にお会いしたばかりの団員さんたちがボランティアスタッフをしていました。
この面子を見て私は「出遅れたぞ」とちょっとした焦りを感じました。
(そこ、争うとこじゃないんですけど)
席は自由だったので、団員総会で旦那と娘がお世話になったAichirouさんの隣に
「座ってもいいですか?」とご一緒させて頂きました。




トークショーは、こうのたけし団長さんの攻城団の紹介から始まりました。
攻城団のイベントと言えば過去に、「七尾東雲高校生とめぐる七尾城跡ツアー」、
お城EXPO2017での「お茶会」、「二条城ガイドツアー」、「第2回団員総会(名古屋城)」と
参加していて、こうの団長さん、コースケ副団長さんとは4回目の顔合わせとなります。


攻城団は公式サイトながら運営側との距離感がものすごく近いのが特徴です。
ここに参加されている団員さんたちもほとんどの方がそう感じているのではないでしょうか。



トップページのロゴについて

最近攻城団にアクセスして楽しみなのがトップページ。
毎日変わる旗の種類は30種類。
誰の旗印かわかりますか?


榎本秋先生のトーク

次に榎本秋先生のトークでは、私も普段ブログを書いたりするうえでいろいろ歴史を調べる
ことになるのですが、その歴史についての深堀の仕方がとても参考になりました。
攻城団のサイト内のルームに「日本最大の城郭DB構築プロジェクト(仮)」があるのですが、
そこでは城郭データベースに新規登録するお城のデータを編集するという作業があり
誰もが参加して、お手伝いすることが出来ます。
その中で調べる作業において、裏を取るために深く追求することがあります。
そこで普段あまり表に出ていない話をどう調べていくかのヒントを得られたことが収穫でした。
地名の誕生から調べてみるとその地方の歴史が判ることがあります。
榎本秋先生のおっしゃっていた国会図書館の利用もしてみたいものです。



大久保ヤマト先生と河野団長とのトーク

冬の丸岡城での取材の様子をスライドで見ながら、雪で埋もれた史跡を取材しているところの
エピソードを披露してくださいました。
丸岡城のスーパーガイドさんの話も、私が丸岡城を訪れた時にもお話をしたことがあった方だった
ので名物ガイドさんなんだなと共感出来ました。(丸岡城あるある)
他にもお会いしたことある!という団員さんもいたのでかなりの名物ガイドさんなのかもです。

大久保先生のマンガを拝見すると、内容にしても絵の部分(特に背景)にも
手抜きがまったく見られないのがすごいところで、お城を描くのって結構難しいのですが
きっちり描かれているので手間をかけているのがよく判ります。
私も学生時代漫画やイラスト、セル画など描いた経験があるので少々のことは理解出来るつもりです^^;
※絶対他人には見せられない画力です


そうそう、甲冑も描くの大変だよなあと思っていたらやはり拘って描いたそうです。
動きの出るものを細かく描くのって難しいし、私だったら面倒で嫌だなあと避けてしまうところなのに
この分野(歴史もの)を楽しんで描いてるというのは好きだからこそなんだなあと思いました。
城と甲冑の描き方には明石城の方を見ても綺麗に描かれているのでとても見やすいです。



グッズ販売

この日はグッズ販売も行っていました。
丸岡城のTシャツは事前に予約を入れて受付で購入しました。



写真撮影のお手伝いをされていたフロンさんは、攻城団のレポートの写真を撮られていました。
最近私のカメラの不調についてもSNSでご存知だったのでカメラの話をしたり
今回初めてお会いしたhinakさんとは、久留里城の「ヒル注意」の話題から苗木城いいよね!の話まで
話していたら尽きない城談義で盛り上がり、
今回3回連続お会いすることとなった闍夢さんには手作りケーキをご馳走になり、
グンマ―国繋がりの絆が強く?旦那と娘の分もケーキを持たせてくれて、
潰さないように大切に持ち帰り、二人には一番良いお土産になりました。

楽しい時間もあっという間に終了。
急いで渋谷駅へ。
方向音痴な私は、お約束通り行きも帰りも道に迷いながら発車時刻ギリギリで電車に飛び乗りました^^;



お土産(攻城団)

