むぎの城さんぽ

日本100名城&続日本100名城を巡っています。
近頃は山城歩きもエンジョイしてます!

上条城(新潟県)

2021年07月30日 | 百名城以外の城
上条城じょうじょうじょう
別名
構造館城
築城者上条上杉氏
築城年代不明
指定史跡
場所新潟県柏崎市上条 地図

上杉謙信の時代、上条氏は謙信の軍事下に所属していました。
謙信が死去し、御館の乱が起きると上杉景勝方として奮闘しています。
ところが上杉景虎方の兵により上条城が奪われてしまいました。
その後すぐに景勝方の旗持城将佐野清左衛門尉によって上条城は奪還されました。
1600年(慶長5年)上条城は上杉遺民一揆の際、上杉氏の残党に攻略され、
これにより廃城となりました。



大手口

上条進修館(集会場)の西側に大手口があります。
南側には御殿川があり、大手道に架かる橋は御殿橋という名称なだけに
ここを通って館に入ることを示しています。


主郭

大手道を登り切って主郭に入るとすぐに、説明の城址碑があります。
ここまでは舗装されているので、車で登ることが出来ます。(転回できます。)



明治年間に小学校があったそうで、その頃の名残の石碑かな?
蜘蛛の巣と格闘しながら見に行くか…う~ん、迷った挙句「パス!」
というわけで、何の碑なのかは解からず終いです。



奥行のある主郭ですが、この時期草ボーボーで奥の方へは入って行く気がしません。



過去には、畑になっていたこともあるようです。
見渡すかぎり緑です。



奥には二の郭もあるのですが今回は断念です。



搦手側からの道も確認しましたが、稲荷神社がり、その上の二の郭は草で覆われ
やはりそこからの主郭への侵入は断念しました。



以前はこの方向に進修館があったとか。
下段の郭外に移っています。


虎口

この辺りの南側は通称「天守」と呼ばれ、物見櫓があったと推定されています。


上条城(じょうじょうじょう)、ちょっと連呼したくなる親しみやすい名称です(^-^)
もっと奥(二の郭)の方へ見に行きたかったけど、
この時期どこに行っても全容が見えないのは仕方ないこと。
見える範囲はこんなところです。
写真には収めてこなかったのですが、外周を回ると堀の名残や
城下の道っぽくクランクなどもあったり、橋の名前や地名にそれらいしい
興味深いものがあるのでとても気になりました。


令和3年7月18日登城






藤井城(新潟県)

2021年07月26日 | 百名城以外の城
藤井城ふじいじょう
別名豊岡城
構造平城
築城者稲垣重綱
築城年代1616年(元和2年)
指定史跡
場所新潟県柏崎市藤井 地図

上野伊勢崎城から元和2年に2万石でこの地に移封となり、
藤井城を築城を始めましたが、4年後には2万5千石で三条城へ移封となり、
藤井城は未完成のまま廃城となりました。




妙覚寺駐車場から大手口を見ているところです。


大手道

ここを真っすぐ入って行くと、郭に入る手前に1~2台ほど車が停められるスペースがあります。


虎口

この辺りに車が停められます。
この日は紫陽花が満開で奇麗でした。


石碑

入って左側に藤井城の説明の書かれた石碑があります。



城址公園とした主郭は周囲より一段高くなっています。



戦没者の慰霊塔かなと思い、近くでよく見て来なかったけど、
本丸のシンボル的な塔があります。



特に思考を凝らせた構造にも見えないので
やはり未完成だったと言われれば頷ける感じです。


堀跡

段差がよくわかる北側は、堀の名残が見られます。
幅は結構広いです。


最初、西側の舗装されていない道を入ってしまい(堀はよく見える)
車が大きかったので難儀したのですが、どう見ても城の裏側だったので
正面からの入り口を探してみたら、妙覚寺側から入るのが正解でした。
でも、堀と土塁は裏から見た方が良く分かります。


令和3年7月18日登城


今回の参考本



角城(新潟県)

2021年07月23日 | 百名城以外の城
角城かくじょう
別名椎谷城
構造山城
築城者不明
築城年代室町時代
指定史跡
場所新潟県柏崎市椎谷 地図

1507年(永正4年)長尾為景が上杉房能を天水越で討ちました。
すると、兄である関東管領の上杉顕定が関東軍を率いて越後へ侵攻し
長尾為景軍を大敗へと追い込み、長尾軍は越中へと逃れました。
今度は長尾軍が体制を立て直し、寺泊・椎谷の戦いで上杉軍を撃破しました。
その時の椎谷の合戦で戦場になったのが角城だと思われます。




