むぎの城さんぽ

日本100名城&続日本100名城を巡っています。
近頃は山城歩きもエンジョイしてます!

甲府城(山梨県)

2018年06月29日 |  百名城
甲府城 こうふじょう
別名 舞鶴城
構造 平山城
築城者 浅野長政、浅野幸長
築城年代 1590年代
指定史跡 県指定史跡 国重要文化財
場所 甲府市丸の内1-5-4 地図
スタンプ設置場所 舞鶴城公園管理事務所(午前8:30~午後5:00)甲府城稲荷櫓(午前9:00~午後4:30まで、入館は午後4:00まで)休館日は月曜日(祝日は開館)、祝日の翌日、年末年始
城郭検定出題あり

甲府城は武田氏滅亡後、豊臣秀吉の命により築城されました。
豊臣秀吉が天下統一後、家康を関東へ移封し、代わって羽柴秀勝が甲府城主となりました。
羽柴秀勝が岐阜へ移封になると、加藤光泰が城主となりますが
文禄の役に加藤光泰が朝鮮へ出兵、加藤光泰が陣中にて病没。
その後、浅野長政・幸長が城主となります。
関ヶ原の戦い後は、徳川家康の命により平岩親吉が再度城代となり幕末まで存続しました。
現在は、城跡の一部が「舞鶴城公園」「甲府市歴史公園」となっています。


山手門

清水曲輪側にある駐車場を利用してここでは櫓門の見学と、
続100名城に選定された要害山城のスタンプを藤村記念館で
押すためにやって来ました。


山手渡櫓門

前回こちら側には来ていなかったので早速櫓の中も見学です!
この櫓門は石垣と石垣を繋ぎ、渡り廊下のような役割も果たしていました。


山手渡櫓門入口

無料で見学出来て、中では係の方が説明もしてくれます。



ここから稲荷櫓が見えます。
そして、富士山も見えるんですよ


鍛冶曲輪門

明治の初めまで残っていた門なので資料も残っていたため復元されました。


鍛冶曲輪

鍛冶曲輪は横に広く、日本庭園もありその先は自由広場になっています。
ここをまっすぐ上がって、天守曲輪を通って稲荷曲輪を目指して進みます。


坂下門跡

ここには城を建てる前にあったという一連寺の門があったとされています。
また、パンフレットによると石垣の積み方の違いから積んだ時代が違うとかんがれられているとのこと。
まったく気付きませんでした。


中の門跡

天守曲輪や本丸へ通じる門で、絵図には柵の門として描かれています。


鉄門

前回訪れた時は復元中で完成待ちの状態でした。
完成したらまた来ようねと後にしましたが、漸く見に来ることが出来ました。


稲荷曲輪

昨年トイレが火災(放火)に遭い、現在修復工事中です。
ここからチラリと中の建物が見えますが、立派なトイレが出来そうですね。


井戸

井戸があると覗いてみたくなります^^;
※この写真は以前のもので現在は工事中のためこちらの見学は出来ません。
ちなみに後ろに写っている建物が、燃えてしまったトイレです。


稲荷櫓(艮櫓)
鬼門方向にあったため、艮櫓とも呼ばれています。
武器庫として使用されていました。



稲荷櫓に登る石段の脇にはこのようにして石を割るとう見本のような
石が置いてあります。
甲府城は石垣の勉強にはかなり力を入れているのがここからも伝わります。


稲荷櫓入口



スタンプ設置場所

稲荷櫓を入ってすぐにスタンプ設置場所があります。


鯱鉾

展示されている鯱鉾は、万が一落雷など災害や事故で鯱鉾が壊れてしまった
という時に使う予備でもあるそうです。


最上階

以前はこちらでガイドさんに石の割り方などを教えていただきました。


模型



内松陰門

屋形曲輪と二ノ丸をつなぐ門です。



石材を割るためのクサビ打込み穴がくっきりと残されています。
石垣でこれを見つけるのが楽しくなりました。



学芸員のボランティアガイドさんが石垣の楽しみ方を細かく教えてくれました。なるほどです。
「足軽日誌」というブログを書いていらっしゃるので覗いてみて下さい。
甲府城の四季折々現地の様子が見られます。


兄弟石

ひとつの石をふたつに割った「兄弟石」があります。


暗渠(あんきょ)

排水するための穴で、排水溝の役割を持っています。


天守台

ここに天守が建つ日が来るのだろうか…行く末を見守りたいと思います。


広場

天守台からの眺めです。
この広場には鎌倉時代から庄城稲荷がありました。
そのため稲荷曲輪と呼ばれています。


銅門跡

鉄門に対する門で現在は礎石だけが残っています。


鉄門

今度は内側から見てみましょう!


日本庭園と鍛冶曲輪

手前の木々が植えられているのが日本庭園で、左奥の平地が鍛冶曲輪です。
鍛冶曲輪にはかつて会所(勘定所)があり、年貢や普請に関する事務を扱う建物がありました。


武徳殿

この日は見学できませんでしたが、とても立派な建物があります。
昭和8年に造られた建物で山梨県警本部の持ち物のようです。


遊亀橋



高石垣

築城時のままの野面積みの石垣です。
当時にしてはかなり高い石垣で、今見ても見事な高石垣だと思います。


防災新館地下駐車場

山梨県庁防災新館地下1階に展示されている石垣です。
楽屋曲輪に建つ山梨県庁の有料の地下駐車場へ車を停め直して防災新館地下1階に展示されている石垣も
見て来ました。
追手門近くの堀の石垣の一部だそうです。



私の石垣の楽しみ方を覚えたのはここが原点です。
天守の無い城はつまらないと思っていた頃、たまたまボランティアガイドさんが石垣の説明に
来てくれたことで石垣に関心を持ちました。
それからというもの石垣の魅力にはまってしまい、模擬天守よりもそこにで
時代の移り変わりを観て来た石垣の方がずっとロマンがあるなあと感じるようになりました。
私の城めぐりの転機になった城跡です。


甲府城といえば天守を造るのかどうかという問題で注目しています。
とても気になるところですが、いろいろな問題や意見があるのでまだまだ難しいようです。

足軽さんに会えるかなと淡い期待をしつつ散策していましたが、急に思い立ってアポ無しで
行ったので偶然の再会にはなりませんでした。
でも、まだまだ見逃した場所があるのでまた来ますね!