本日限定で作られた丸岡城のTシャツや大久保ヤマト先生の「マンガでわかる丸岡城」の
冊子と攻城団が作った「城たびポケット」、今回はこの他にもポストカードや
グッズなどいろいろありました。
ところで、「城たびポケット」というのは攻城団が作ったお城周辺の街めぐりガイドで
周辺史跡やゆかりの場所からオススメ店まで紹介されたパンフレットです。
今後このようなパンフレットが置かれるようになると思いますので
現地で見かけたらぜひ入手して城下町の散策もいっしょにしてみるのはいかがでしょうか。


お土産(福井)

見た目は東京土産の「ひよこ」の恐竜版のようなお菓子です。
福井と言えば恐竜ですね。
我が家へのお土産に買ってみました。



平成31年2月17日参加


猛将妄想録 1 「猛将妄想録」シリーズ (電撃ジャパンコミックス)
大久保 ヤマト
KADOKAWA / アスキー・メディアワークス



五月ヶ瀬 煎餅 (16枚入)
五月ヶ瀬
五月ヶ瀬

龍門寺(群馬県)

2019年02月15日 | その他
龍門寺りゅうもんじ
別名
構造寺院
造営者井伊直政
造営年代1590年(天正18年)
指定史跡市指定史跡
場所高崎市箕郷町東明屋22 地図

龍門寺は、1590年(天正18年)に井伊直政が創建したと伝わる曹洞宗の寺院です。
総門の表紋は橘、裏に井桁の井伊家の紋が刻まれ、市指定の重要文化財になっています。
直政は栃木市の大中寺から白庵禅師を招きました。
白庵禅師に相談した直政は、1598年(慶長3年)に箕輪城から和田への移城の際、
和田の地を「高崎」と命名しました。



駐車場

道路から参道が見えるのですが、寺院の方へ回り込むと広い駐車場があるので
そちらに車を置いて散策です。


参道

この前を通過する際に見えた山門がとても立派で古そうだったので「これは何かある!
時間があったら後で見にこよう!」となんて思ってました。



真直ぐに伸びる参道脇には幾体もの石仏が並んでいます。


総門

道路から見えた総門。
これが気になっていたところ、箕輪城にガイドをされている岡田さんと一緒に居た
「箕輪初心」さんに井伊直政が建立したお寺があるという話を伺い、訪れる決意をしました。


井伊家の紋

「箕輪初心」さんがおっしゃっていたように、確かに屋根には井伊家の紋が見えます。
この総門は1796年(寛政8年)に再建された向唐門で高崎市指定重要文化財です。



総門をくぐり中に入ると、ほのぼのするようなかわいらしいお地蔵さんが居ます。


本堂

とてもシンプルな本堂です。


庭園

ここからではちょっとだけしか見えないのですが龍潭寺を思い出させるような庭が
あるのだろうかと期待してしまいます。



中庭の池から流れて建物の下を水が通り、表の庭園へと続いています。
この繋がり(流れ)のある庭園の発想が良いですね。



本堂を正面に見て左側に、裏手の墓地への道があります。


松下家墓地

松下清景は直政が徳川家臣として頭角を現し、
箕輪城城主となるとそれにつき従いこの地にやって来ました。
清景は源三郎と呼ばれ、箕輪城の稲荷郭(松下郭)に屋敷を構えていましたが、
1597年(慶長2年)に死去し龍門寺に眠る…。
以前NHKの大河ドラマ「おんな城主直虎」を見て訪れた静岡県の頭陀寺城(松下屋敷跡)で学んだ直政の母の再婚相手である松下清景がここに眠っています。


安藤安藤九郎左衛門の墓

「白岩の戦い」で戦死した箕輪城長野氏の家臣、安藤九郎左衛門の墓がここにあります。
「老いの身はいづくの土となるとても 君が箕輪に心留まる 」という世辞の句を残しています。



頭陀寺城から松下氏が直政と共に箕輪城に来ていたとは勉強が足りませんでした。
このような後のエピソードがあったとは箕輪初心さん、
面白い話を教えていただきありがとうございました。
欲を言うと、「おんな城主直虎」を見ている時に知っていたら
もっと盛り上がっただろうなあと思ってしまいました。
そして、安藤氏についても「白岩の戦い」の話についてももっと知りたくなったので
もうちょっと追いかけてみようかと思います。