椎谷陣屋の裏門へと続く道から撮影しました。
丸の中に角城があります。



この先で、道路の真下から見上げると登れそうにない急勾配でした。
主郭は30m×25mと小振りながら周囲には土塁が構築されています。


華蔵院

入口にあたる華蔵院へやって来ました。
この裏に登城路がありますが、城域には立ち入る人が無いため藪化しているようです。
また、観音堂の裏手には狼煙場跡が残っているそうです。



華蔵院から振り返ると、手前に見えるのが椎谷陣屋、奥に見える山の上には天拝山城が見えます。
この近距離で見える位置に城が構えられているということは、
角城、天拝山城ともに、「椎谷の合戦」での重要な軍事施設であったと
考えられるのではないでしょうか。


椎谷陣屋にあったパンフレットに角城が載っていて、かなり近いようだったので
華蔵院の前を通過してみました。
角城、天拝山城の位置関係や、椎谷陣屋が置かれてことなど考えると
とても面白そうな土地柄のようで、興味が湧きました。
こちらは入口の紹介だけとなりましたが、またの機会に訪れてみたいです。
その頃にはもう少し「椎谷の合戦」の知識を入れて臨んでみようと思います。


令和3年7月18日入口まで



柿崎城(新潟県)

2021年07月21日 | 百名城以外の城
柿崎城かきざきじょう
別名木崎城
構造平城
築城者柿崎景家
築城年代不明
指定史跡
場所新潟県上越市柿崎区柿崎 地図

木崎山に築かれた長尾氏(上杉氏)の重臣として活躍した柿崎和泉守氏の居城です。
近くを流れる柿崎川が天然の堀とも言われています。
現在は北陸自動車道・柿崎インターチェンジの料金所と
国道8号を結ぶループ状の道路に囲まれています。



国道8号線

正面の橋の右袂の茂みが柿崎城です。


入口

国道沿いを歩いていると入口が見えて来ました。



ここは国道8号沿いの北東側にある入口です。


案内看板

案内看板によると、入口は全部で3ヶ所あるようです。



藪で断念か?と思いながら進んでみると
人が通る道だけはあるようで、とりあえず行けるところまで行ってみることに。



蜘蛛の巣を払い除けながら登って行くと
大きな裏向きの看板が見えて来ました。



表に回って見ると、大きな柿崎城跡の文字が見えました。
看板全体を写したかったのですが、周囲は藪、足元は落ちそう…ギリギリまで
後ずさりしたものの下がりきれないので、真下にしゃがみ込んで見上げるように撮影。



とにかく人が通る分のスペースしかなく、主郭まで導かれるまま
進むしかない。


主郭

少し開けた場所に出ました。
奥の方に展望台らしきものもチラ見出来るので、どうやらてっぺんに到着したようです。


展望台

ここに登れば様子が分かるかなと期待が膨らみます。


眺望

ありゃ、海がちょっと見えるだけで下々の様子はまったく見えません。



ちなみにこちらが主郭内の様子です。
少しだけ開けています。
とにかく周囲は草木に囲まれています。



他2ヶ所の入り口からのアクセスも覗いてみたのですが、
あまり先へと進みたくない状況だったので「この先にも出入り口があるのね」程度で
引き返して来ました。


とりあえず、看板と展望台だけは往来があるのかなという感じで
他は藪でよく判りませんでした。
そもそも道路になってしまった時点で遺構はほぼなくなっているとは思うので
柿崎城があったということと、ループの中に城址があるという話題性だけはあるのかなと思います。
蜘蛛の巣に引っ掛かりまくるので、やはり冬に来るのがおすすめです。


令和3年7月18日登城



鯖街道の珍味へしこ

2021年07月16日 | グルメ
🍶 へしこ


「へしこ」と呼ばれる福井県若狭地方の伝統料理があります。
青魚を塩漬けにしたあと、ぬか漬けにして一年~二年の長期にわたり本漬け熟成したものです。
福井県から京都府まで続く「若狭街道」は、若狭湾で水揚げされた鯖を京都まで運んでいたこともあり、
「鯖街道」と呼ばれるようになったことでも知られています。

