むぎの城さんぽ

日本100名城&続日本100名城を巡っています。
近頃は山城歩きもエンジョイしてます!

越前大野城(福井県)

2024年01月07日 | 続百名城
越前大野城えちぜんおおのじょう
別名亀山城
構造平山城
築城者金森長近
築城年代1575年(天正3年)
指定史跡県指定史跡
場所大野市城町3-109 地図
スタンプ設置場所越前大野城一階
御城印受付窓口売店
城郭検定出題あり

越前大野城は、亀山に築かれた平山城で秋から春にかけての早朝に
条件によって雲海が現れ、年に10回程しか見られないため「幻の天空の城」と呼ばれ
幻想的な景色を見られることがあります。
織田信長に仕えた金森長近は、越前の一向一揆を平定した功績により
大野3万石を与えられ朝倉氏の居城であった戌山城に入りました。
しかし、戌山城は標高の高い山城だったため新たに亀山に大野城を築き居城としました。



駐車場

三の丸側にある駐車場にやってきました。
駐車場は比較的に多くいくつかあります。
今回は南登城路に近い場所にしました。


南登城路の門

通称搦手門とも言われていますが、実際の搦手門は北側にあったようです。


百間坂

江戸期まで、本丸に行く道は百間坂しかありませんでした。


遊歩道
明治期に造られた遊歩道のおかげでゆる~く登ることが出来ます。
途中、ショートカット出来る階段もあります。


土井利忠像

幕末の名君、土井利忠の銅像です。
その名君ぶりはあずまやの中に掲げられた案内板に記されています。


あずまや

あずまやの中には、なにやら看板が掲げられています。


幕末の大野藩の偉業

「幕末の大野藩の偉業」と書いてあり、休憩しながら読むのには
なかなか良い内容です。



さて、正面に見える階段を登るか、また回り道をするのかどっちにしようかな。。。


階段

坂道をゆる~く歩いて来たので体力が余っています。
ここらで、階段に挑戦しますか(^^)v
なかなか疲れそうな階段ですよ。でも、このくらいは運動、運動!


御当地自販機
そろそろ喉が渇くよなあ~と思った頃に自販機登場!
しかも御当地柄です(^O^)




いよいよ、本丸です!


お福池

織田信長の正室である濃姫の侍女だったお福は、金森長近の正室となり
お福の名がつけられた池があります。


武具蔵跡

門の上には武具蔵跡があります。



武具蔵前も木々が無ければとても見晴らしの良い場所です。
ここを進めば天守はすぐそこ!


天守入口

大天守と小天守の間の入り組んだ場所に入口があります。


受付

入城料を支払い、御城印を2種類購入。
城内は撮影禁止なので最上階まで撮影はお預け。


続・百名城スタンプ

続100名城のスタンプ設置場所です。


パンフレット

受付隣の大天守と小天守の間にあるパンフレット置き場には
攻城団のパンフレットも並んでいます!
もちろん、ゲットです


天守最上階

最上階へやって来ました。


戌山城・亥山城

雲海の撮影には戌山城・亥山城方面から撮るのが良いとされますが、
年に10回程しかそのチャンスが無く、例年その時期がやってくると
ニュースでも取り上げられるほど話題性のある天空の城です。
せっかく一眼レフカメラを買ってもらったことだし、ぜひとも、
戌山城へ行って幻想的な写真を撮ってみたいものです。
(それまでには腕を磨かねば…その道のりはまだまだ遠し…)



ズームしてみました。
普段戌山城から天空の城大野城を眺めるのですが、逆をやってみました。
この時間では、あっちに人はいないようですね。
大勢いるところをこっちから撮影してみたいものです


小天守と城下

小天守を見下ろしています。
現在の小天守天のある場所にはかつて大天守の狗之間があった場所です。
本来小天守があったのは武者登りがある方角にありました。


権現宮跡

ここにはお宮があったのかな。



かつての小天守はこの辺りにありました。


武者登り

天守台に折れ曲がった武者登り。
石垣は角が好きそして複雑に折れているのも好物です
この角度、とてもかっこいいです



天守台は野面積です。
ここからの角度が良い感じ。
でも、本当は手前に小天守があって、奥に大天守があったのかと思うと
全然違う光景だったんだろうなあと想像してしまいます。


金森長近像

なんとも愛嬌のある銅像ですね。
お城にある銅像としては勇ましさが無く、なんとも緊張感がありません。


城址碑

武士たちが登城する際に登った百間坂を抜けて番所を通るルートで来ると
この城址碑の前に出るのでこちらに城址碑が立っています。
私はなぜかいつも意識していないのですが、裏から入城してしまいます^^;


麻木櫓跡

大野城では、亀山の上には4棟の櫓が築かれていました。
ここ、麻木櫓はその中でも唯一二階建ての櫓でした。


金龍院

織田信長と殉死した嫡男・長則を弔うため金龍院という塔頭を建立しました。


亀山観音

亀山観音石仏は三十三観音とも呼ばれ、北登山道入口から南口まで三十三観音石仏が並んでいました。
しかし、伊勢湾台風により観音堂が倒壊したため、現在の地に集められ民衆を見守っています。
一体一体、いろいろな観音様がいらして飽きずに拝見できます。


北登り口

北の先端まで降りて来ました。
ここからは城下町にもなっている二の丸、三の丸の中を通過して
駐車場へ戻って行きたいと思います。


武家屋敷

ここは大野藩家老を務めた田村又左衛門の屋敷跡です。
他にも近くには旧内山家も武家住宅を今に伝えるため公開されています。


風車棚

夏秋限定の風車棚です。
カラフルな風車が風流ですね。


大野市民族資料館

鳥居の左に見える建物が、明治22年に建てられた大野治安裁判所を移築して、
明治・昭和の生活用品を展示している資料館です。


西登り口

最初はこちらに駐車して登城しようと思ったのですが、この階段を見上げ
案内看板を見て南登り口へと回りました^^;


駐車場

普通車が23台駐車可能です。
体力に自信のある人は、ここを登る方が天守に近いかも。



以前からずっと来てみたかった越前大野城。
前日の攻城団団員総会では、カメラマンの山口さんに、一眼レフカメラの使い方について
「とにかく最初からマニュアルを使って慣れるのが早く上達する」とアドバイスされ
団員のフロンさんに使い方を教えていただき、実践してみました。
ダイヤルやモードを変えるごとに数字が変わり、頭の中はぐっちゃぐちゃでしたが、
とにかく見よう見真似でマニュアルモードで撮影に挑みました。
保険でオートモードとコンデジ、スマホと大忙し。
良い感じに撮れたかな?と思いきや、あまりパッとしない画像…。
何が悪かったのかとカメラをよ~く見ると、ダイヤルはマニュアルなのに
フォーカスモードの切り替えをするのを忘れていました。

腕をあげて、ぜひ雲海に浮かぶ越前大野城を戌山城側から撮影してみたいものです。
そんなチャンスがいつか訪れることを願い、大野城を後にしました。


令和元年8月25日登城
令和5年11月25日再登城



続日本100名城公式ガイドブック (歴史群像シリーズ特別編集)
公益財団法人 日本城郭協会
学研プラス


増山城(富山県)

2023年04月04日 | 続百名城
増山城ますやまじょう
別名和田城
構造山城
築城者二宮円阿
築城年代1363年(貞治2年)以前
指定史跡国指定史跡
場所砺波市増山 地図
スタンプ設置場所砺波市埋蔵文化センター(9:00~17:00)
御城印砺波市埋蔵文化財センター窓口
空撮USHISUN Aerichan  提供 ushisun











続日本100名城公式ガイドブック (歴史群像シリーズ特別編集)
公益財団法人 日本城郭協会
学研プラス

本佐倉城(千葉県)

2023年02月06日 | 続百名城
本佐倉城もとさくらじょう
別名将門山城
構造平山城
築城者千葉輔胤
築城年代1469年〜1486年(文明年間)
指定史跡国指定史跡
場所印旛郡酒々井町本佐倉 地図
スタンプ設置場所酒々井町中央公民館(8:30~17:00)
京成本線大佐倉駅
空撮 むぎとうしの歴史さんぽ  

本佐倉城は千葉氏代々の居城であった千葉城が内紛により戦場となり荒廃したため
新たに築いた城で豊臣秀吉によって滅ぼされるまで居城とした城です。
城の周囲には酒々井宿、本佐倉宿、鹿島宿、浜宿湊と東西南北に城下町が広がっていました。



酒々井町中央公民館

まずは酒々井町中央公民館で続100名城のスタンプを押しに来ました。



玄関を入るとわかりやすい看板があります。
右奥のトイレの前にあります。


スタンプ設置場所

スタンプ設置場所の右側にはパネルや展示物、パンフレットがあるので
ここで入手してから城跡へ向かいます。


駐車場

入口には標柱がります。
東山馬場に駐車場とトイレがあります。


城跡碑と案内看板

案内看板横にあるボックスの中にパンフレットがあります。
このパンフレットは散策マップになっていてとても便利な逸品ですので
ぜひ、入手してから散策しましょう!