平成31年2月2日訪問


井伊直虎 女にこそあれ次郎法師 (角川文庫)
梓澤 要
KADOKAWA/角川書店

百間築地の砦(群馬県)

2019年02月13日 | 百名城以外の城
百間築地の砦ひゃっけんついじのとりで
別名東日野金井城
構造複合山城
築城者高山氏
築城年代不明
指定史跡
場所藤岡市高山 地図

百間築地の砦は、要害山城・天屋城・日野城(百間築地の砦)の三つの城を合わせて
高山城と呼ばれています。
上杉、武田、北条の城へと移り変わり現在ゴルフ場となっている場所からは
北条特有の障子堀も発掘調査で確認されています。


案内看板

百間築地にある高山城の案内看板です。


石垣

案内看板の道を挟んで東側の畑の中に石積みが見えます。



近年の開墾に伴う石垣が周辺には転々と見られます。
復元された石垣や、中世に遡るものもあります。



石垣に登れるようになっているみたいです。
この石垣は復元のようです。



枯れ草に覆われて見ずらいのですが、
先ほどの石垣から延長して塀のように並べられた石たち。



道を挟んで西側にも石垣が見えます。
これが本物?・・・・ちょっと見た位では全部復元ぽく見えてしまいます。



専門家ではないのでいったいどれが中世の石垣なんだろう・・・・・。
これかなあ?



南側にある石垣です。
これも後世に積まれたような感じがします。


結局それっぽい石垣はいくつかあるのですがどれが遺構なのかは
私には区別がつきませんでした。
このあとまっすぐ道なりに進むと鮎川で行き止まりになります。
う~ん、要害だ。
その川の正面も石垣になっていてあれ?と一瞬心が躍りましたが温泉施設の建設に伴う
建設物なのかと思われます。
そして「鮎川温泉 金井の湯」を抜けて引き返して来ました。
要害山城・天屋城の方は日をあらためて登ってみたいと思います。


平成31年1月20日登城



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WAVE
WAVE



ぐんまの城30選 戦国への誘い
上毛新聞社
上毛新聞社 出版部

林大城(長野県)

2019年02月11日 | 百名城以外の城
林大城はやしおおじょう
別名小笠原城・林大城・金華山城
構造山城
築城者小笠原氏
築城年代15世紀後半
指定史跡国指定史跡
場所長野県松本市入山辺 地図

林城は大嵩崎の小谷を挟み、東に大城、西に小城から形成されています。
小笠原氏城跡として井川城とともに大城が国史跡に指定されて、
現在、小城も国指定の申請中で近いうちに国史跡に登録される予定です。


大城登り口

林大城の登城口です。
ここを登って行けると良いのですが、時間的に無理そうなので
車で上まで行っちゃうルートに致します^^;
ポストの中を覗いてみたのですが残念ながら中は空っぽでした。
本来は林古城会の皆さんが制作したパンフレットが入っているそうです。


九十九折れ

見上げてみると、九十九折れの道が見えています。
上まで行くと眺めが良いのでしょうね。
後ろ髪を引かれながら車に乗り込み、橋倉へ。


橋倉

橋倉の集落にある案内看板。



集落の中ほどにある看板に従って林道に入って行きます。
林道には雪があり、脱輪したらちょっと怖い斜面なので雪のある時期は
あまりお勧めできません(>_<)


平場

ここに車を置いて、この先は徒歩で向かいます。
西側を覗き込むといくつもの堀が見えるのですが写真に納めたはずが
寒さのせいかカメラの調子が悪くフリーズするアクシデントで残念なことに
まったく撮れていませんでした。


林城跡とその周辺

案内看板にある林城跡とその周辺の地図です。


副郭

主郭に次ぐ広さの平場です。


堀切

主郭と副郭との間を切る南側の堀切です。



そして北側です。


石段

郭の入り口からある石段は、明治時代に主郭の石垣に使用されていた石材を転用して
主郭に建てられた古峯神社の参道の石段として造られたものです。


主郭

周囲に土塁があり、石積みが残る個所も見られます。


縄張図

この看板の裏手の土塁の切れ目に虎口があるのですが看板で見えませんね^^;



