【上条城】じょうじょうじょう
【別名】ー
【構造】館城
【築城者】上条上杉氏
【築城年代】不明
【指定史跡】ー
【場所】新潟県柏崎市上条 地図
上杉謙信の時代、上条氏は謙信の軍事下に所属していました。
謙信が死去し、御館の乱が起きると上杉景勝方として奮闘しています。
ところが上杉景虎方の兵により上条城が奪われてしまいました。
その後すぐに景勝方の旗持城将佐野清左衛門尉によって上条城は奪還されました。
1600年(慶長5年)上条城は上杉遺民一揆の際、上杉氏の残党に攻略され、
これにより廃城となりました。
大手口
上条進修館(集会場)の西側に大手口があります。
南側には御殿川があり、大手道に架かる橋は御殿橋という名称なだけに
ここを通って館に入ることを示しています。
主郭
大手道を登り切って主郭に入るとすぐに、説明の城址碑があります。
ここまでは舗装されているので、車で登ることが出来ます。(転回できます。)
明治年間に小学校があったそうで、その頃の名残の石碑かな?
蜘蛛の巣と格闘しながら見に行くか…う~ん、迷った挙句「パス!」
というわけで、何の碑なのかは解からず終いです。
奥行のある主郭ですが、この時期草ボーボーで奥の方へは入って行く気がしません。
過去には、畑になっていたこともあるようです。
見渡すかぎり緑です。
奥には二の郭もあるのですが今回は断念です。
搦手側からの道も確認しましたが、稲荷神社がり、その上の二の郭は草で覆われ
やはりそこからの主郭への侵入は断念しました。
以前はこの方向に進修館があったとか。
下段の郭外に移っています。
虎口
この辺りの南側は通称「天守」と呼ばれ、物見櫓があったと推定されています。
上条城(じょうじょうじょう)、ちょっと連呼したくなる親しみやすい名称です(^-^)
もっと奥(二の郭)の方へ見に行きたかったけど、
この時期どこに行っても全容が見えないのは仕方ないこと。
見える範囲はこんなところです。
写真には収めてこなかったのですが、外周を回ると堀の名残や
城下の道っぽくクランクなどもあったり、橋の名前や地名にそれらいしい
興味深いものがあるのでとても気になりました。
令和3年7月18日登城
【別名】ー
【構造】館城
【築城者】上条上杉氏
【築城年代】不明
【指定史跡】ー
【場所】新潟県柏崎市上条 地図
上杉謙信の時代、上条氏は謙信の軍事下に所属していました。
謙信が死去し、御館の乱が起きると上杉景勝方として奮闘しています。
ところが上杉景虎方の兵により上条城が奪われてしまいました。
その後すぐに景勝方の旗持城将佐野清左衛門尉によって上条城は奪還されました。
1600年(慶長5年)上条城は上杉遺民一揆の際、上杉氏の残党に攻略され、
これにより廃城となりました。
大手口
上条進修館(集会場)の西側に大手口があります。
南側には御殿川があり、大手道に架かる橋は御殿橋という名称なだけに
ここを通って館に入ることを示しています。
主郭
大手道を登り切って主郭に入るとすぐに、説明の城址碑があります。
ここまでは舗装されているので、車で登ることが出来ます。(転回できます。)
明治年間に小学校があったそうで、その頃の名残の石碑かな?
蜘蛛の巣と格闘しながら見に行くか…う~ん、迷った挙句「パス!」
というわけで、何の碑なのかは解からず終いです。
奥行のある主郭ですが、この時期草ボーボーで奥の方へは入って行く気がしません。
過去には、畑になっていたこともあるようです。
見渡すかぎり緑です。
奥には二の郭もあるのですが今回は断念です。
搦手側からの道も確認しましたが、稲荷神社がり、その上の二の郭は草で覆われ
やはりそこからの主郭への侵入は断念しました。
以前はこの方向に進修館があったとか。
下段の郭外に移っています。
虎口
この辺りの南側は通称「天守」と呼ばれ、物見櫓があったと推定されています。
上条城(じょうじょうじょう)、ちょっと連呼したくなる親しみやすい名称です(^-^)
もっと奥(二の郭)の方へ見に行きたかったけど、
この時期どこに行っても全容が見えないのは仕方ないこと。
見える範囲はこんなところです。
写真には収めてこなかったのですが、外周を回ると堀の名残や
城下の道っぽくクランクなどもあったり、橋の名前や地名にそれらいしい
興味深いものがあるのでとても気になりました。
令和3年7月18日登城