東山馬場(Ⅴ郭)

沢山の矢盾が見えるこの場所はその名の通り馬場で、馬の飼育がされていました。
ここからは建物跡は発見されていません。


Ⅳ郭

右側には堀底道に沿って塀があり、正面に門があったと考えられています。


大堀切

城山と奥ノ山を分ける堀切で、ここから門の跡が見つかっています。
城山と奥ノ山を繋ぐ木橋が架かっていたことも推定されています。


城山通路

この道は主郭への唯一の通路です。
当時は砂によって舗装されていました。


城山虎口

「左折れの坂虎口」と言われる虎口で門を入ると
土塁にぶつかり直角に左へ曲げられる構造になっています。


城山門跡

ここにも主郭への最後の門がありました。
周囲は土塁と塀で囲まれていていました。


城山(Ⅰ郭)

主殿や遠侍があり、城主の生活の間であり来客を迎えたり、
宴を催したりする空間がありました。



台所や倉庫のような建物もあったとみられ、
庭園も築かれていたようです。



城山通路を戻り、途中の分岐から奥ノ山(Ⅱ郭)へ向かいます。


奥ノ山(Ⅱ郭)

妙見宮があり、儀式や儀礼のために使われていた郭です。
5代目と8代目の城主はここで元服しました。


妙見宮跡

この辺りから妙見宮のものと思われる約15m四方の基壇がみつかっています。
妙見様は千葉氏の守り神です。





倉跡(Ⅲ郭)

倉跡は3段で構成されていました。



奥ノ山から見た一番広い倉跡です。
セッテイと隣り合った場所になります。



炭化米がみつかっていて、倉などがあったことから
倉跡の名が付いた郭です。



東山馬場まで戻って、東山虎口の方へやって来ました。
ビューポイントがあるので土塁の上に登ってみたいと思います。


ビューポイント

見張り台にするために盛られた土塁でしょうか。


眺望
晴れていれば筑波山が見えるはずですがあいにくの天気で見えません。
当時は目の前まで湿地帯が広がっていました。


東山虎口

東山虎口は蛇行した道と両側の土塁の上から中を見下ろせて
門も二つ設置された厳重な虎口になっています。



東山虎口を出てセッテイの方へ向かいます。


東光寺ビョウ(Ⅵ郭)

セッテイに向かって右手に開けた場所が東光寺ビョウ(Ⅵ郭)になります。



この先目の前奥は倉跡とセッテイの間にある堀切です。


南奥虎口

ここには木戸や柵列が設置されていて虎口から中の様子が
見えないようになっていました。


セッテイ(Ⅶ郭)

この通路の左手の茂みの奥がセッテイです。
そして、セッテイ山は人質郭とも接待館郭とも考えられています。


竹林の小径
この竹の近くに看板があるのですが、周囲を見渡すと
竹林の中でもこのあたりだけにこの変わった色の竹が生えているのがわかります。
金明竹」という節と節の間に緑と黄色の模様が入った珍しい竹を見ることが出来ます。
きれいな竹ですよね



ざっくり急ぎ足で巡って来ました。
まだまだ周囲の城域跡までは散策出来てないのですが
もらったパンフレットには千葉氏ゆかりの寺院や侍屋敷跡など
見所が沢山あるので時間のある方は散策してみてはいかがでしょうか。


京成本線大佐倉駅
最後にもうひとつの続100名城のスタンプ設置場所である京成本線大佐倉駅へ
スタンプの確認にやって来ました。
こちらは酒々井町中央公民館より長い時間開いているので酒々井町中央公民館で押しそびれて
しまったらこちらに来てみると押せるかもしれません。
※夜間どうなっているかまでは未確認です。


最初に寄った酒々井町中央公民館でもらったパンフレットは
何種類かあって、その中でも散策マップが現地の案内看板と一緒に
照らし合わせながら歩くととてもわかりやすいすぐれものです。
現地を歩く前にぜひ入手しておきたいパンフレットです。
これにより、急ぎ足ながらも効率良く見て回ることが出来ました。



平成31年3月23日登城






続日本100名城公式ガイドブック (歴史群像シリーズ特別編集)
公益財団法人 日本城郭協会
学研プラス


高天神城(静岡県)

2023年02月02日 | 続百名城
高天神城たかてんじんじょう
別名土方城
構造山城
築城者不明
築城年代1416年
指定史跡国指定史跡
場所掛川市上土方嶺向3136 地図
スタンプ設置場所大東北公民館(9:00~17:00)
城郭検定出題あり

桶狭間の戦いで今川義元が織田信長に敗れると、今川家は衰退しました。
その後、徳川と武田が攻防を繰り返し、1574年(天正2年)高天神城は武田勝頼により落城しました。
高天神城奪還のために徳川家康は、横須賀に砦として横須賀城を作り、
さらに高天神城を孤立させるために周辺を囲んで攻撃しようと6つの砦を築きました。
この6つの砦は「高天神六砦」と呼ばれ、
「小笠山砦」・「能ヶ坂砦」・「火ヶ峰砦」・「獅子ヶ鼻砦」・「中村砦」・「三井山砦」がありました。
この砦により、高天神城への補給路が断たれ、高天神城からの脱出も出来なくなりました。
すると兵糧も弾薬も尽き、覚なる上は全ての兵が城から討って出て激戦の末、全員討ち死にとなり高天神城は落城しました。



鳥居

「遠州を制せんとせば、まず高天神を制すべし、
高天神を制せずして、遠州を制すること能わず。」と言われる重要な城であったため、
徳川と武田が争奪戦を繰り広げていました。


搦手門跡

ここは、城の裏口である搦手門があった場所です。
先ほどの大きな鳥居は高天神城内にある神社のもので、
1601年(慶長6年)に横須賀城主大須賀出羽守忠政が造営しました。


案内図

こんな感じの山城です。
整備された遊歩道をどんどん登って行きます。


三日月井戸

三日月井戸の標柱が見えて来ました。



確かに三日月形の水溜まりがあります。
これは城内にある二つの井戸のうちのひとつで、礫層を染み出た水が自然に三日月形に溜り
三日月井戸と呼ばれるようになりました。



尾根に到着しました。
東西に道が分かれていますが、まずは本丸へ行って見ることにします。


的場曲輪跡

弓の練習場であったと推測され、この名が付いたものと思われます。


大河内石窟

この先に洞窟状の牢屋があります。
徳川家臣の大河内源三郎が武田に屈することなく勝頼の命に背き幽閉されました。
8年間もの長きに幽閉されていましたが、徳川家康が城を奪還し幽閉が解かれました。
家康から恩賞を与えられ、労をねぎらってもらいました。
後に長久手の戦いで討死しています。


本丸虎口

本丸の入口は枡形の虎口になっています。


本丸

近年の発掘で倉庫跡と思われる遺構も発見されています。
掘立柱建物跡と礎石建物跡の二種類が本丸北西で発見されました。


元天神社

現在高天神社は西の丸にありますが、最初はこの地にありました。
ここでは台風ごとに修繕をしなくてはならない状況だっため、
8代将軍徳川吉宗の代に西の丸へ遷宮されました。


御前曲輪

1934年(昭和9年)に、地元出身の軍医が私財を投じて
コンクリート製の天守閣(鶴翁閣)を建て、地元のシンボルタワーとしました。
天守閣(鶴翁閣)は落雷で焼失し、土台だけが残っています。
顔出しパネルがあったのでお約束の記念撮影(※お見せできません)はしましたよ😆


眺望



三の丸

小笠原与左衛門清有が大将を務めたことから与左衛門平とも呼ばれています。



三の丸に残る土塁です。


井戸曲輪

井戸曲輪には「かな井戸」があります。
鉄分を多く含む湧き水であることが
「かな井戸」と呼ばれる由来になったという説もあります。
武田信玄が城攻めの際に水脈を切ったために井戸が枯れたという。
次は左手に見える石段を登って西の丸へ。


西の丸

西の丸は岡部丹波守真幸が守備していたことから、
丹波曲輪とも呼ばれています。
こちらが先ほど行った元宮にあった高天神社です。


堀切

西の丸と馬場平の間の見事な堀切です。
西の尾根から攻めて来た敵を落とすここで防御するぞという意気込みが見えます!


馬場平

馬場平に到着しました。
見晴らしが良さそうです!