後郭から出て、腰郭のように主体部を取り巻く平地を歩いて北側に回り込み
井戸のある方へと向かいます。
車を置いた平場から更に車で進んで来るとこの先が終点となりますが
狭い道であること、城域内であることを考えると乗り入れは避けたいとこいろです。


化粧井戸の標柱

ここから東側に下ると井戸があります。



この斜面を下りて井戸に行ってみます。


姫の化粧水井戸

「後世の人がロマンをもって名づけたものであろう。
名称の由来に何の根拠もない。」
という書き出しにズッコケました^^;
すごい期待して井戸を探しに来たのになんとも言えない気分です
しかも、自噴することもなく水番城付近から水を引き込んだ「溜め井戸」ではないかと
推測されているが、水路等の調査はされておらず推測の域を脱していないとのこと。
正直だとは思うけど「姫の化粧水井戸」とはすばらしい妄想しましたね。


井戸跡

中を覗くと、石組で出来ているのが見えます。
上部に土砂の崩落防止の囲いがされています。



井戸跡の下にある堀切は左下に見える林道からも見えます。



井戸跡下の堀切の真横に来てみました。
そして道幅はこれ!積雪はたいしたことないけど、それでも滑ったら
深い谷に落ちてしまいます。
四駆でスタッドレスですが車体が大きいので道幅いっぱいです。
もちろんすれ違い不可。
でもわりと新しいタイヤ痕があるので午前中に誰か訪れたようです。


ここに来る前の松本城では動いていたカメラが、林城ではフリーズの繰り返しで
それでも騙し騙し撮れていると思ってシャッターは切りまくっていたのに
家に帰って編集しようと思っていたらほぼ全滅でした。
メモリーカードに書き込まれていなかったという悲劇…
ところどころスマホでも撮っていたのがせめてもの救いでした。
とはいえ主郭の虎口にある礎石や後郭やその先の様子など沢山撮影したつもりだったのに…。
この日以来、カメラは予備も1台持ち歩くようにしています。
ちなみにもう寿命かと諦めかけたカメラはある1枚のSDカードだけ正常に使えることが判り
なんとかまだがんばってくれています。(他のカードを入れるとフリーズする)
というわけで、いつの日か小城とともにまた訪れることとなることでしょう。


平成31年1月27日登城



和(なごみ) 徳利 家紋セット B 天下に近づいた武将 6.2cm×6.2cm A111112-02
Marktrading(マークトレーディング)
Marktrading(マークトレーディング)



長野の山城ベスト50を歩く
河西 克造,中井 均,三島 正之
サンライズ出版

箕輪城(群馬県)

2019年02月10日 |  百名城
箕輪城みのわじょう
別名
構造平山城
築城者長野業尚、武田信玄、北条氏邦、井伊直政
築城年代15世紀後半~16世紀前半頃、1567年(永禄10年)、1587年(天正15年)、1590年(天正18年)
指定史跡国指定史跡
場所高崎市箕郷町 地図
スタンプ設置場所箕郷(みさと)支所受付
御城印箕輪城ふれあい市
城郭検定出題あり

群馬を代表とする戦国期の大規模の城郭で、長野氏、武田氏・北条氏、徳川氏と
大きく三回の改修された3期の縄張変遷が見られる城郭です。
現在残る縄張りは主に徳川期の井伊直政が改修したものです。



駐車場

こちらの入口には駐車場とトイレが整備され、一般的にはこちらから登城します。
そして、この写真奥にガイダンス施設を建設されるとのことなので
今後が楽しみです!