平成23年9月25日登城
平成30年6月3日再登城


御当地グルメ・おみやげ

ほうとう(小作)



日本100名城公式ガイドブック (歴史群像シリーズ)
日本城郭協会,福代徹
学研プラス

菅谷城(埼玉県)

2018年06月27日 | 続百名城
菅谷城すがやじょう
別名菅谷館
構造平城
築城者畠山重忠
築城年代不明
史跡指定国指定史跡 
場所比企郡嵐山町 地図
スタンプ設置場所埼玉県立嵐山史跡の博物館展示室受付(9:00~16:00)月曜定休
城郭検定出題あり

都幾川と槻川の合流地に位置し、断崖上に堀と土塁を築き
兵馬を置ける広い郭を備えた雄大で技巧性の高い城館です。
鎌倉時代の畠山重忠の居館として伝わる菅谷館跡ですが、現在残っている広大な菅谷城跡は
戦国時代(1487年~1505年)の上杉氏によって再整備されたものと考えられています。



駐車場

搦め手から入った「史跡の博物館」前の駐車場。
パンフレットは史跡の博物館でもらえます。


史跡の博物館

城址はけっこう広いので、まずはこちらで資料をいただき、博物館を見てから
周るのが良いと思います。
ちなみにJAFの会員証を提示すると入場料が割引になります。


スタンプ設置場所

続100名城スタンプはこちら。
菅谷館のスタンプは、博物館の展示室受付に設置しています。
入館時間(捺印できる時間)は、9:00~16:30(入館は16:00まで)です。
ただし、7月1日~8月31日は、9:00~17:00(入館は16:30まで)です。


重忠ロボット

博物館入口から入るとすぐに重忠ロボットが出迎えてくれます。
菅谷城城主の畠山重忠さんです。
ここで説明が流れるのですが、約2分と表示されていますがもっと長い事話してくれます^^;


畠山重忠の生涯と人柄

こちらのコーナーでは畠山重忠の生涯と人柄を紹介しています。
重忠は戦国期に宇治川の合戦や一の谷合戦、奥州攻めなどで功績をあげた鎌倉御家人でした。
しかし、菅谷から鎌倉へ向かう途中1205年(元久2年)北条氏の策略によって
二俣川にて生涯を閉じています。


比企城館跡群

比企地域には69ヶ所の城館跡が確認されていて、その中でも代表的な4城館が
菅谷城・杉山城・小倉城・松山城で国指定史跡になっています。
ここではその4城が紹介されています。


甲冑

学習コーナー脇に飾られている甲冑。


三の郭

郭は広く、搦め手から入ってすぐの位置にあり武士や騎馬の集合場所として使われていたのでは
ないかと考えられれている。


蔀土塁

円墳を利用した目隠しの土塁で中の様子が見通せないように造られています。


正坫門跡

三の郭の出入口で、西の郭より1mほど高く土盛をしています。


木橋(復元)

復元された戦国時代の木橋は防御のため奥(西の郭)から手前(三の郭)に向かって
上り坂になっています。


西の郭

この先が鎌倉街道が通っていた跡があったことから大手門があったと思われます。
また、オオムラサキの森やホタルの里が隣接しています。


オオムラサキの森

菅谷城に隣接してオオムラサキ活動センターがありオオムラサキの森の中を歩き、ホタルの里から
再び菅谷城南郭へと入るルートで散策しました。
この時期(冬)なのでもちろんチョウの姿はみられませんでした。


ホタルの里

小川が流れ込んでいて湿地帯になっています。
夏になるとホタルが見られるのでしょうね。


南郭

本郭より南側にあり、一段低い場所に位置します。
どのように使われていたかは不明です。



本郭と南郭との段差(土塁)はかなりあります。


水堀跡

当時はもっと深くて水が張り巡らされていたようです。



見事な堀と土塁です。
土塁の保護のために登らないよう注意書きもされてあります。


本郭

戦国時代に拡張され、畠山氏の居館もこの郭の中にあったものと考えられています。






奥の土塁の切れた部分が「生門跡」と伝えられています。
本郭への出入り口の一つです。


土橋

本郭の土橋と虎口です。
出枡形になっていて横矢をかける構造になっています。


二の郭

本郭北側を囲むように長く広く二の郭が配されています。
そのさらに北側に三の郭、西の郭が囲んでいます。



長く広い二の郭です。


出桝形土塁

横矢かけの構造で、本郭への侵入を防いでいます。


あずまや

公園のあずまや。水道もあります。


畠山重忠公像

竹を心にした竹筋コンクリート製で鎌倉の方向を向いて建てられています。


門跡

この辺りは複雑な構造になっています。


若い頃は別の目的でよくこの辺りに来ていたのですが、畠山重忠さんを見るたびに
また「畠山重忠像だあ」なんてよく言ったものですが、今となっては畠山重忠像(置物)が
欲しかったなあと後悔。
クイズラリーもっとがんばっておくんだったと思う今日この頃です。^^;


平成29年1月7日登城
平成30年6月17日再登城


続日本100名城公式ガイドブック (歴史群像シリーズ特別編集)
公益財団法人 日本城郭協会
学研プラス

高坂館(埼玉県)