ここで馬の管理をしていたことから馬場平と呼ばれるようになったと言われています。
もしそれが本当であれば、馬をここまで連れて来るって…馬も人間も大変だったでしょうね。
実際は物見番所があった場所ではないかと推測されています。


眺望

奥の方に海が見えます。
眼下には高天神城を囲むように徳川軍の砦があります。
その動きをここから見ていたことでしょう。


甚五郎抜け道

天正9年3月落城の時、23日早朝、軍監横田甚五郎尹松は本国の
武田勝頼に落城の模様を報告する為、馬を馳せて、是より西方約一千米の尾根続きの
険路を辿って脱出し、信州を経て甲州へと抜け去りました。
そして、この道を犬戻り猿戻りと言います。


犬戻り猿戻り(甚五郎抜け道)

この先は、犬や猿でも引き返すという細尾根の難所があります。
登山ルートはまだまだ続いています。
時間が無いので、今回はここで井戸曲輪まで引き返すことにします。



井戸曲輪まで戻って来ました。
今度は、二の丸から北へ行ってみましょう。


二の丸

二の丸は発掘調査によって大きく三段に分かれていたことが判明しています。
建物や柵があったと思われ、焼けた跡のある礎石がみつかったことから
落城後に焼き払われたという伝承が、より現実的な話に近付きました。


袖曲輪



戦死者碑

堀切の間を下ると、正面に石碑があります。
「天正二年戦死者之碑」と刻まれています。


戦死の址

天正2年6月、堂の尾曲輪を守備していた本間・丸尾兄弟は、
武田軍の銃弾に当たり、討死しました。
この墓碑は1737年(天文2年)に末裔の本間惣兵衛が建てたものです。





切割

尾根伝いに攻めて来る敵を遮断するための切割(堀切)がされています。
曲輪の上から見ても、下から見ても見応えがあります。
ここでは井楼曲輪に向かって二ヶ所の切割が見られます。


堂の尾曲輪

ここで本間氏の武装が朝日に照らされ、それを目掛けて射撃されました。
弾は首のあたりに当たり、介抱虚しく命を落としました。
亡くなった兄に代わり、弟の丸尾氏が指揮を執っていたのですが
丸尾氏も銃弾を胸に受け、この日のうちに兄弟は亡くなってしまいました。


大東北公民館


続日本100名城のスタンプ設置場所になっています。



靴を脱いで、中に入らせていただきました。


スタンプ設置場所

スタンプを押して、御城印を購入しました。
すると、職員の方が説明をして下さり、二階へと案内してくれました。



武田方に落ちた高天神城を奪い返すため、
徳川家康が山頂から城を監視したと言われる楞厳寺山も見えるというので
この場所を案内してくれました。



掛川城へ行く時など、何度か入口近くを通過するたびに行かなくちゃと思っていて
なかなか時間を取れずにいましたが、ようやく登城出来ました。
山と言ってもしっかり整備されているので思ったより歩きやすかったです。
この日は三日月井戸を少し下ったところで、石壁から蛇が頭を出していて
目線の高さにいたので見つめあってしました。
にらめっこは私の勝ち!で蛇の方が去って行きました。
三日月井戸に住む神様だったのかな。。。

どうする家康では、高天神城の戦いはどう描かれるのか楽しみです。

令和4年3月27日登城






岩櫃城(群馬県)

2023年01月31日 | 続百名城
岩櫃城いわびつじょう
別名吾妻城
構造山城
築城者斎藤憲行
築城年代1405年(応永12年)
指定史跡
場所吾妻郡東吾妻町原町 地図
スタンプ設置場所平沢登山口観光案内所(4月~11月)・東吾妻町観光案内所(12月~3月)
空撮 むぎとうしの歴史さんぽ  
御城印平沢登山口観光案内所・東吾妻町観光協会

1521年~1528年(大永年間)には斎藤氏が城主となり吾妻一帯を支配していました。
甲斐の武田信玄は真田幸隆に岩櫃城攻撃を命じるも、二度失敗。
その後1565年(永禄8年)真田幸隆は得意とする調略と奇襲で落し、
以後上田城、沼田城の支城として真田氏の拠点となります。


岩櫃山

大河ドラマ「真田丸」オープニングでCG編集されて出てくる岩櫃山です。
てっぺんにお城や手前に滝などはありませんが密岩神社からの岩櫃山は迫力あります。


駐車場

近くにある駐車場は思っていたより広く50台ほどの駐車スペースがあります。


平沢登山口観光案内所

今回は続百名城のスタンプと、この観光案内所を見に来ました。


攻城団団員の皆さん必見!

入口のガチャです。
実はここに攻城団の御当地限定バッチが売られているのです!
お城EXPO2017の上州真田三名城のブースでプレゼントされていたものと同じです。
「続日本100名城 岩櫃城 選定記念バッチ」とされていますが、これは攻城団の御当地限定バッチなんです。
※現在品切れのため入荷待ち状態です。
攻城団でも販売していない、ここに来ないと入手出来ないものです。
そして私も着けている山城登城にはお供の「真田紐の熊鈴」もお勧めです。






模型

この模型がなかなか良い出来で、平沢登山口観光案内所の方もこの模型を使って説明して
くださいました。






この模型もお城EXPO2017の上州真田三名城のブースで展示されていたものです。


スタンプ設置場所

続日本100名城のスタンプがあります。



ちなみに冬季はこちらの観光案内所は閉鎖されています。




いざ、岩櫃城へ。
こちらは平沢登山口入口からの登城です。




入口には休憩所があり、パンフレットと自動販売機があります。
ここでガイドマップと飲み物を揃えていざ、出陣!



休憩所

休憩所には歴代城主が掲げられています。ちなみに縄張り図は探してみましたが見当たりませんでした(^^;



中城

登り始めてまず開けた所に見えて来るのは中城。


案内看板

中城を過ぎると、本丸と殿邸との分かれ道です。
ここは案内に従って登りの道を選びます。



本丸目指して坂道を登ります。
道は細いが人通りはあるので避け合います。



看板に従いひたすら登り続けると本丸の下まで来ました。
ここまで来ると結構疲れます。



丁度良いところにベンチがあるのでここで一休み。
本丸を下から見上げたところです。



ここを登ると右手に二ノ丸が見えて来ます。


二ノ丸跡  

三角形の二の丸はそれほど広くありません。



二の丸から見た折れのある竪堀。


大堀切

二の丸から本丸へ。


竪堀

本丸から竪堀を見下ろせるのですが、なかなかいい竪堀です。
誰が見てもしっかり分かる堀具合です。



いよいよ、本丸跡に到着。
真田丸の影響か、結構人が居ました。


東屋

休憩用の東屋もあるのでおにぎりくらい持って来るんだったなあと後悔。
ここには登城記念に一言書き込めるノートが置いてあるので早速一筆。


櫓台跡

主郭で一番高くなっていて、眺めも良く周囲を観察するための場所だったようです。


本丸土塁

登って歩ける武者走り状の土塁。


北枡形虎口

搦手道から本丸へ入る枡形の虎口です。
本丸を挟んで南側に大手道からの南枡形虎口が配されています。


四合目

城址は岩櫃山の四合目の高さに位置しています。


五合目

今回は、五合目まで足を延してみました。
この辺りも城としての手が入っているように見受けられます。



自然を利用した堀切のようです。
ここより北側の一段下には意図的に切ったと思われる堀切も見られます。



ガイドさんによると、発掘調査によりこの付近から石垣が見つかったとのことです。
その後武田氏によって改修されたものと見られています。


腰曲輪

南枡形虎口と二ノ丸から本丸に上る通路で本丸南面を守る郭とされています。


南枡形虎口

腰曲輪を通り南枡形虎口を抜けて本丸に入るのが本来のルートだったようです。


殿屋敷跡

南に少し下ったところに殿屋敷跡があります。



屋敷跡は現在畑となっています。


東吾妻町観光協会



岩櫃城バッチ

ガチャのカプセルから外した状態です。


空撮



今回一部内容の更新をしました。
NHKの大河ドラマ「真田丸」効果もあって知名度が上がり、続百名城に選定され
更にこの地を訪れる人が増えました。
途中の道にも案内看板が整備されたりと観光に力を入れている様子がよく表れています。



平成28年2月28日登城
平成30年5月19日再登城
平成30年11月18日再登城
令和5年1月29日再登城


続日本100名城公式ガイドブック (歴史群像シリーズ特別編集)
公益財団法人 日本城郭協会
学研プラス

黒井城(兵庫県)

2023年01月30日 | 続百名城
黒井城くろいじょう
別名保月城
構造山城
築城者赤松貞範
築城年代1334年~1338年(建武年間)
指定史跡国指定史跡
場所丹波市春日町黒井 地図
スタンプ設置場所春日住民センター
空撮 USHISUN Aerichan  提供 ushisun
城郭検定出題あり
黒井城は、赤井氏の居城で織田信長の丹波攻略の際に、二度にわたり明智光秀の攻撃を支えた城です。
また、光秀の重臣斎藤内蔵助利三は下館を陣屋とし、この陣屋で利三の末娘として生まれています。
その末娘の名はお福と言い、後の春日局と伝承されています。







続日本100名城公式ガイドブック (歴史群像シリーズ特別編集)
公益財団法人 日本城郭協会
学研プラス



杉山城(埼玉県)

2023年01月25日 | 続百名城
杉山城すぎやまじょう
別名
構造山城
築城者不明
築城年代不明
指定史跡国指定史跡
場所】比企郡嵐山町杉山 地図
スタンプ設置場所嵐山町役場(午前8時30分~ 午後5時15分)
空撮USHISUN Aerichan  提供 ushisun