搦手口

現在、この先工事中になっているので通過する場合は注意して通りましょう。



この奥が稲荷郭になります。
以前は林になっていましたが、徐々に木々が伐採され見通しが良くなっています。





二の丸

この場所付近にボランティアガイドさんがいらっしゃいます。
(箕輪城のパンフレットももらえます。)
毎回ガイドさんにお話しを伺っているのですが、この日はヤブレンジャーのひとり「箕輪初心」さんも
ガイドさんと一緒に居て、お二人に箕輪城について見所を教えていただきました。
箕輪初心さんと各地の山城の話でも盛り上がりました。
このお二人に箕輪城について質問すると、いろいろネタ?を持っているので
見掛けたらぜひ話しかけて見て下さい。
因みに、箕輪城から近い龍門寺の話も教えてもらったので、この後行ってみることにしました。



この辺りもまだ手入れがされるそうです。
いっきに伐採すると崩れたりする恐れもあるので緑化しながら伐採するそうです。


日本100名城スタンプボックス

二の丸から本丸へ進む途中に設置されているボックスには100名城のスタンプが押された紙が
入っているので便利です。



ちなみにスタンプは箕郷(みさと)支所にあります。


本丸

多数の「かわらけ」や楽茶碗などが発掘されていることから、
ここには城主の住む建物や軍議を開いたり酒宴を催したりする館があったと推定されています。


箕輪城の碑

本丸入口にある碑。
この周辺もすっかり以前と変わっていました。


本丸土塁

整備された本丸の土塁。
芝生の養生中でロープが張られていました。



土塁の切れ目(本丸西虎口)にはかつて蔵屋敷と繋ぐ橋が架けられていたということで
復元が予定されていると以前ガイドさんに伺いました。
これも橋が架かれば見所になりそうなので楽しみです。


本丸西虎口

前回訪れた時から半年、工事が始まっていました。



蔵屋敷に重機が見えます。
ここから、あそこまで橋が架かるんですね!



そしてここには門が復元される予定です。
この橋の復元工期はすでに遅れてしまっているのですが
とにかく完成が待ち遠しいです


堀切と土塁

本丸と御前郭の間の堀切と、新たに土盛をして復元された土塁です。
この堀切は井伊直政の時代に掘られたものです。


御前曲輪 西石垣

通仲曲輪・御前曲輪との間の堀に架けられた橋の橋脚部の土留めのために積み上げた石垣。



現在は工事中のため堀底の遊歩道は通過することが出来ません。
御前曲輪の西石垣など見所があるのですが整備が終わるまでしばらく見学しずらい状況のようです。
今後の様子はまた随時ここで変更してお知らせしたいと思います。



二の丸から三の丸方面へ行ってみたいと思います。
今は工事車両が通るため保護用に鉄板が敷かれています。


二の丸と三の丸の間の堀切

ここも以前は薄暗い場所でしたが、木が切られ明るくなっています。


三の丸




工事車両が三の丸を通過するための保護された砂利道。
ちゃんとシ―トの上に砂利を敷いています。(二の丸の鉄板の下も)
遺構への気遣いを感じられます。


三の丸石垣

石垣は野面積みで、箕輪城内では石が取れないため、城のすぐ西を流れる榛名白川から運びあげたと思われます。



この石垣部分には三の丸の門があったとされる。
両側の石垣に櫓を渡し、その下を連絡路としていました。


虎韜門

大手道はこちら。
ここ、城郭西側にも駐車場と入口があって、登るとすぐに大堀切に出られます。


木俣

細い山道を登り上げるとまず木俣と言う曲輪に到着します。
この場所に「木俣」という井伊氏の重臣の屋敷があった場所です。


堀切

箕輪城には大きな堀切がいくつかあり、堀切の低部に降りられる場所もあります。
この城の最大の特徴とする大きな空堀が多数残っています。



木俣から見た郭馬出西虎口門です。


郭馬出西虎口門

完成後間もなく訪れたよみがえる郭馬出西虎口門のタイトルで以前ブログを書いたものがあります。



郭馬出西虎口門から木俣曲輪方面を眺めています。
100名城選定以降どんどん手入れがされて随分と歩きやすくなりました。
そして現在進行形で箕輪城は整備が進んでいます。


大堀切

この大堀切は東西に走り、城を北と南の二つに分けている。
こんな大規模な堀を当時の人は鍬ともっこで築いたという。今では気が遠くなる話です。


水の手曲輪

こちらは南側の観音様口にからの登城口です。


稲荷曲輪

搦め手道から見通しが良くなったので初めて足を踏み入れてみました。



広くて平な郭です。
肝心な稲荷曲輪の名の由来でもある稲荷山を見てこなかった


新曲輪






水堀跡

この堀にはかつて水があったと思われます。
堀底にある石積みが気になり、ガイドさんに質問したところ
かつてこの堀底も農耕地として使われていたため、後世に造った農地の区切りだそうで
遺構ではないそうです。
そう言えば私の一番記憶に古い箕輪城も、本丸周囲には桑の木が垣根のように植わっていて
中には大根が植えられていた畑で、「なんだ、畑じゃん」って言って帰ってきたので
箕輪城は、日に日に変化しているんですね。