2018年06月25日 | 陣屋・館
高坂館たかさかやかた
別名高坂陣屋・加賀爪氏陣屋
構造居館
築城者高坂氏
築城年代南北朝時代以降(14世紀頃)
指定史跡県指定史跡
場所東松山市高済寺834 地図

高坂館跡は高坂氏が居城した城跡で、高済寺周辺に位置しています。
周辺一帯は弥生時代からの遺跡群となっており、古墳も多く見つかっています。
高済寺には徳川家康に仕えていた加賀爪政尚をはじめとるする累系の墓所があります。




道路を走っていると、高済寺北側に残る土塁が見えて来ます。


都幾川リバーサイドパーク

高済寺を通り越し、その先で都幾川リバーサイドパーク側へ降りてみました。



高済寺の下まで来てみると土塁が見えて来ます。
その土塁へのアプローチの小道が見えるので虎口?のような小道を登って行くとことに。



すると、ちょっとした腰曲輪のようなスペースがありました。
高済寺にある加賀爪氏累系の墓所の真下に出ました。
小道は更に続き、一段上の道に出ました。
どうやら小道は、都幾川リバーサイドパークを利用する人たちの近道に使われているようです。


加賀爪氏累系の墓所下

見事な高さの土塁が見えます。
土塁の上には加賀爪氏累系の墓所が見えます。
ちなみに隣にこの小道を通らずに階段を作っていて通路建設中になっていました。
周辺には住宅も建設しています。


駐車場

高済寺の表に戻って来ました。
駐車場に停めさせて頂いて早速館跡の散策です。


高済寺山門

山門脇には加賀爪氏累代の墓があることを示す標柱もあります。


高済寺整備記念碑と城山稲荷

城山稲荷は以前は土塁の上にあったのですが、整備されて下の段に移動しました。


加賀爪氏累系の墓入口

高済寺の土塁側を裏の墓地に向ってあるて行くと加賀爪氏の墓所への入口が見えて来ます。


案内看板

土塁の登り口にある石碑と案内看板です。


土塁と堀

石碑と案内看板のある位置から土塁と、土塁下の堀が見えます。
この土塁と堀は道路で一旦切れますが、更に先の方まで宅地の間に所々痕跡を見つけることが出来ます。


加賀爪氏累系の墓所

土塁の頂点に加賀爪氏累系の墓所はあります。
加賀爪氏は徳川家康に仕え、小牧長久手の戦いや小田原征伐で武功をあげ、
さらに関ヶ原の戦い、大坂の役でも武功をあげ、江戸町奉行に登用もされたようですが
加賀爪直澄の代に相続時の書類の不備により、成瀬氏と領地問題を起こし
1681年(天和元年)に領地没収されています。
宝篋印塔は県指定文化財になっていて、やはり古さを感じる石塔です。



下段の墓所裏に何か遺構が残っていないものかと思い見てみたのですが何も残っていません。



更に探してみたのですが痕跡はみつからず。
ちなみにこの地中には弥生時代の生活の痕跡は残っているようです。


土地の整備が進行中で発掘調査をしてバイパスを通したり、住宅地と化しています。
また、古墳や弥生時代の遺跡が多く存在し、足元のほとんどが遺跡?というくらい
広い範囲で沢山の遺跡群になっています。
それからみると戦国時代の城郭は小さいものです。
とはいえ、遺跡の上に造られた城郭(館跡)はそう小さいものではありません。
北条氏から徳川氏まで戦に備え、何度も整備され軍事拠点のひとつとなっているのが高坂館です。



平成30年6月17日登城



関東の名城を歩く 南関東編: 埼玉・千葉・東京・神奈川
峰岸 純夫,齋藤 慎一
吉川弘文館

要害山城(山梨県)

2018年06月19日 | 続百名城
要害山城ようがいさんじょう
別名要害城・積翠山城・丸山城・石水寺城
構造山城
築城者武田信虎
築城年代1520年(永正17年)
指定史跡国指定史跡
場所甲府市上積翠寺町 地図
スタンプ設置場所甲府市藤村記念館(9:00~17:00、休館日は月曜日、祝日の場合は翌日、年末年始

要害城と呼ばれる武田信玄の父信虎が築いた山城で、武田家三代にわたり躑躅ヶ崎館の背後の守りとされた詰城です。
そして武田信玄はこの城中で生れたと伝わります。
南東尾根上には支城である熊城があり、厳重な防御態勢になっています。




訪れたこの日の気温は30度を超えていました。
入口まで様子を見に来てみました。


駐車場

登山口には駐車場が完備されているのでここまでは車で来られます。
ちなみに公共のバスを使うと午前中にはバスが1本しかないそうなので逃すと
甲府駅から徒歩で来るかタクシーを使うしかないようです。



この先に登山口があります。
目の前を団体が通過し、要害山へ登って行くようです。
城跡目当てなのか、八ヶ岳・秩父山系 山梨百名山に指定されているのでガチ登山か
いずれにせよ、日曜日の昼間の要害山は賑やかなようです。


積翠寺温泉要害

明治27年から続いた温泉宿で「信玄公ゆかりの湯」として親しまれて来ました。
残念ながら2017年1月31日をもって閉館となっていました。
人の出入りがあったので営業しているのかと思ったら、現在は障害者施設になっていました。


案内看板

登山口に案内看板があります。


登山口

ここから登城するようです。
しかし、今回は登城する体力が残ってないので草の生えていない涼しいシーズンになったら
登城しようと思います。
本日はこれより、甲府市藤村記念館へ向って続日本100名城のスタンプを押しに行ってまいります。