杉山城は土造りの城の見本とも言われている城で、この城ひとつで多くの基本的防御の策が
見ることのできる城です。
杉山城・菅谷城・松山城・小倉城をはじめ中世城館の遺跡群が形成され
「比企城館跡群」として国史跡に指定されています。



嵐山町役場

続日本100名城に選定されたことで、スタンプ設置場所になりました。
まずはこちらでスタンプとパンフレットを収集します。


駐車場

久しぶりに来ました。
別の趣味で何度も訪れている場所ですが、城郭訪問で来ることになるとは思ってませんでした。
少し歩きますが、こちらの駐車場を利用して徒歩で登城も出来ます。


入口

スタンプが設置されたことで、土日も開いています。
疲れたら自販機もあるのでロビーでくつろいだり、トイレをお借りすることが出来ます。


スタンプ設置場所

ロビーにあるスタンプ設置場所です。
パンフレットなどの案内が充実しています。


案内図

以前訪れた時は大手側の積善寺の駐車場をお借りして登城したのですが、こちらはお寺さんの駐車場で、
城跡見学者用ではないので遠慮することにして、この案内図に従って玉ノ岡中学校の体育館前駐車場へ
行ってみることにしました。


臨時駐車場

玉ノ岡中学校の体育館前駐車場に来てみました。
見学者用の駐車場が用意されています。
ここからなら歩いてもすぐに大手口に出ます。
積善寺の駐車場に停めたり、さらに進んで出郭内に乗り入れてしまうのはやめましょう!



この先が大手口で、出郭に出ることが出来るのでこの部分は歩くとしても、
お寺の駐車場と大差なく、かなり近いところまで車で行くことが出来ます。


出郭

看板等も直されていて整備がされていました。
この日も居たのですが、くれぐれもこの付近まで車を乗り入れるのはやめましょう!



いつもながら手入れがされている城跡です。


パンフレット

ここにもパンフレットが設置されています。
以前訪れた時には落ちていた看板も、このとおり奇麗になって修復されています。


大手口

大手口の守りを固める出郭に立つと複雑な造りの大手口が見渡せます。
正面には土塁が立ちはだかり、深い堀がL字になって巡っています。


外郭

大手から入ると、まず外郭があります。
とにかく郭が多く防御の策も沢山施されています。


南二の郭



喰い違い虎口

南二の郭から南三の郭には喰い違い虎口が見られます。


南三の郭

比較的広い郭で、南側を見渡すことが出来ます。



切岸と連続する折れが見られます。


井戸郭

ここは井戸郭ですが、井戸は井戸郭の西側の一段下にあります。
井戸郭から井戸跡を見下す。


井戸跡

大きな石が蓋になっているこの井戸は今でも水がしみ出ています。
春には山椒魚が産卵をするそうです。
また、井戸の石蓋は廃城の際敵方に使われないために置かれたものと思われています。


北虎口と土橋

井戸郭から帯郭を抜けて回り込まないと本郭にはたどり着けない仕組みになっており
横矢掛りで敵を攻撃するという防御がされています。


本郭

本郭北側を向くと城跡碑と案内看板があります。



本郭南側を向くと広い郭の様子が見えます。
三方向に虎口を構えています。


東虎口

現在は埋め戻されていますが、ここから石積みが検出されています。
この他にも虎口では石が使われていることがわかっています。
東二の郭方面へ。


外郭の切岸

堀と土塁のメリハリが奇麗です。


帯郭



東二の郭

東二の郭は東三の郭に向かって自然の地形のまま、ゆるやかに傾斜しています。


東三の郭

緩い傾斜のままその地形を利用しています。


大手入口

お寺の駐車場約3台分程ありますが、城跡見学者用駐車場が別に用意されているので
そちらに停めるようにしましょう。


駐車場予定地

こちらが正式な駐車場の予定地です。
現在整備中なのでこちらが出来れば多くの車が置けるようになります。
この日もすでに3台ほど利用者がありました。


いつもながら手入れがされていて、以前訪れた時には看板が落ちていたり読めなかったりしていたものが
奇麗に懸けかえられていて更に整備がされていました。
また注目するのは駐車場の確保という部分ではだいぶ努力をされていて、今後を期待されます。
とてもありがたことです。
それと同時に、どうか積善寺方面からの車の乗り入れは避けるようお願いしたいです。
この日もお寺より更に上に進んだ出郭まで乗り入れてしまっている人がいました。
駐車スペースは無いので引き返すにしてもせっかく地元の方々や中学生が整備したり花を植えている場所を
破壊してしまいます。
せめてお寺の前の駐車場までで引き返すようにしてやって下さい。(杉山城も私有地です)




平成29年1月7日登城
平成30年6月17日再登城


続日本100名城公式ガイドブック (歴史群像シリーズ特別編集)
公益財団法人 日本城郭協会
学研プラス

諏訪原城(静岡県)

2022年11月15日 | 続百名城
諏訪原城すわはらじょう
別名諏訪之原城・牧野城・牧野原城・扇城・金谷城
構造山城
築城者馬場信春
築城年代1573年
指定史跡国指定史跡
場所島田市金谷 地図
スタンプ設置場所諏訪原城第一駐車場パンフレット置き場(終日利用可)
城郭検定出題あり

諏訪原城跡は、武田信玄が砦を築き、その後1573年(天正元年)、徳川家康に対する備えとして、
武田方の家臣である馬場美濃守信房に命じて、築いた城郭です。
城内に諏訪大明神を祀ったことから「諏訪原城」と名付けられました。
1575年(天正3年)、徳川家康によって落城すると牧野城(牧野原城)と改名され
武田方に渡った高天神城を攻略するための拠点となりました。
1581年(天正9年)高天神城が落城、武田氏が滅亡すると諏訪原城も役目を終え、
1590年(天正18年)頃には諏訪原城も廃城となりました。



ビジターセンター

ビジターセンターの駐車場へ利用しました。
まだ時間が早いので開いてなかったので、ビジターセンターは後回しにしました。



ビジターセンターを出てすぐに遺構が見えて来ます。
これは楽です。


パンフレット

ビジターセンターが開いてなくても、ここでパンフレットが入手出来ます。



道を挟んで右手には大手南外堀があり、
左手の茶畑になっているのは大手曲輪です。


大手南外堀

現在埋め立てられていますが、この堀は薬研堀になっていたことが発掘調査で判明しています。



歩き始めて早々に見事な堀が見えて来るので大興奮!
堀の掘り方が深さも幅も豪快です


今福浄閑戦死墓塚

武田氏の家臣で諏訪原城城主であった今福浄閑は徳川軍の攻撃で城内で討死しました。


城址碑と看板

城址碑と案内看板があります。



城址碑の前まで来ると、前方が開けて三日月堀に丸馬出が見えます。
諏訪原城の馬出は7箇所もあります。


二の曲輪中馬出

がっつり、はっきりわかりやすい丸馬出に感動!


土橋

二の曲輪中馬出と二の丸曲輪北馬出を結ぶ土橋を通って最北端の馬出へ。



この場所は、城郭検定の1級の写真問題になってました。
今回初めて訪れたのでこの問題は勘で当てましたが、あらためてこの目で正解を確認👍


二の丸曲輪北馬出

ここにある薬医門は、平成20年の発掘成果によって平成29年に復元されたものです。
木材の一部は城内の樹を伐採したものを利用しているとのことです。
現在、更なる工事が進められているようです。


土橋

先程渡った二の曲輪中馬出と二の丸曲輪北馬出を結ぶ土橋を横から見たところです。
土橋の部分は保護のため橋が架かっています。


外堀

二の曲輪と二の丸曲輪北馬出の間のV字に掘られた薬研堀の堀です。


二の曲輪



仕切土塁

二の曲輪を南北に仕切る土塁があります。


本曲輪虎口

この虎口にもかつて薬医門があったと推定されます。
先ほどの二の丸曲輪北馬出の門と同様で、武田氏から徳川氏へ移行してからの
造られたものと考えられているようです。


本曲輪

本曲輪にある少し高くなった場所には、二層の櫓が建てられていたと考えられていますが
天守としての建物は築かれることはなかったようです。



本丸通路には石積みがされています。



まるで土の舞台?というような本丸の東側です。
一段低くなっているのですが、ここから島田市を一望できるような場所になります。



一応樹を伐採して島田市も一望出来るようになってます。
下にも曲輪が見えます。
どこから下を覗いてみても曲輪だったり堀だったり、土塁だったり、
とにかく造り込みがされていて手の入っていないところは無いです。


カンカン井戸

水の手曲輪の方へやって来ました。
少しじめっとした空気が流れているいる所で、水の手だけにやはり井戸があるようです。



カンカン井戸と呼ばれる井戸があります。
「カンカン井戸」と言えば、播磨の三木城にもカンカン井戸と呼ばれる井戸があるのですが
そこでの説明では、石を投げ込むと「カンカン」と音がすることからかんかん井戸と呼ばれています。
ここも同じことが言えるのでしょうか。(試していません)


水の手曲輪

湧水なのか、水が見えるほど地面はじめっとしています。
この先、県道に出て横切って出曲輪に行く事もできるのですが
二の曲輪方面に向かいます。


二の曲輪南馬出

こちらも丸馬出です。
お腹いっぱいになりそうなほどの沢山の馬出~。
ひとつ見られただけでも「おお~」てなるのに、どんだけあるんじゃい!