今回も写真の入れ替えを行いました。
たまに登城して変化のあった場所の報告と画像の差し替えをします。



平成22年7月11日登城
平成28年12月4日登城
平成30年6月24日登城
平成31年2月2日登城



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日本100名城に行こう 公式スタンプ帳つき
日本城郭協会
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高林城(群馬県)

2019年02月07日 | 百名城以外の城
高林城こうりんじょう
別名御殿場・黒岩城
構造山城
築城者不明
築城年代不明
指定史跡
場所富岡市下黒岩 地図

高林城は、鎌倉時代に上野権守小野朝臣の居城であったとの伝承があります。
しかしながらその根拠となる確証は無く、城郭の縄張りの様子から戦国末期の
天正時代に使われていた城ではないかとの見解がされています。



黒岩公民館入口

黒岩公民館の駐車場を拝借して、ここから徒歩で歩道橋を渡り、黒岩小学校脇にあるお墓から
主郭を目指します。



遍照寺墓地の脇を通り道に従い登って行きます。



道は整備されていてとても歩きやすいです。


南無平和観世音菩薩

登り始めてしばらくすると、観音様が見えて来ます。



看板が見えて来ました!


手作り看板

どうやら私は「イノシシコース」を歩いているらしい。
黒岩小学校の児童が作ってくれたのかな。



落ち葉も掃いてあるのか、日頃から児童が歩いているのか
とにかくよく整備されています。


合流地点

両側に堀切が見えます。
向って左側の堀は結構深いです!
向って右手へ下る道が搦手道で大日尊へと続く道です。



「イノシシコース」と「タヌキコース」の合流地点の手作り看板があります。
子供たちの造った看板が良いですね。



左側は深い横堀になっています。
ここもなかなか見事な堀です。
この先で右手から馬出を抜けて枡形虎口、主郭へと登って行くのが
本来の大手道のようです。
今回はこのまま真直ぐ続く整備された道を選んで、歩きやすいルートで主郭まで行きました。


鞍部

ここでいくつかの道が合流しています。
ここから右手に登ると主郭へ到達します。


枡形虎口

主郭から南東下にある枡形虎口。
ここから西側には腰郭が取り巻き、北側に行くと堀底を抜けて搦手道に出ることが出来ます。


主郭虎口

この階段を登り上げると頂点にある主郭です。


主郭(御殿場)

主郭は「御殿場」とも呼ばれていたようです。
ここには1763年(宝暦13年)記銘の石祠があります。
どうやら城に関係したものではないようですが、登り始めてしはらく歩いた場所にも
観音菩薩像があるのでこの城址には祀るものがあり、麓の寺院との関係が
あるのだろうかとも考えられます。


眺望

見晴らしは抜群です。
正面は妙義山、その右側で雪をかぶっているのは浅間山です。



主郭の木は伐採され四方見渡すことが出来ます。


二の郭

主郭北側の一段下に取り付いた二の郭は笹で覆われています。
しかし、人一人通れるだけの道があり、その部分だけ笹が切られています。
誘われるように郭内に入ってみると…立派な土塁と堀切に誘われます。


堀切

土塁の上に登ってみると…足元には見事な堀切があり、先程の笹藪に付けられた小道が
示す見所が「これか!」と意図的に見せるように出来てるのがなかなか憎い誘い方をしている。


堀と土塁

ここを整備されている人は我々の心理をよくわかっていらっしゃる。
全部は刈り切れないけど「ここを見ようよ」って道を付けてくれてあるありがた~い心使い。



土塁の上から振り返って郭内を見渡してみました。
藪の中には入りたくないけど、こんな道があるとその先には何があるの?って
行ってみたくなるでしょ?
結果、良いもの見せて頂きました。