鯖は足が早い食材ですが、日持ちをさせるために編み出された調理法で、
冬場のたんぱく源の保存食として鯖街道沿線の宿場や、京都などで重宝されていました。


日本海側へ行くと、つい「カニ」食べよう!と思ってしまい
このような伝統的な食べ物が頭に浮かばなかったのですが、攻城団の団員総会後に
団員さんたちと食事をした時に、初めて食べてみました。
福井の地酒と頂いて、めちゃめちゃ美味しかった。
ほんとに酒の肴には最高です。
良いものを教えていただきました。
次は「なれ寿司」も食べてみたいものです。



津山ホルモンうどん

2021年07月13日 | グルメ
津山ホルモンうどん

居酒屋「金両」 【場所】津山市大手町2−2 津山セントラルホテルタウンハウス1F 地図

津山の食文化としては、古くから牛馬の市が開かれたように、牛馬の流通の拠点だったようです。
明治時代以前に肉食が禁止された近江などでもあった「養生喰い」は、
「健康の為に食べる」・「薬として食べる」という意味で、
津山藩の領内では牛肉を食べることを江戸幕府に許可されていました。
そのため津山の牛肉は全国的にも有名になり、名物となりました。


近年、酒のつまみの一品として食べられていたホルモン焼きに
締めの一品としてうどんを一緒に焼いて食べていたのが、
ホルモンうどんの起源だとされています。
津山城へ行った際、夕食に食べたのですが、
帰りにはホルモンうどんのタレを買って帰りました。万能なタレです!




四方田氏館(埼玉県)

2021年07月12日 | 陣屋・館
四方田氏館よもだしやかた
別名堀の内
構造
築城者四方田弘長
築城年代鎌倉時代
指定史跡
場所埼玉県本庄市四方田 光明寺 地図

武蔵七党のひとつである児玉党に属し、四方田を本拠地としたことから
四方田氏を名乗り、この地に館を築きました。
四方田氏の名前は「北条本」と呼ばれる戦国時代の武将たちに
愛読された「吾妻鏡」にも見られます。



駐車場

光明寺の駐車場をお借りして現存する堀跡を散策。
正面に見える畑が主郭です。


山門

光明寺の山門です。
いつもながら、先ずはお参りをしてからの散策とします。


本堂

外堀と内堀の間に光明寺があります。
光明寺の東側が主郭となり、外堀は道路と化しています。


内堀跡(西側)

光明寺の東側には今でも内堀跡が残っています。
ここは主郭との間の堀跡になります。



既に埋め立てられて、幅も狭くなっていますが、
堀跡が見えるように?草刈りもされています。


主郭

先程の内堀から東側が主郭となります。
主郭側には民家があるので、勝手に踏み入る行為は控え、
撮影もここまでに留めておきます。



先程の内堀の続きです。
南の方に長く延びていて、これ以上埋め立てられることなく
保存していただいている状況です。



内堀の北端です。
茂みからはっきりと堀が見ることが出来ます。


外堀(道路)を一周巡りチラリと見える堀に興奮しながら光明寺へ。
主郭には住宅と畑が広がり、この日は住人の方が畑で作業をされていたこともあり、
お邪魔しないよう光明寺側からそっと見るだけにして
短時間で切り上げて来ました。
それでも、残っている遺構が見られたので、それだけででも十分収穫でした。


令和3年6月27日登城


今回の参考本



延岡発祥 破れ饅頭

2021年07月06日 | グルメ
🍡破れ饅頭


破れ饅頭の由来は、天岩戸に隠れたアマテラスオオミカミをアメノウズメノミコトが木の小枝を持って舞い踊り、
この時の小枝が皇賀玉(おがたま・招霊)の木でした。
破れ饅頭はこのオガタマの実を形どっています。
そのため別名「オガタマまんじゅう」とも言われてます。
1605年(慶長10年)、延岡城の下町の製菓店が売り出したのが始まりで、
中町にあった佐々木磯吉菓子店が受け継ぎ広まりました。

近所のスーパーで期間限定で売り出していたので
早速買って食べてみました。
ほぼほぼあんこです。
皮はものすご~く薄く、中のあんこは昔ながらの甘さです。
(甘さ控えめではありません)
お茶🍵といただくのがベストです。



五十子陣(埼玉県)