二の曲輪東内馬出

南東の角にある馬出で、東に向かって3ヶ所の小規模な馬出が築かれています。
3つのうちの一番内側にある馬出で、ここにある堀は武田氏が薬研堀で築いた後、徳川氏が箱型に改修しています。


二の曲輪東馬出

こちらも小規模ながら丸馬出で、先ほどと同じく薬研堀を箱型に改修しています。
ここでは門の礎石が確認されており、鉄砲玉も出土していることから
武田VS徳川の戦が想像できる場所にもなります。



眺望も良いですが北側下を覗き込むと、こんな面白い光景が見られます。


城址碑

諏訪神社入口にやって来ました。
鳥居横にも城址碑があります。


諏訪神社

武田勝頼が諏訪大社の分霊を勧請したという諏訪神社。
諏訪原城の名も勝頼の母の家であり、武田の支配した諏訪が由来となっています。


外堀

外堀がいかに大きいかおわかり頂けますでしょうか。
これは、見事というか圧倒されてしまいます。



さすがお茶処、山肌に「茶」の文字が!!


ビジターセンター

到着時に開いてなかったビジターセンターにやって来ました。
周る順番としては逆になってしまいましたが、ここでおさらいして帰ることにしました。


スタンプ設置場所

続日本100名城スタンプ設置場所です。
ばっちり押印しました!


御城印

そして、通常版の御城印が欲しいのでガチャして事務所でカプセルと御城印を交換してもらいました。


攻城団チラシ

攻城団チラシ!ありました。



模型とパネルが展示されています。


模型

とてもイメージしやすい良い模型です。


諏訪原城跡の雑木を伐採するための「家康が見た絶景が見たい!」プロジェクトで寄付をしました。
まだまだプロジェクトは続くであろうということで、今後の整備にも目が離せません。
整備されて随分と見学しやすなっていて、広大でメリハリのある土の城の様子がよくわかり、感動ものです。
良いものを見せてもらいました。
今後も期待しています!


令和4年3月27日登城








鞠智城(熊本県)

2022年07月25日 | 続百名城
鞠智城きくちじょう
別名久々知の城
構造朝鮮式山城
築城者ヤマト政権
築城年代7世紀後半
指定史跡国指定史跡
場所山鹿市菊鹿町米原 地図
スタンプ設置場所歴史公園鞠智城・温故創生館

鞠智城は、1350年前にヤマト政権が築いた城で、白村江の戦いで敗れた際、唐や新羅の侵攻に備えて築かれた
日本書紀などに記された重要な拠点であると考えられています。
九州を統治していた大宰府を守るために、大野城や基肄城に武器や食料を送る拠点として機能していました。



歴史公園入口

八角形の建物が見えて来るのですぐにわかると思います。


駐車場

無料の駐車場もあるのでゆっくり見学出来ます。
…が、すでに夕暮れ時です。
急がなくては続100名城のスタンプが押せません💦


温故創生館

到着した時にはすでに17を過ぎてしまっていました。
9:30~17:15(入館は16:45まで)ということですでに閉館していました。
管理人らしき方が外を歩いていらっしゃったので、ダメもとで声をかけてみたら神対応をしてくれました!



閉館したばかりでまだ職員の方がいらしたので中に入れてもらえました。
しかもスタンプだけでなく1階を案内してくれました。(本当に申し訳ない)



大した予備知識もなくやって来て私どもに
説明までして頂き、本当に感謝です。



外の施設もわざわざ私が見学するまで施錠を待ってくれていたので
急いで開いている建物の見学へ。


八角形鼓楼

鞠智城では、発掘調査によって八角形の建物が2基みつかっています。
実際どのような建物であったかは不明で、その特異な格好から想像して
鼓楼か見張台であったのではないかと考えられ、八角形鼓楼として復元されています。



この釘を使わない複雑で奇麗な内部も見られて良かった(^-^)


米倉

21棟の礎石建物跡がみつかっており、その中のひとつ米倉が復元されています。
ここでは炭化した米が出土していることから高床式で通気性が良く、
鼠返しが備わった建物を復元しています。


兵舎

いくつかみつかった建物跡のひとつで、わりと大きな建物跡だったことから
兵舎をイメージして復元されています。
こちらには沢山の資料が展示されていてとても見応えがあります。



鞠智城のイメージキャラクター「ころう君」がお出迎えです!
ころう君はこの兵舎に住んでいる鞠智城の巡回警備員さんなんだって。



ここ鞠智城跡だけでなく、日本にある朝鮮式山城や神籠石系山城など
古代山城を紹介したパネルが多数展示されています。





板倉

「落としはめ方式」を使った板壁を採用したことから板倉と呼ばれています。


宮野礎石群

大型倉庫「長倉」跡です。
ここからは焼けた瓦が出土していることから、屋根は瓦葺だったと考えられ、
火災が起きたことも考えられます。





貯水池跡

木簡や朝鮮半島の百済で造られたと思われる銅造菩薩立像など貴重なものが見つかっています。


長者山

「米原長者伝説」言い伝えがある長者山です。
現在は共同墓地になってますが、かつては4棟の建物跡が残り、
「米原長者の御金蔵」があった場所と伝わります。


長者山展望広場休憩所

この地に似合う立派な休憩所があります。



眺めが良さそうな雰囲気に期待してしまいます(^-^)


灰塚展望所

頂上に到着。
展望台があります。



360°の大パノラマが楽しめます。



天気が良いと遠くの方に雲仙普賢岳が見えるそうですが…霞で見えません。


不動岩

とても気になる突起を見つけたのでズームしてみました。
このレンズではこれが限界でした😢



この先は南側の防衛ラインとなる土塁や門跡が見られます。
時間の都合上今回はそちらまで見学せずに戻ることに。


鞠智城温故創生之碑

鞠智城整備事業を記念して建てられたモニュメントです。


西側の古代の城は日本国内の争いのために築かれたのではなく、唐や新羅との直接の戦いの舞台になる危険性が
あったため、大宰府を守ろうと周辺に築かれた城が沢山あるということを学びました。
鞠智城は、それらの城の支援基地として築かれた城であったと考えられています。
大宰府周辺や、西日本の古代の城について考え方が変わる訪問となりました。


令和4年5月2日登城


今回の参考本





唐津城(佐賀県)

2022年05月18日 | 続百名城
唐津城からつじょう
別名舞鶴城
構造平山城
築城者寺沢広高
築城年代1602年(慶長7年)
指定史跡
場所唐津市東城内8-1 地図
スタンプ設置場所唐津城天守閣1階
御城印唐津城天守閣1階

唐津城は、豊臣秀吉の側近であった寺沢広高が1602年(慶長7年)に
名護屋城の解体資材を使用して7年かけて築いた平山城です。
本丸には天守、二の丸には藩主の住居と藩庁があり、三ノ丸には藩士が住み
外曲輪には町人が住み、町奉行所が置かれていました。
廃藩置県によって廃城となった後は舞鶴公園となり、市民の憩いの場となっています。



地下道

市営駐車場から地下道を通って登城口へ向かいます。



地下道の中のは地下通路ギャラリーになっていて、
つい足を止めて見入ってしまいます。


登城口

このあたりはにゃんこがお出迎えしてくれます。


案内看板



東城内

左手の校舎がある場所は、かつて二の丸御殿があった場所です。



現在は早稲田佐賀中学校・高等学校になっていますが、周囲には石垣が残されています。


エレベータのりば(下)

なんと、天守などの建物ではない場所にエレベータがあります。
あちこちの山城に設置してほしい(^^;


斜行エレベーター

このエレベーターは外の景色が見える訳ではないのですが、
山の斜面に沿って登って行くのが扉の窓から見えて、斜めに登っていることに驚きました。


エレベータのりば(上)

100円で本丸まで楽ちんに到着!
これは素晴らしい(^-^)



本丸に降り立って、まっすぐ天守に向かうつもりが
眺めが良くて吸い寄せられるように海を見に行ってしまいました。


天守

唐津城の天守は記録が残っていないため、肥前名護屋城図屏風に描かれている名護屋城をモデルに
模擬天守が造られています。
天守台はあったが、天守は造られなかったというのが通説のようです。


入口




ここから先、博物館内は撮影が禁じられているので最上階までは
カメラの出番はありません。



さて、いろいろな展示物を見ながら最上階へやって来ました。


眺望

真下に見えるのが下曲輪、駐車場が花畑と城米蔵があった場所になります。


虹の松原

唐津湾の海岸沿いに緩い曲線が見えます。
「虹の松原」と呼ばれる場所で、唐津藩初代藩主の寺沢志摩守広高が
暴風と暴潮を避けるために植林したと伝わり、今では三大松原のひとつに数えられています。





猿回し

この日は本丸の休憩所前で猿回しが催されていました。
ここで秀吉に会うとは!(※お猿さんの名前は秀吉ではありません)


旗竿石

この石はもともと鍋島陣跡にあった旗竿石ですが、名護屋城へ運ばれて茶室または庭園の手水鉢として
使われていたと推定されます。
その後、唐津城へ運ばれて来たという経緯があります。



天守と化粧櫓の間を抜けて二の曲輪へ。



化粧櫓下の石垣前です。
近年本丸石垣の修復を行い、江戸時代より古い石垣がみつかるなど修復だけでなく
調査も進み名護屋城解体材使用信憑性も深まって来ました。


金刀比羅神社

二の曲輪に神社があります。
よ~く見ると鳥居の上に石がいくつも載っています。
鳥居の上に石を載せると願いが叶うという謂れがあるようです。
親切なことに、この鳥居はちょっと低めに出来ています。


井戸

天守下の二の曲輪にある井戸



井戸のあたりで天守を見上げると、この迫力です!