鞍部

再び鞍部まで戻って来ました。
主郭側と南の出郭を切ったような場所で、西へ向かって道が延びています。



道は更に西へ向い、奥には主郭西部の土塁と堀切があります。
本日はここまでで帰路に。。。


小規模ながら良く出来た城址で、黒岩小学校の管理がとても良く
少人数の小学校ながらこれだけ児童が関わって整備されていると
とても微笑ましい城跡です。
しかも裏山が城址とあって「城の造りを体験する」という学習もされていて
堀や斜面をよじ登る体験など、めちゃめちゃ楽しい体験授業を行っているようです
素晴らしい環境でうらやましい!!
これからも続けて子供たちの育成に役立って行ったらいいなと思う城跡です。


平成31年1月26日登城



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井川城(長野県)

2019年02月04日 | 百名城以外の城
井川城いがわじょう
別名井川館
構造平城
築城者小笠原貞宗
築城年代1334年(建武元年)
指定史跡国指定史跡
場所松本市井川城1-4552 地図

信濃守護に任じられた小笠原氏は、足利尊氏に従い活躍したため、
恩賞として安曇郡住吉荘を与えられました。
その後下伊那の松尾館から信濃府中の井川に館を移し、林城へ移るまで居館があった場所です。
現在井川城跡として指定されている地域は、
頭無川が堀状に取り囲んで流れていることから、主郭の一部と推定されます。
そこにある小高い塚は、櫓跡という伝承もありますが定かではありません。



堀のように巡る頭無川。
右手に板の橋が架けられているのでここを渡って主郭へやって来ました。
周囲には駐車場が無いので車はすぐ移動出来るように運転手を残し、自分だけで散策しました。



周囲を見渡すと、宅地と化して住宅が密集している中に平地があり史跡部分だけ
建物が無く、ぽっかりと空いています。



平地があるこの地の付近には「古城」「中小屋」のように館に関係する地名や、
「下ノ丁」「中ノ丁」のように役所の存在を示す地名もあります。
またこれらのほかに「中道」の地名もあり、侍屋敷の町割跡、寺などの存在から
広大な守護の居館跡が想像されます。
こうした周囲の地名でかつての城館の名残を感じることで歴史を辿ることが出来ます。


案内看板

平成29年2月9日に井川城跡と林大城跡が国指定史跡となりました。
このことにより所有者の個人所有が松本市所有も加わり表記の変更がされています。
そして、昨年暮れには指定範囲拡大の申請がされ、林小城も追加指定となる見込みです。


土塁

主郭にある土塁は櫓台と推定されていますが伝承の粋を脱していないので
定かではありませんが、見渡して遺構らしきものはこの土塁と地形のみでは
ないでしょうか。


櫓台

これだけの平地に櫓を創るとすると、かつてはもっと高く盛られていたと思われます。



駐車場が無いのと住宅地であることから写真を撮るだけでそそくさと退散しました。
昨年飯田市の松尾城付近を訪問しているので小笠原氏が松本に移った話は記憶に新しいのですが
飯田の城館からみると随分平地でその後山城へ移っているあたりは心境的に
納得がいく話で、松本城までの移り変わりを追いかけるととても面白いので
井川城から出発し、林(大・小)城址を訪れるのがとても楽しみでワクワクします。


平成31年1月27日登城


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菅原城(群馬県)

2019年02月01日 | 百名城以外の城
菅原城すがわらじょう
別名城山
構造山城
築城者高田氏
築城年代不明
指定史跡
場所富岡市妙義町菅原城山 地図

菅原城は高田氏の持城のひとつといわれています。
高田氏は1561年(永禄4年)以降に高田城から菅原城に移りました。
武田氏の侵入に備えて造られた城であり、下仁田から佐久への街道の重要路に接しているため、
戦国末期まで使われていた城であると考えられています。


駐車場

さて、ここは駐車場なわけではないのですが、駐車出来るスペースがあったので
ここに車を置いて大手道を探すことにしました。



この先に畑があり、大手道のあたりを探ってみることにしました。
ちなみに皆さん東側から直登で主郭までの近道を難儀して登られているようなので
私は北側の大手道を普通に登って行けないものかとルートを探しに来ました。



畑を過ぎ、更に道は山に向かっています。
道はコンクリートで出来ています。
この辺りまでは車が入ってきていたのだろうか。



道は先程の場所から程無く狭くなり、獣道のような道になってしまいます。
とりあえず尾根に登る道をみつけます。
木に白いマーキングがあります。
これはみちしるべか?