甲府市藤村記念館

甲府駅にやって来ました。
以前、武田神社で見かけた藤村記念館は駅前に移築されていました。
なんだか外壁の色も違う気がします。



だいぶシックな色に塗り直されています。


スタンプ設置場所

中に入ると早速スタンプがお出迎え。
受付の方から要害山城への行き方など教えていただきました。


模型

中には少しばかりですが躑躅ヶ崎館や要害山城についても模型やパネルで案内されています。


パネル

躑躅ヶ崎館や要害山城の位置関係がわかります。


教室

藤村記念館は、明治8年に甲斐市亀沢に建てられた睦沢学校校舎です。



この建築様式は、山梨県令藤村紫朗が奨励したとされる擬洋風建築で、山梨県内では藤村式建築と呼ばれているそうです。



左側には甲府城が見えます。
このあと、もちろん甲府城へ行きました。
暑さMAXでもうクタクタです…(暑さに弱い)


時間が無いのと暑さで要害山城登城はおあずけ。
既に熊目撃情報もあるとのお話しで、これから要害山に登られる方は熊対策が必要です。
それでも、登城する人が増えたので賑やかに登って行けば熊も近付かないかな?
甲府駅からの交通手段が少ないので武田神社、要害山城と歩いて往復する人も少なくないと
藤村記念館の受付の方から聞きました。
運動不足の私にはとても無理な話です
冬になったらトライします!


平成30年6月3日登城



 おぼえておこう!



続日本100名城公式ガイドブック (歴史群像シリーズ特別編集)
公益財団法人 日本城郭協会
学研プラス



ほうとう3,4人前と桔梗信玄餅10個入りのセット
隠し湯の里からの贈り物大森館
隠し湯の里からの贈り物大森館

武田氏館(山梨県)

2018年06月16日 |  百名城
武田氏館たけだしやかた
別名躑躅ヶ崎館
構造平城
築城者武田信虎
築城年代1519年(永正16年)
指定史跡国指定史跡
場所甲府市 古府中町2611 地図
スタンプ設置場所 武田神社宝物殿(9:00~16:00)
城郭検定出題あり

武田氏館は、1519年(永正16年)に武田信虎によって築かれた館で、
「躑躅ヶ崎館」と呼ばれています。
この館には信虎・信玄・勝頼の三代が60年余りにわたって居住していました。
館跡には現在も堀、石垣、古井戸等が残されています。


神橋

武田神社への参道。


中曲輪水堀

神橋から見た水堀。
主郭を囲むように四方に水堀が巡っています。


右近の桜



左近の桜



芽の輪守

6月30日は、「夏越の祓」と呼ばれる茅輪ちのわ神事が行われます。
茅ちがやを束ねて人が通れるほどの大きな「茅の輪」を決められたようにくぐることで、
罪穢れを祓い無病息災を祈るというものです。


拝殿

御祭神は武田信玄を祀る武田神社。


甲陽武能殿

武田信玄も好んだと伝わる能楽殿は、毎年5月に薪能がおこなわれます。
過去にはここでコンサートが行なわれたこともあるとか。


姫の井戸

信玄公の御息女誕生の際に産湯に使用したことから「姫の井戸」と呼ばれるようになりました。
別名は「茶之湯の井戸」とも呼ばれ、京よりの客人のもてなしにこの井戸の水で茶を点てたと伝わります。


武田琴水窟

江戸期に庭師によって考案された技術で、庭園のつくばいや庭先の手水鉢に備えられ
癒しの音として親しまれています。


中曲輪土塁

土塁と石垣がよく見えます。
この外側は空堀で、土橋を渡って西曲輪へと繋がっています。


土橋

渡っているときは、幅が広いせいかあまり土橋という感じがしないのですが、
堀の方から見るとしっかり石垣で固められています。


西曲輪南虎口

わりと大き目の石で内枡形の特徴も見られます。
木戸が取り付けられ真直ぐ侵入して来た敵をここで壊滅させたり、
武者溜まりにしたりする機能を持っていたと考えられています。


梅翁曲輪

道路を渡ったあたりは1582年(天正10年)に武田氏が滅んだ後に入った
徳川家康のによって増築された曲輪です。
現在は曲輪らしいところは見当たりません。


西曲輪水堀

しっかり水が湛えられていますが、いつ見てもこの色です。



鯉と亀と白鳥がいます。
なんだか縁起が良いような気がします。
これで水が濁って無かったら見栄えがいいんだけどなあ。


西曲輪

以前訪れた時には確かここに甲府市藤村記念館があったような記憶があるのですが…。
なくなっていました。
※今は甲府駅の方に移築され、続百名城の要害山城のスタンプ設置場所になっています。


井戸

この井戸の前でガイドさんが「〇〇が出る」とか、この井戸で夜写真を撮ると「写る」とか…そんな話を
他の団体さんに説明しているのが聞こえてきてしまい、ブルブル



ここには水が無いのに白鳥がおさんぽしてます。


西曲輪北虎口

ここも南側同様に内枡形になっています。


土橋

しっかりした土橋は、底の方は石垣で強化されています。
堀底を覗き込むと崩れてしまったと思われる石が転がっています。


要害山

正面のこんもりした山が要害山です。
要害山に詰城として築いたのが今回続百名城に選定された要害山城です。


味噌曲輪

この曲輪も後の徳川家康の手に寄って増築された曲輪で、整備事業として発掘調査中です。
ちなみに味噌曲輪は食糧・物資の貯蔵施設ではなかと思われています。


稲荷曲輪

ここには館の鎮守を祀ったという稲荷曲輪があったとされていますが、あまり手入れされていないようで
草が生い茂っているので中まで行きませんでした。


大手石塁

大手にやって来ました。
前回訪れた時には大手側には来ていませんでした。
大手門を守るための構造物で、ここでは三日月堀もみつかっています。
また、一文字土塁のようにも見えます。