本丸櫓門

エレベーターを使わず、徒歩で坂口門の方から登って来ると
ここから本丸へ入ることになります。
天守の撮影スポットとして絶好の場所です。


藤棚

本来なら今頃が見ごろのはずでしたが、年々早くなっているようで
残念ながらすでに花は散ってしまったようです。


総締門跡




振り返ると桝形であるのがよく見えます。


坂口門跡

下を向いて歩ていると、お金が落ちていたくらいにニヤリとしたくなる穴発見!
ここは坂口門があった場所なので、ここには門の柱があったと思われます。


多宝塔

唐津城築城前は松浦川と町田川の水害から守るための寺社がいくつかあり、
そのうちの海仙寺というお寺が建てた多宝塔がありました。
土台より上の部分は既に失われており、今は小石がいっぱい積まれています。



早稲田佐賀中学校・高等学校以前は、舞鶴小学校があったという石柱ですね。
そして気になるこの出っ張った半円筒状の石垣はなんだろ?



遺構なのか現代のものなのかわかりません。
いずれにしても気になる構造物だ。


地下通路

再び地下通路を通って駐車場へ戻ります。


舟入門

藩主の出入りや米蔵に入れる米などの食料などの出入りに利用されていました。


城内橋

この橋の向こう側にも町割りと、水田が造られていました。


水手門

現在駐車場となっている場所は、花畑、城米蔵、更に先に水手門がありました。
舟入門から運び込まれたお米は、こちらの城米蔵へ運び込まれていました。


夜の唐津城

夜はライトアップされるというので、夜になって再び訪れてみました。



紫色に照らされた唐津城。(藤の色を表してる)
美しくもあり、不気味にも見える色合いです。


九州入りしてまず訪れたのが唐津城でした。
次に名護屋城へ行き、ライトアップが見たいのでまた戻って来ました。
最近は土の城を巡っていたので、やはり建物があると初心に返った気がしてお城に来たぞという気がします。
海と天守(建物)は群馬では味わえない光景なのでとても新鮮な気分です。


令和4年5月1日登城



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田丸城(三重県)

2020年09月05日 | 続百名城
田丸城たまるじょう
別名玉丸城
構造平山城
築城者不明
築城年代1336年(延元元年)
指定史跡県指定史跡
場所度会郡玉城町田丸 地図
スタンプ設置場所玉城町教育委員会窓口(村山龍平記念館内)
御城印玉城町教育委員会窓口(村山龍平記念館内)

伊勢参宮本街道と熊野街道の分岐点で、伊勢交通の要衝として栄えていました。
織田信長の伊勢侵攻により、伊勢北畠氏の田丸城は織田家の嫡男が送り込まれました。
その後信長の二男信雄が田丸城の大改修を行い、三重の天守を築きました。
しかし、天守が放火で焼失すると信雄は松ヶ島城を築いて移り
田丸城は次々と城主が変わり、1619年(元和5年)徳川紀州藩が成立すると
久野氏の居城として幕末まで続きました。



二の丸南東部の外堀

四周を水堀が巡り、北側は二重堀になっていた堀は
多くが埋め立てられ、外堀は南と東に残されているものが見られます。


大手口

ここには元は、外堀を渡る木橋が架かっていました。


駐車場

玉城町役場の駐車場へやって来ました。


中堀

内堀は石垣とともに良好に残っています。
蓮がいっぱいで、見頃を迎えて多くの人が見に来ています。


大賀蓮

蓮の花が堀と石垣に映えて、皆さんカメラやスマホで撮影しています。



蓮の見頃は7月~8月で、開花する午前中がおすすめです。


二の門

蓮の堀を堪能して、二の門へ。
大手から三の丸への入口になります。



城門は設置されず、ここで道をL字に曲げて
横矢を掛ける仕組みになっています。


蓮池跡

蓮池跡ということは、ここはもともと蓮池だったということでしょうか。


富士見門

田丸城が廃城になった明治維新の当時、城内には8つの門が残されていました。
三の丸にあった富士見門は江戸中期のもので、
かつては門の両側に長屋が付いていたことから、長屋門ともよばれていました。
乙部家に移築されたものがこの地に再移築されました。


案内看板

北の丸下の本丸への登城口にある看板です。
ここには5台ほどが駐車出来る駐車場があるので
本丸に最も近い駐車場と思われるので手軽に本丸を目指したい方はここまで
車で来られます。


本丸虎口

車止めのあるここから徒歩で約5分ほどで
本丸に行くことが出来ます。



この入り組んだ石垣、路面がアスファルトなのが残念ですが
美しいですよね。


城門跡

あっちも石垣、こっちも石垣、石垣だけでめっちゃ興奮します!



下には三の丸の駐車場が見えています。



北の丸東側の石垣です。


北の丸

北の丸には城山稲荷社があります。
やはり北側とあって、薄暗い曲輪です。



本丸東側の石垣です。
横矢を掛けるために直角に曲げているのは織田信雄の策略で
攻撃と防御を兼ね備えているとのことです。


本丸虎口

他の石垣と異なりこの場所には整えられた石垣が見られます。



角の石には加工の跡が見えます。
正面には鏡石も使われていて、さすが本丸の入口です。



いよいよ本丸です!


本丸

本丸は広く眺めが良い。
正面の低い石垣の上にはかつて櫓が築かれていましたが、
天正8年に金奉行玄智が金を盗み、焰硝蔵に火を放ち、
その火が城内へ燃え広がり、焼失してしまいました。
この時天守も燃えてしまうのですが、天守は改修されることなく
新しく別の場所に松ヶ島城を築き、信雄は田丸城から移ってしまっています。


西の眺望

本丸からの西の眺望は、眼下に田園が広がっています。
平に広がる田んぼを見ると、石高かなりありそうですよね。


記念碑

西側に出っ張った部分があります。
そこは櫓跡で、現在は記念碑があります。
ここからの眺めも非常に良く、物見的な櫓でもあったのではないかと想像出来ます。


天守台

三層の天守の穴蔵式の土台が残っています。
裾が広く登るに従い狭くなる階段は、他では見たことがありません。



穴蔵式になっているため、石垣に囲まれた部分が地下室のような
造りになっています。
天守の建物はこの石垣の上に建てられていました。


付櫓台

左の一段低い出っ張りの石垣が付櫓台です。


虎口

本丸と二の丸を繋ぐ虎口です。


土橋

本丸の二の丸の間の堀を渡る土橋です。
両脇には大きな堀(帯曲輪)があり、圧倒する石垣も見られます。


堀切(帯曲輪)

大きな空堀ですが、この堀切は二の丸、本丸、北の丸を繋いでいます。
二の丸から北の丸まで本丸へ登らずに、本丸北側を迂回ように回り込むことが出来ます。


二の丸

二の丸は、堀切の部分と虎口付近が石垣造りになっています。
北面、西面には石垣は使用されず、切岸のままの状態となっています。



足元は高石垣、目下三の丸が広がるが、現在は中学校になっています。
三の丸には御台所と呼ばれた居館があり、書院や対面所など政治を司る場所としていました。
田丸領の舵取りを行っていた場所になります。
訪れたこの日は、野球の試合が行われており賑やかでした。
また、すれ違った生徒さんたちは元気に挨拶をしてくれました


忠魂碑

お約束?の公園によくある忠魂碑です。


眺望

冬の早朝には富士山が望めることもあるそうです。
ところで、ここで紹介されてる画像には富士山が写っていないようですが…。
この日も天候が条件が揃わず富士山は見られなかったのですが、
次回パネルを交換することがあったなら、是非富士山が見えた時の写真をお願いしたい