石塔群

一本の尾根に出ると、また道幅のある道に出ました。
ちょっと下って様子を見に行くと石塔群がありました。
このことから、この道が里から続いていると思われこの辺りまでは
もっと楽に登って来られるルートがあるということです。



しかし、道はこの郭のような場所で終わっていました。



一段よじ登ってみると、また郭のようなスペースがあるのですが、
その先は岩盤に阻まれ、とても上には登って行けそうにないので
やっぱりここで行き止まりです。
それでも周囲を見渡すと、西側に白いマーキングの木があるのでそっちへ行ってみることにしました。



白いマークのある木を辿って行くと細~い獣道があり、谷側を歩く道が
うっすら付けられています。
そこを伝い歩きして西隣の尾根へ渡ってみることにしました。



谷底に居るのですが見上げると正面の尾根が城域のようです。
さて、あそこまでどうやって登るか…。
そう考えるのは敵の目、味方の目なら、どこかに通路があるはずだ。
ところで、この写真よ~く見ると石垣?のようなものが見えます。
現地で気が付かなかったので石垣かどうかはわかりません。


北尾根

やっと城域に辿り着きました。
北尾根の大手道に出ました。
それにしても急な登り道です。這い上がるしかない!(
実は後から判ったのですが、ここを真直ぐ直登しちゃダメだったんですね。
よく見ると、大手道はちゃんと左側にありました。
ここを左に行けば苦労することなく二の郭へ行けるのです。
獣道のようだったので気が付きませんでした^^;


二の郭

二の郭の平場に出ました。



土塁?を登って先を進みます。
北側はとても急斜面なので危険です。



一段登って振り返ったところです。



三の郭を通りぬけ、大堀切にぶつかりました。
左右に細い道が付いているようですが、どちらの道を選んでも
足を滑らせたらアウトです。
どうしたものか…
しかし、この日はここで時間切れ。
引き返すことにしました。



戻り始めたところで人影が!
このような山城で人に会うとは思いもよらなかった。
迷うことなくすぐに声をかけてみました。
独りで来たと思われる男性は縄張り図を手に大手道の方からやって来ました。
聞くところによると、我々が登って来た道と若干ズレていたので
その男性が来たであろう道を探しながら下って行くことにしました。




行きに這って登った北尾根まで戻って来ました。
ここで左手の小道(大手道)を偵察に行ってみました。
おそらく出会った男性はちゃんとここを通って登って来たものと思われます。



なんだ、ここを歩けば右に見える尾根を這って登ることなかったんだあと気が付く。
しかもこのまま二の郭に出ます。



しかも、登って来た谷と反対側にも獣道ではなくちゃんと道がありました。^^;



ギリギリ軽トラが入って来られそうな道幅です。
こんな入口があったんじゃん…苦労して登ったのは何だったの?



そして、屋敷でも置いたのか?と思わされるような段々。
でも畑に使っていたのかなあ?
路面はコンクリートで出来ているので以前は人が出入りしていたのがわかります。
コンクリートの道は崩れかけているので注意です。



そして、駐車した場所に繋がる道に出て来ました。



少し下って振り返ってみました。
私はこの林の左へ入る道から出て来ました。
この道の終点は地図によると畑になっていると思われます。



このまま下って行ったら駐車した場所に続いていました。
次回はこちらから楽ちんに大手道を通って行きたいと思います(^_-)


今回大手道を探しに行ったのでこれで大手側から登りの様子が判り
容易に行くことが出来ます。
しかし、難攻であることには変わりなく引き返して来た先をどう攻略するかが課題です。
とは言え、帰り途中で出会った男性は独りでその先も進んで行ったので
無事であれば制覇しているはず。
ビビりな私にはとてもその先の滑りやすい斜面を登って行く勇気も時間もありませんでした。
装備万全で挑むか、東側からの登城も興味深々なのでそっちからも
登って遺構をみたいなと思っているところです。


形成31年1月26日登城


信濃をめぐる境目の山城と館 上野編
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