厩跡

ここでは掘立柱建物跡がみつかっています。
武田氏滅亡後の外厩であると推定されています。


大手



木橋

鍛冶小路に繋がるこちらの木橋には門礎石が確認されています。


土塁・虎口・土橋

こちらの土橋からは石階段がみつかっています。


惣堀

鍛冶小路と大手側の曲輪を囲うように造られた土塁との間に
惣堀があります。



目の前にガイドさんが案内しながら歩いていたので、何かあるのか?と思い、
それとなく知らない御一行に着いて登ってみました。


竜華池

暑い中、登りきったところで要害山城の話をされていました。
ガイドさんの話に耳を傾けていると…
「あの山、登るの大変だから僕は登りたくないけど、皆さんは行ってみて下さい!」と
話していました。^^;


大手門

この日は結婚式も執り行われていたりで大変な混雑でした。
この大手門にも立派な土塁があります。


宝物殿

百名城のスタンプが受付に設置されています。
ここのスタンプは前回にも押していますが、せっかくなので
城郭協会さんから頂いたスタンプ帳があるので、またスタンプを押して来ました。



前回から6年以上が経ちました。
6年前は百名城のスタンプ集めが主だったのでサラッと見て帰った気がします。
最近になって大手側や西曲輪側の堀や土塁を見ていないことに悔やまれ、
リベンジにやって来ました。
当時は建物の無い城にあまり興味がなく、石垣や土塁、堀にも興味が無かった頃でした。
そして再びここに来る頃には恥ずかしながら、私もだいぶ成長したかなと思ってみたりもしました。
はしゃぎすぎて、また熱中症になりかけました。
甲府というところは暑いところというのを忘れていました(>_<)


平成23年9月25日登城
平成30年6月3日再登城



御当地グルメ・おみやげ

今回も食べた信玄アイス!前回と変わらずおいしかった(*^^)v



武田神社前おみやげ屋さんで売られている信玄餅味のソフトクリーム



桔梗信玄餅 8個布入
桔梗屋
桔梗屋


日本100名城公式ガイドブック (歴史群像シリーズ)
日本城郭協会,福代徹
学研プラス




飛鳥山城(東京都)

2018年06月14日 | 百名城以外の城
飛鳥山城あすかやまじょう
別名
構造平山城
築城者滝野川氏
築城年代1469年~1477年(文明年間)
指定史跡
場所北区王子1 地図

飛鳥山公園は明治6年に定められた日本最初の公園に定められたひとつです。
縄文時代・弥生時代から人が生活し、ここを飛鳥山と呼ぶようになったのは飛鳥明神が祀られていたからです。
豊島一族の城砦があったのが飛鳥山で、この一帯は豊島氏が統治していましたが
太田道灌によって豊島一族は滅ぼされてしまいました。
江戸時代中期に徳川8代将軍吉宗がこの地を王子権現に寄進し、沢山の松・桜・楓などを植え
以来、桜の名所として親しまれています。


王子駅

JR王子駅に降り立つと、目の前には城址らしき景色が見えます。
一目見てそれらしい何かを感じ取り、調べてみると「飛鳥山城」だということがわかりました。


案内看板

飛鳥山城跡一帯は公園になっています。


モノレール

雨も降っていて、ちょっと魅力的なこの乗り物で登城してみたいと思います\(^o^)/


山頂

モノレールを降りるとすぐが小ぶりな山頂モニュメントがあります。
王子駅側は斜面が急で城跡であったかのような地形ですがそれ以外城跡であったということは
何の表示も遺構もないので知らなければただの桜の名所としての公園です。



とりあえず散策してみようと思います。


桜賦の碑

佐久間象山作(松代藩)の「桜賦」の詩碑で、1881(明治14)年に
門弟の北沢幹堂(正誠)と小松彰(松本藩士)の二人が建碑を願い出て建立。
もともと別の場所にあったのですが飛鳥山隧道建設工事に伴い、御立場跡から下がった現在地に移転されました。
その際、象山が暗殺時に着けていた血染めの「挿袋」も発見されたといいいます。


植樹記念碑

公園内にはいろいろな石碑がありますが、それをひとつひとつ確認するのは大変です。
ちなみに、城跡に触れた石碑はありません。


歌碑

「そのかみの 山をおほひし 花ふぶき まぼろしにして あがる噴水」
 

時計塔

これは桜にふさわしい和風の時計塔ですね。


飛鳥山の歴史

飛鳥山の歴史が刻まれた石碑です。


多目的広場



噴水

眼下には庭園?と思いきや、ここが噴水でした。
水が吹き出していなかったので噴水だとは気付きませんでした。





児童エリア

遊具や機関車がある公園になっていて、この日も雨の中親子が遊んでいました。
そして、お城の滑り台!!\(^o^)/
…って、そのお城じゃないのよね~。(和風にできなかったかなあ^^;)


石碑

売店とトイレとの間にも石碑。


木橋

崖地側の遊歩道に架けられている木橋。


東側階段

東側は崖地となっていて階段せっちされていますが、それ以外の斜面をよじ登ることはできません。
そして、東側の崖地ではカワラケ投げが行なわれていたそうで、土皿を風にのせて
遠くまで飛ばす遊びが盛んでした。
明治の末には危険防止のため、禁止されました。


紫陽花

桜のシーズンが終わると、紫陽花が見ごろを迎えていました。
今の時期、みなさん紫陽花を見に来られているようです。
小道にあるというのが良いのでしょうね。雨がお似合いの花です
(私には堀の名残にしか見えない小道)


この日、ここを訪れた理由は城郭検定1級を受検するために中央工学校へ行こうと王子駅に降り立ったのですが
駅のホームで見た光景は城跡!即効「攻城団」へアクセス。
目の前の小高い山が飛鳥山城跡であるこがわかり、入口まで様子を見に行き、
試験が終わったら来よう!と登城したい気持ちを抑えて試験会場へ。
そして、帰りがけに登城しました。



平成30年6月10日登城



地形で解ける! 東京の街の秘密50 (じっぴコンパクト)
内田 宗治
実業之日本社

第12回日本城郭検定

2018年06月12日 | イベント・行事
第12回日本城郭検定を受検してきました。



受検したのは現在の最終砦、1級です。



今回の問題は7割以上が過去問でした。

ということは、自分のブログで予習・復習をしっかりやって100%の正解をしていれば

合格間違い無し!ということです。




が、自信満々に帰って来て自己採点してみると…あれ?