富士見櫓跡

富士山の見える方角にある櫓です。
櫓台は大きくないので富士山を眺めて寛ぐような
優雅なものであったわけではなさそうですね。


二の丸虎口

枡形の構造で、二ヶ所の門を構えていました。
緩い坂ですが、両側の櫓門から攻撃される怖~い虎口です。
左側の石垣は櫓門の袖石垣で右が二の丸の石垣です。


金明水・銀明水

織田信雄が田丸城へ入ると、田丸城築城のため外堀を造るよう農民たちに命じました。
お城の外では、秋のとり入れが始まって忙しいというのに、たくさんの農民がかり出されました。
すると、外濠を掘ったために水質がかわって、民家の井戸水が濁り、
赤黒い水だけしか出なくなり人々は困ってしまいました。
ある日、お城のぬけ穴を掘っていた人夫が、城内二の丸の南石垣下で不思議な水が湧き出てくるのを発見しました。
汲んでも汲んでも透明な水が溢れてきます。
金明水・銀明水というこの水は神の水とされ、困っている人々には救いの水となりました。
この金明水・銀明水は、どんな旱魃の時でもかれることなく湧き出てきたという話が残っています。


二の門

二の門へ帰って来ました。
中から見ても、外から見ても、この折れと石垣は堅固さを感じますね。


奥書院

廃城の際、払い下げとなり農家に移築されました。
その後この地に復元されることとなり、城主久野氏の居間や寝室が
見学出来るようになっています。(要予約)



三の丸奥書院は御殿の一部で、
ここに残るのは城主の居間と寝所だけです。


村山龍平記念館

村山龍平記念館は、朝日新聞社を創始した
紀州藩旧田丸領に仕えた旧士族「村山龍平翁」の記念館です。
そして、続日本100名城のスタンプ設置場所です。


スタンプ設置場所

続日本100名城のスタンプを押して、アンケートに記入して、ステッカーと御城印を頂きました。


模型

天守の付櫓はどんなふうに付いていたのだろう?と思っていたら、
模型がありました。


田丸城郭縮尺模型

これで全体像が確認出来ます。


夫婦杉

大手二の門入口付近にあった樹齢350年の杉の大木。
昭和34年の伊勢湾台風により倒れたもので残った一部が保存、展示されています。


磁石橋

帰りがけに看板のある橋を通りかかり、車を停めてみました。
この橋は大手町から板屋町入口の善兵衛川に架かる石橋で、
南北に架かる橋だったことから磁石橋と呼ばれていたようです。


とにかく石垣が美しい。
続ではなく100名城でも良かったのではないかと思わせる規模の石垣に
ゾクっとしました。
やはり、藤堂高虎も入っていましたかという造りでした。
石垣好きにはたまらない城跡ではないでしょうか。

※本丸でカメラのレンズキャップ(キャノン)を拾ったので村山龍平記念館の窓口へ届けておきました。
高いものじゃないし、落しがちなものですが、心当たりがあってまた行くことがあるようでしたら聞いてみてください。


令和2年7月24日登城





続日本100名城公式ガイドブック (歴史群像シリーズ特別編集)
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津城(三重県)

2020年08月13日 | 続百名城
津城つじょう
別名安濃津城
構造平城
築城者細野藤敦
築城年代1558年~1570年(永禄年間)
指定史跡県指定史跡
場所津市丸之内 地図
スタンプ設置場所高山神社社務所(9:00~16:00)
御城印高山神社社務所
城郭検定出題あり

織田信包(信長の弟)が1580年(天正8年)に津城を創築。
その後、藤堂高虎公が四国伊予の今治(愛媛県)から移封、
1611年(慶長16年)に大規模な改修を行い、北側の石塁を高く積み直し
その東北と西北の両すみに三重の櫓をつくりました。
本丸を中心に出丸を置き、幾筋かの河流を城の外堀に取り入れ 低湿地ながら防御には堅固な城でした。



駐車場

お城東駐車場へやって来ました。
以前登城した際も、ここに駐車して散策した覚えがあります。


津まんなかガイド詰所

料金所となりに津まんなかガイド詰所があります。
しかし、詰所は新型コロナウィルスの対策でお休みしているとのことです。
パンフレットと続100名城のスタンプは高山神社社務所にあると教えて頂きました。


QRコード

ガイドさんが不在ということでQRコードを見てみると…
スマホが代わりにガイドしてくれるみたいです。
これはなかなか良い仕組みです。
登城前にぜひ、QRコード読み取って行ってみて下さい!



駐車場から石垣が見えていましたが、
早速模擬三重隅櫓がお出迎えです!


東の虎口

ここは、本丸と東の丸を繋ぐ虎口で、
外門の東黒門と内門の東鉄門の櫓門があり、枡形虎口になっていました。
それぞれの門内に番所を設けて通行人の監視をしていました。



まっすぐ本丸に入って右側に、三重隅櫓に登る階段があります。


模擬三重隅櫓

樹が邪魔してますが模擬三重隅櫓の入口正面です。
そもそもここには三重櫓は無く、黒鉄門の多門櫓があった場所です。



戌亥三重櫓、丑寅三重櫓があったことから
模擬三重櫓を造ったと思うのですが、この向きから見た破風は
三重を強調した破風の迫力あるデザインです。



多門櫓になっていた石垣の上を歩いて丑寅三重櫓跡へ。


丑寅三重櫓跡

本来の三重櫓はこの丑寅隅の石垣上に建てられていました。
先ほどの模擬三重櫓よりシンプルで、外壁下端に1列の海鼠壁が特徴の
東向きにの多門櫓と丑寅三重櫓にはありました。



そして、丑寅三重櫓跡の角から見下ろしてみると…
高さもありますが、この角の揃った石垣の積み方を見て欲しいです。
高虎らしい、反りの無い、直線的な石垣です。


北多門櫓跡

丑寅三重櫓と戌亥三重櫓を結ぶ、北側の多門櫓が載っていた場所です。
以前訪れた時は、もっと石垣が見えていて、ここからの
石垣と水堀がとても印象に残っていたのですが、今回は草だらけの光景です。



以前は戌亥三重櫓跡まで歩いたような気がしますが…。
雨の中、この草むらを突き進むのはちょっと無理かな


本丸

本丸の中心部に降りて来ました。
やはり一番目に付くのは藤堂高虎の騎馬像でしょう!


藤堂高虎像

この銅像は記憶に残っていました
やっぱり凛々しいですね。


高虎遺訓

「可為士者常之覚悟之事
一、寝屋をでるより
其日を死番と可心得
かやうに覚悟極るゆへに
物に動する事なし是可為本意」

なんとも緊張感の伝わる碑です。


戌亥櫓跡

本丸から西の丸へと渡る土橋から戌亥櫓があった高石垣を見ています。
水際に見える幅1m程の犬走は、一度堀を埋められたために近世になってから
修復されたものです。


日本庭園

現在日本庭園となっていますが、かつては番所や倉庫が置かれた
馬出し状の小曲輪になっていました。


入徳門

藩校、有造館の講堂の正門で赤門と呼ばれていました。
有造館廃校後は小学校や中学校、女学校や幼稚園の門となり、
昭和46年、現在の場所に移築され保存されています。


西の丸虎口

西鉄門と西の丸二階門で構成された枡形虎口が設けられていました。


玉櫓台

正面の石垣の上には玉櫓がありました。




ここには木の橋が架かっていました。



南側の内堀です。
かつては幅100mもの広大な水堀になっていたのですが
埋め立てられて残されたのはこれだけの幅です。


城山稲荷大明社

赤い鳥居がとても目立ちます。
商売繁盛!どうかコロナに負けないよう宜しくお願い致します。。。


高山神社

藤堂高虎を祭神とし、現在の津偕楽公園に建立されましたが、
明治34年に津城に移されました。
まずはこちらでお参りをして、社務所へ。


社務所

まだ、午前7時半頃でしたが、社務所にいらした方が対応して下さり
続100名城のスタンプを押して、御城印とお守りを購入しました。
時間外でしたが嫌な顔ひとつせずに、親切に対応して頂き本当に感謝です。


スタンプ設置場所

社務所の窓口に出して頂いてありました。



天守台南側を通ってお城児童公園へ。
角は三木積みの野面積みの石垣で、折れが綺麗に見える場所です。


埋門

南多門櫓石垣にある埋門跡は、高虎の改修より前に造られた
「局丸」へ通じる門として南側の犬走に繋がっていましたが、
局丸は高虎によって取り除かれたと伝わります。


お城児童公園

この場所もかつては水堀だった場所です。
かなり幅の広い水堀が本丸を巡っていたようです。


石垣の切れ目

公園のパンダと猿のゴミ箱の裏手の石垣に
古くからの城壁と新しく積まれた石垣の切れ目が見える場所があります。


天守台

先ほどの埋門から本丸に入ると、左手に天守台が見えます。
織田信包が五層の天守を築いたのですが、関ヶ原の戦いで被害を受け、
それ以降、再建されることはありませんでした。



手前にスロープか階段か?天守台に登る場所はここ?
それとも当時は多門櫓を頼りに天守台から離れた場所から天守を目指したのか?
天守台に登る入口がみつかりません。(登っちゃダメなのかも)


月見櫓跡

東側の多門櫓の南隅にあった月見櫓跡です。



本丸内の堀のようなデザインの場所(トイレ付近)は、水がグリーンになってます。
別の意味で綺麗です^^;