2021年07月05日 | 百名城以外の城
五十子陣いかっこじん
別名五十子城
構造平城
築城者上杉房顕
築城年代1457年頃
指定史跡
場所埼玉県本庄市大字東五十子 地図

1454年(享徳3年)享徳の乱勃発後、間もなく構築された陣です。
享徳の乱は古河公方足利成氏方と関東管領上杉氏との争いで、
五十子に本陣を置き、上杉氏は新田荘から足利荘を攻め一旦は成氏を古河から追うことに成功。
しかし、その後成氏に五十子陣を攻められ、上杉政真が上杉顕定が死去すると
上杉顕定が長尾景春に五十子陣を追われ、群馬県前橋市にある宿阿内城へ逃げ込んでいます。
このとき五十子陣は激しい攻撃を受け崩壊しました。



てんぐ茶屋

主郭にあるという「てんぐ茶屋」を目標に五十子陣跡へやって来ました。


稲荷神社

主郭内にある稲荷神社。



陣の守護神として当時からあったとされる稲荷神社が
当時のままと言うわけにはいかないのですが、現在でも残っています。


主郭



城山館

城址を意識した建物のようです。


女堀

この水路はかつての女堀の名残であろうか…。



城を想像させる塀。
ここにはかつて土塁があったと思われ
主郭と二の郭の間の土塁と堀があった場所でのようです。


二の郭

二の郭から主郭方面を見ています。


宿阿内城や白井城など、わりと至るところで話題となる五十子陣での合戦。
気になっていたのですが、今回狙って訪れた訳ではなかったので時間つぶしに、近くに史跡は無いものかと
現地で検索したら近くに「五十子陣」があることがわかり、「じゃあ行かない理由は無い!」と
いうことで訪れてみました。遺構らしい遺構というものは残っていないものの、
やはり地形を見てみるとなんとなく名残を感じます。


令和3年6月27日登城


今回の参考本



水軍の賄い飯宇和島鯛めし

2021年07月02日 | グルメ
宇和島鯛めし

海鮮居酒屋がいや

鯛の刺身をご飯にのせ、生卵、ごま、ねぎ、のりなどの薬味をのせて特製タレでいただくという郷土料理です。

船上では火を使えないので、切身を醤油につけてご飯の上にのせて丼物にして豪快に食べたのがはじまりで、
「宇和島鯛めし」は宇和海の日振島を拠点に活動していた伊予水軍が
船上で食べられる賄い飯として誕生したといわれています。
海賊達が酒盛りをしながら刺身を食べている時に、締めの料理として酒盛りをした茶碗に
ご飯をよそって残った刺身をのせて食べたのではないかと言われています。
鯛めしが誕生した当時は鯛に限らず、白身でも赤身でも魚の刺身ならどれでもOKで、
鯵などの刺身も使用していたいいます。
ちなみに、鯛だけを使うようになったのは昭和に入ってからと言われています。

また、「宇和島鯛めし」は元々は「ひゅうが飯」と呼ばれていて、日振島が訛ったから、
もしくは九州の大分、日向の国から伝わったので「ひゅうが飯」と呼ばれる様になったとの説もあります。

このように海上で作られた漁師めしだったのが由来なので
炊き込みご飯のような鯛めしとは全く違うのが「宇和島鯛めし」の特徴です。





胃に優しい思いやりの白石うーめん

2021年07月01日 | グルメ
白石うーめん

白石うーめんは、白石の城下町にいた浅右衛門という青年により白石温麺は誕生しました。

今から約400年前、浅右衛門は胃腸が弱く病弱な父親のために
「消化が良く元気になる食べ物はないか」と、毎日方々を探し回っていました。
ある日、旅の僧から、油を使わず消化に良い麺があると聞き、その製法を伝授してもらいました。
浅右衛門はさっそく小麦粉と塩水から作る製法で、麺を完成させました。
その麺は消化が良く、滋養となり、父親の胃病はたちまち回復していったそうです。

その後、浅右衛門の造った麺は評判を呼び、
白石城の片倉小十郎の耳にも入り献上されました。
すると病の父を思いやる心から、この麺が誕生したことに感銘を受け
小十郎はこの麺を「温麺」と名付け、浅右衛門は「味右衛門」と名乗ることを許されたと言われています。

うーめんの由来は諸説ありますが、代表的な話としては上記の逸話がよく知られています。
胃に優しい思いやりのある「うーめん」。
コロナ疲れも癒してくれるかも。。。