昨年と同じ間違いしています。


自分で作っておきながら、自分で活用しなかったブログ。


不正解が〇してある過去問(ペーパー)を見ていた私は昨年間違った問題を

同じように間違えました(>_<)バカですよね。

来年は、自分のブログを活用し、しっかり覚えて臨みたいと思います。

ちなみに、やはり登城した城の問題は新しい問題でも思い出して答えられるのですが

訪問したことのない城は思い出す引き出しが無いので、感に頼るしかなく

今後の課題としては訪問していない城を本やネットの画像を見ながらの予習が必要だなと感じました。

今回、私のブログを訪問していただいた方々は手応えあったのではないでしょうか。。。。




帰りは王子駅に隣接する「飛鳥山城跡」へ寄り道して帰りました。
遺構は何も残っていません。
紫陽花が奇麗な公園でした。


今後も城郭検定の過去問、更新して行きます。

第13回、以降も予習・復習できるように手を加えながら勉強していきたいと思います。



分析結果:過去問50問、新しい問題50問。
やはり1級は過去問を完璧に答えても合格出来ないということです。
ちなみに他の級に関しては過去問は70問なので、過去問を完璧に答えられれば合格ということになります。


よくわかる日本の城 日本城郭検定公式参考書
小和田 哲男
学研プラス



知識ゼロからの日本の城入門
小和田 哲男
幻冬舎



お城のすべて (学研雑学百科)
三浦 正幸
学研パブリッシング

武田信義館(山梨県)

2018年06月08日 | 陣屋・館
武田信義館たけだのぶよしかん
別名
構造居館
築城者武田信義
築城年代鎌倉時代
指定史跡市指定史跡
場所韮崎市神山町武田 地図

甲斐武田氏の祖で、武田信義が館を構えたと伝わる場所です。
源清光の次男として生まれ、甲斐源氏4代当主であり、武田氏の初代当主でもあります。


居館跡入口

周囲には駐車場はありません。
車では入って行けない道なのでここからは徒歩です。



畑と畑の間に道が延びています。
その先には標柱と案内看板が見えています。



柵で囲まれた史跡としての空間がここにあります。


標柱

立派な標柱も掲げられています。
…が、草に覆われています(>_<)

案内看板

館は250メートル平方で居館推定地の発掘調査では水晶や陶器も見つかったことも
記されています。


神山町付近の名所・旧蹟分布図

図を見ると、「御屋敷」・「御庭」・「御旗部屋」・「御酒部屋」・「的場」・「御堀」・「金精水」・「具足沢」などの
地名が残っているのが確認出来ます。
その他にも見に行きたくなるような史跡の名前が記されています。(また来よう)


土塁跡

ここが唯一残る遺構とも言われている土塁跡です。
何の石塔かというのはわかりませんが、土塁跡とは知らずに写真に納めていました^^;



農地と住宅地となり、その面影も見られず。
とは言え、平地に近い状態で人が生活するのに適している場所であれば遺構が残っていないのも
仕方ないことだと思います。


願成寺には武田信義の墓があるようですが時間の都合でそこまで寄ることができませんでした。
また、近くには白山城跡もあるのですがこちらを登る時間も体力も残っていなかったので次回のお楽しみに
とっておくことにします。


平成30年6月3日登城


[新装版]戦国武田の城
中田 正光
洋泉社


新府城(山梨県)

2018年06月06日 | 続百名城
新府城しんぷじょう
別名新府中韮崎城・韮崎館
構造平山城
築城者武田勝頼
築城年代1581年(天正9年)
指定史跡国指定史跡
場所山梨県韮崎市中田町中條 地図
スタンプ設置場所韮崎市民俗資料館(午前9時~午後4時30分 午後4時頃までにご入館ください)
城郭検定出題あり

織田信長、徳川家康連合軍に備えた完成をみることのなかった武田勝頼の築いた武田氏最後の城と言われいます。
武田勝頼は1581年(天正9年)に新府城へ移ったのですが、翌年3月には織田軍に攻め込まれ、
自ら城に火を放ちわずか68日目で廃城となりました。



駐車場

東出構向かいにある駐車場
ここに車を停めて県道(七里岩ライン)は車の通りが激しいので県道を歩かずに、首洗い池の方を通って
大手口の方へ。



鳥居のある階段から登らずに、まずは大手口の方から本丸を目指すことに
しました。


大手口

ここは桝形になっていて、二ヶ所に木戸を設けられていたようです。


三日月堀

武田の城らしく丸馬出しがあり、その外側を三日月形の堀が巡らされています。


西三の丸

三の丸は東と西と隣り合わせで二つに分かれてあります。


二の丸

二の丸の奥には馬出しが構えられています。


植込み

植込みの中に二の丸から本丸に抜ける近道のように造られた土橋も見えます。


蔀の構

蔀は本丸馬出しと本丸の間にあり、植込み、土居、塀の構えで
城内を見通せないないように出来ています。


本丸

昨年の大河ドラマ「真田丸」のロケ地となったため、真田丸の旗がはためいています。



築城するにあたり、この標柱にも記してあるように着工からたった8ヶ月の突貫工事で入城。
昼夜の堺無く工事を続行してほしいとの要請に人集めをし、工事を急いだようです。
工事にあたった人たちはかなりの負担と疲労にみまわれたようです。


武田勝頼公霊社

武田勝頼公を供養する石祠を建立。
両脇に長篠の戦いで討ち死した大塚と小塚があり、家臣14将ひとりひとりの霊位が建てられいます。


甲斐国主武田氏四百年追遠の碑

昭和57年に新府武田氏400年の記念祭に合わせて建てられた碑で、
内容はところどころ読める字を見るかぎり400年間の武田氏の歴史が書いてあるように見えます。
(本当はどうかな?)


新府藤武神社

勝頼が自ら火を放ち城とともに焼け落ちたが、神社だけは再建された。
「お新府さん」と呼ばれる藤武神社は武田庄と藤井庄を見下す場所にあることから
この名が付いたとされています。


神社の鳥居



乙女坂

階段を登らずに行ける階段脇に小道があります。


東出構

東西二つの土手のような張り出しがあり、この間には堀が発掘されています。
「出構」は鉄砲のような新鋭兵器をもって敵の攻撃に備えるものであったようです。


西出構

このあたりは湿地帯で地面がじめっとしています。
靴が泥だらけになります。
湿地帯を横断しようとして私も滑って転びそうになりました(>_<)


水堀

水堀と湿地帯で構成される堀は滑りやすく、ぬかるみに足が取られてしまいます。
湧水が水源となっており、水堀と湿地帯とセットの二重の防御となっていたようです。
廃城後に水田となり堀の深さなどははっきりしなくなってしまったが、深い堀などもみつかっています。


桝形虎口

水堀を土橋で渡り桝形の虎口に到着します。こちらが搦め手側になります。
土塁に囲まれ一之門、二之門が構築され桝形内部はわりと広い構造である。


二之門

ここで発掘された礎石や炭化材からこの門は燃えて倒壊したことが明らかになりました。
礎石の上には焼けた柱の跡がのこっており、柱の太さが判明している。
奥行きのある門があったことは分かったのだが建物の形までは判明しておらず、まだ復元には
至っていません。今後の調査に期待されます。


七里岩

城の西側は断崖で自然の要害によって守られています。
西側はこのような岩肌の崖が続いています。

わずか68日間の在城にしてはかなり造り込んだ城のように思えるのですが
織田、徳川軍はそれ以上だったということなんですね。




韮崎市民俗資料館

韮崎市内の民俗資料や考古資料を中心に収蔵展示しています。
駐車場は20台ほどでここからの眺めも抜群です。


続百名城認定証

新府城が続百名城に選定され、スタンプ設置場所として韮崎市民俗資料館にスタンプが置かれる
ことになったのですが、新府城のスタンプ設置場所はここだけなのでなんとしても
ここが開館してる時間に来なくてはなりません。


スタンプ設置場所

受付前に設置されています。
最近どこの続百名城スタンプ設置場所で言われるのが城郭協会さんから頂いたスタンプ帳を
「初めて見た、見せて下さい」と言われます。
一般的には続日本100名城公式ガイドブック に付属しているスタンプ帳を持って巡っていると思います。
私も最初はそちらを持って巡ってましたが、城郭協会の会員さんには城郭協会のオリジナルスタンプ帳が
もらえます。
しかも作りも内容も実は城郭協会オリジナルの方がしっかりしていて良いです。
最近百名城も城郭協会のスタンプ帳を持って再び巡り始めています。(まだ制覇はしていません^^;)


ロビー

ロビーには新府城の模型が展示されていて、二階には民俗資料や考古資料が無料で展示されているので
覗いて行きました。


武田の里コーナー

武田に関しての資料は少ないのですが、そのほかの資料としてはそれなりに面白い。


猫の膳箱

こんな時代から猫と共存、かわいがられていたことがわかる資料です。
でも、ちょっと猫がこわい^^;



私の幼い頃にはこんな家の風景がわりと残っていたような気がします。
(ちょっとオーバーかな^^;)


古代の展示物

出土した土器の大きさにびっくり。
どれもわりと大ぶりでこれを焼く窯を想像するとかなり凄いことではないのか!と
得意分野ではないながらも驚きでした。


今回は続百名城スタンプを押すために訪れた韮崎市民俗資料館を書き足すため、
再編集致しました。


平成29年2月18日登城
平成30年6月3日再登城



続日本100名城公式ガイドブック (歴史群像シリーズ特別編集)
公益財団法人 日本城郭協会
学研プラス

堀越城(青森県)

2018年06月02日 | 百名城以外の城
堀越城ほりこしじょう
別名
構造平城
築城者曾我太郎貞光
築城年代1336年
指定史跡国指定史跡
場所弘前市堀越 地図
御城印青森市中世の館

堀越城は弘前藩初代藩主津軽為信が最後の居城とした城です。
南北朝時代に曽我貞光によって築かれたとされ、1594年(文禄3年)大浦城から堀越城に移した
大浦軽為(後の津軽軽為)の居城になったとされています。


案内看板

まだ城址整備中とあって案内看板の支柱も簡易的なもので掲げられています。
国道7号線沿いにあって駐車場も完備されているのでここが見えた時にはすぐに
寄り込むことが出来ました。


二重堀

道路から見える土塁や空堀が見事です。
しかし、復元がきれいすぎて遺構と言うには疑問が残ります。



二の丸へと続く遊歩道。
とても奇麗に整備されています。
手入れがすばらしい!さすが国指定です。



奥の土塁には展望デッキが設置され、まだまだ復元工事中の様子が見渡せます。
後ほど登って観たいと思います。
三の丸は広いです。


三の丸掘立柱建物跡

三の丸の掘立柱建物跡が見えて来ました。
ここは家臣団の屋敷があったのではないかと考えられています。
木橋を渡ると、いよいよ本丸です。


木橋

復元された木製の橋。
この先は本丸です。


本丸

木橋を渡るとすぐが本丸東門跡、その奥が本丸御殿跡になります。
礎石を並べて建物跡の位置を示しています。


本丸東門跡

東門は三棟の建物から成る大きな門がありました。
ここにあった三棟の建物からなる櫓門が復元されたら…と思ってしまいます。
櫓門復元しないかなあ。


本丸跡

そしてここには本丸御殿がありました。
手前が中門跡、奥が本丸御殿広間です。

本丸御殿広間跡

城内で最も大きく、城主の公的な謁見の間として使用されていました。
格式高く、藩主より身分の高い人は車寄せから広間へ直接出入りする構造になっていました。
家臣は別の出入口で、中門から出入りするようになっていました。


本丸土塁

本丸は土塁に囲まれた五角形で、東西に虎口を構えています。
ドローンがあれば上からその形を見てみたいものです。


本丸展望デッキ

展望デッキはここ本丸と三の丸南側の土塁に設置されています。
ここからは岩木山を望むことが出来ます。



本丸と二の丸虎口の延長線上に岩木山が見えるように意図的に配置したと考えられています。



振り返って本丸御殿側を見ています。



本丸内の熊野宮への参道です。
庚申塔や三十三夜塔などの石塔が立ち並び、社などもあります。


熊野宮

ここはかつて奥向きの建物群があったのではないかと思われています。
城主の私的な場である居間や台所・長局などの建物が建ち並び、
本丸御殿を形成していた場所ではないかと考えられています。


境内

狛馬がここにもあります。
藤崎城でも見た狛馬がここにもありますが、狛馬も狛犬も大小二種類ずつあります。


本丸西門跡

この虎口には西門がありました。
足元には西門の礎石跡が印されています。
その先には内堀を渡る土橋があり、二の丸、外堀の土橋を抜けて小丸へと続きます。
そしてこの道筋は熊野宮への参道にもなっています。


内堀

本丸を囲む内堀は水堀になっています。


二の丸虎口

現在、小丸から本丸へと参道が続きますが、これは現代になってからの道筋で
本来は小丸から土橋を渡ると右に折れ、二の丸虎口を抜けて来るように出来ていました。


二の丸跡

二の丸跡北側からは鍛冶炉や焼土遺構が確認されていることから
生活の為の食糧の貯蔵や、生産に関わる倉庫などが配されていたものと思われます。
※ちなみにこの解説版の整備平面図の西門に東門と書かれていますがこれは間違いだと思われます。
(重要な門なので訂正お願いします)


掘立柱建物跡

柱が格子状に配置された総柱建物であることから、重い物を収納する
倉庫であったと考えられています。
また、二の丸虎口と本丸西虎口との間にあることから、視界を遮断することを目的として
造られた可能性もあります。


本丸南側内堀

本丸を巡る内堀。


三の丸南門跡

三の丸掘立柱建物跡とともに門の跡も発掘されました。
どのような門が配されていたかはよくわかっていなので想像するしかありませんが
礎石の位置を示すものからいろいろ想像出来そうですね^^;


中土塁

しっかり形どられています。
三の丸南門跡と外構までの通路には土橋も確認されたので復元しています。


外堀

外堀と外堀の間に中土塁を造っているところです。
更に奥の平地は外構平場で、石敷き通路や建物跡が見つかっているので
復元されることと思われます。


休憩施設と駐車場

国道を挟んで続く三の丸と北の曲輪側には雪置場と駐車場、
休息施設と旧石戸谷家住宅など一部建設中ですが復元、建設されています。
この古民家は江戸時代の農家住宅で堀越城のガイダンス施設としても利用される予定です。
遠くから車で訪れるものにとってはとてもアクセスしやすくなっています。



平成32年春の完成目指して城内の整備を行っています。
大規模な復元工事に期待して、完成を楽しみ待ちましょう


大規模に整備中で、随分力を入れているなあと土塁の上から見渡しました。
とてもありがたいことです。
が、先人たちの訪問記録を見ると復元前の自然な姿というのを目にすると
それはそれでちょっと惜しい気がしてしまいました。
浪岡城に比べると力の入れ方がこちらの方が続百名城向き?とも感じました。
このまま整備が進めばそのうち続々百名城には選定されるのではないでしょうか。^^;
国史跡になるとやはり整備の仕方が違うものですね。
完成を期待致します。。。。


平成30年5月6日登城


東北の名城を歩く 北東北編: 青森・岩手・秋田
飯村 均,室野 秀文
吉川弘文館

松尾山城(岐阜県)

2018年06月01日 | 百名城以外の城
松尾山城まつおやまじょう
別名長亭軒城・小早川秀秋陣跡
構造山城
築城者富島氏
築城年代
指定史跡町指定史跡
場所不破郡関ヶ原町松尾 地図
城郭検定出題あり


未登城の城








【公式】日本城郭検定過去問題集―2級・3級・4級編―
公益財団法人 日本城郭協会
学研プラス




関ヶ原 Blu-ray 通常版
岡田准一,有村架純,平岳大,東出昌大,役所広司
東宝

胆沢城(岩手県)

2018年06月01日 | 百名城以外の城
胆沢城いさわじょう
別名方八丁
構造平城
築城者坂上田村麻呂
築城年代802年(延暦21年)
指定史跡国指定史跡
場所奥州市水沢区佐倉河 地図
城郭検定出題あり



未登城の城







よくわかる日本の城 日本城郭検定公式参考書
小和田 哲男
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