東の丸

内堀の中に島になっていた東の丸ですが
堀を埋め立てられたため、現在は陸続きでその形も分かりません。


内堀

北西の内堀です。
これだけでも十分そうな水堀ですが、かつてはもっと広かったのですね。


津で一泊し、ホテルのチェックアウト前に朝食を食べて朝さんぽにやって来ました。
一度訪れているので記憶を辿りながら歩いたのですが、いかに以前は何も考えずに
歩いていたことか…。
断片的な記憶は、やはり曖昧で再登城というよりも初登城と変わらない
目線で歩きまわりました。


平成25年5月3日登城
令和2年7月24日再登城


今回の参考本




続日本100名城公式ガイドブック (歴史群像シリーズ特別編集)
公益財団法人 日本城郭協会
学研プラス

美濃金山城(岐阜県)

2020年07月20日 | 続百名城
美濃金山城みのかねやまじょう
別名兼山城・鳥峰城・鳥ヶ峰城
構造山城
築城者斎藤政義
築城年代1537年(天文6年)
指定史跡国指定史跡
場所可児市兼山字古城山1418番211 地図
スタンプ設置場所可児市観光交流館(8:30~22:00、12月28日~1月4日休業)
御城印可児市戦国山城ミュージアム

美濃金山城は、斎藤政義が烏峰城を築きました。
織田信長の家臣である森可成が城主となって、烏峰城から金山城と名前を変えています。
鬼武蔵と呼ばれる森長可も城主を務め、信長の信頼も厚く金山城に訪れることもありました。
森乱丸の生まれたが金山城で、安土城で信長から多くのことを学び、
本能寺の変で信長とともに亡くなっています。



駐車場

道路終点は出丸にある駐車場です。
ここまで車で来られると、かなり体力の負担は軽減されます。


出丸

ここを見ただけでは、石垣造りであることは分からないので
ぜひ、下から石垣を見て行って下さいね!



石垣があるこの場所には櫓門があったものと思われます。


出丸石垣

この石垣の角は平成16年に積み直しがされています。
積み直しはされていますが、下数段は城が機能していた
時のままのものが残っています。



上からは見えない石垣なので、
ぜひ、下からの石垣を見て行きましょう。



パンフレットが置いてあるボックスがあります。
ここでパンフレットを入手してここからは歩きで登ります。
杖も用意されています。


三の丸虎口

門の礎石が残る三の丸虎口です。
途中で、大きな蜂(スズメバチ?)に追いかけられたので
こちらもマグナムジェット装備で応戦!!(ハチにご注意ください)


石垣

三の丸門跡右側に破城の跡です。
二の丸西面の野面積みの石垣ですが、天端と角が崩されている様子が窺えます。


古城山払下げ記念碑

森忠政は徳川家康に仕え信州海津城主として加増転封となりました。
そのため、金山城は犬山城主 石川氏の所領となり、
犬山城の増築のために金山城は廃され、資材は木曽川を使い運ばれました。
しかし、この説は近頃の調査で否定されています。



三の丸の北側に岩盤を加工した虎口(水の手)があります。


水の手

この先が水の手と伝わる場所で、水汲み場があったというのですが
現在は荒れていて、虎口にロープが張られ、残念ながら通行止めとなっています。
そして注目なのは、虎口の垂直に削られた岩盤で、当時の技術を知る貴重な遺構です。


二の丸

二の丸には渡り廊下のある建物があったと考えられています。


二の丸物見櫓跡

東南に張り出す形の立地のようで、周囲の木々が無ければ眺めが良いのでしょうね。
明智光秀の居城明智城(長山城)が望まれました。
ちなみに、下を覗き込むと下の道路脇にある展望台が見えるので
やはり眺めが良かったんだろうなあということがわかります。
(いっそ、木を切ってくれないかなあ)



この石段を登ると桝形虎口です。


枡形虎口

犬山市の瑞泉寺に移築された大手門と城門があると伝わります。
今度犬山市に行ったら寄ってみよう。。。


西腰曲輪

ここの石垣は、算木積みだったようです。
破却されているのでなんとも判断しずらいですが、そうなんでしょうね。


南腰曲輪

南腰曲輪を通り、東腰曲輪方面へ。



ここを登ると本丸です。
が、本来の本丸への入口はここではなく
東側へ回り込んで後に紹介しますが、東腰曲輪の手前の桝形虎口から入ります。


桝形虎口

東側の本丸への入口へやって来ました。
ここに城門があったことがわかる礎石も残っています。
そして、安土城の大手道脇の石垣に等間隔に配置された縦型の石と
同じように積まれた正面の石垣にも注目です!
それにしても、見事な桝形が残っています。


本丸

本丸には5棟以上が連なる建物の礎石や、
石組排水溝などがみつかっており、地面にはその様子が見られます。



多くの礎石が見つかっていることから
天守や御殿があったのではないかと思われています。
足元には礎石が残っているので注意して歩いてみて下さい。


案内看板

看板の後ろには鳥竜神社にあった石柵が積まれています。


眺望

こちらは、山の向うに犬山城や岐阜城があるのですね。


本丸虎口

以前は虎口の上に鳥竜神社があったようですが、今は神社はありません。
始めて訪れたので違和感はないのですが。
でも、どこに行ったのか気になりますね。


東腰曲輪

ここは石がゴロゴロ。
破城の際に捨てたと思われる礎石や瓦が見つかっているそうです。


集水桝(井戸)跡

石で囲まれたこの場所は、碓氷を溜めた集水桝のようなものであったと考えられています。



東部曲輪から本丸を見上げると石垣が見えます。



近くに寄ってみました
これだけ残っているということは、
本丸御殿の真下となるのでしっかりと組んであったのでしょう。


東部曲輪

平場になっていて、ここにも石がいくつか見受けられます。
建物があったのでしょうか。


搦手門跡

この先下って行くと左近屋敷があります。
左近と言えば…私的には島左近を想像したのでちょっとハイになったのですが、
森氏譜代の家老細野左近という武将の屋敷があったそうです。

ここで引き返して、次に「蘭丸ふるさとの森公園」へ行ってみたいと思います。

冠木門

冠木門があるこの道が「蘭丸ふるさとの森公園」の入口になります。


大堀切

この先に大堀切にあります。


伝蘭丸産湯の井戸

伝蘭丸産湯の井戸が目にとまりました。
しかし、オブジェ?くらいに思って近付いてみると
ちゃんと案内看板がありました。



覗いてみたら…石垣の井戸でした。
〇〇産湯の井戸もよく見掛けます。


鳥竜神社

そして、「蘭丸ふるさとの森公園」にはかつて本丸にあった「鳥竜神社」があります。
ここに移転されていたのですね。
この日は、神社周辺の草刈りをされていて、お邪魔にならないよう遠くから神社の撮影をしました。


これにて、城下へ。


可児市交流会館

可児市交流会館に続100名城のスタンプの設置場所ということで
やって来ました。


スタンプ設置場所

続100名城のスタンプはこちらです。


甲冑着付体験

衣装や装飾でお値段が変わります。
忍者1000円~、甲冑1500円~。


戦国金御籤

ここでおみくじをひいてみました。
私は…明智光秀が出ました。
どんな武将たちが入っているのかとても気になるところです。


可児市戦国山城ミュージアム

こちらの建物は、明治時代に建てられた木造三階建ての小学校を改修したもの。
御城印はお隣の可児市交流会館ではなく、こちらの受付で販売されています。


模型

この模型を見てから行けば、もう少しイメージしながら歩けたのになあ。





本丸虎口の桝形の石積みを見て、すぐに安土城を思い出したのですが、
美濃金山城は安土城築城の時期と重なっていたのですね。
そのため安土城と同様な手法によって構築されていたり、
信長の影響を受けて造られた森氏の城であるのが素人ながら感じられたのが
面白い城跡でした。


令和2年6月27日登城


今回の参考本




続日本100名城公式ガイドブック (歴史群像シリーズ特別編集)
公益財団法人 日本城郭協会
学研プラス

西生浦城(韓国)

2020年06月30日 | 続百名城
西生浦城ソセンポウェソン
別名
構造山城(倭城)
築城者加藤清正
築城年代1593年(文禄2年)
指定史跡
場所711 Seosaeng-ri, Seosaeng-myeon, Ulju-gun, Ulsan, 韓国 地図



未登城の城








米沢城(山形県)

2020年04月30日 | 続百名城
米沢城よねざわじょう
別名舞鶴城・松ヶ岬城
構造平城
築城者大江時広
築城年代1238年(暦仁元年)
指定史跡県指定史跡
場所米沢市丸の内 地図
スタンプ設置場所米沢観光コンベンション協会観光案内所
城郭検定出題あり

鎌倉時代には長井時広が居館を置き、伊達氏から蒲生氏、上杉氏と移り変わり、以後米沢藩は上杉領として
明治維新を迎えるまで続きました。
伊達政宗は米沢城で育ち、豊臣秀吉の命により仙台城に移封されるまで青年期を米沢で過しました。
米沢藩初代藩主の上杉景勝を支えて来た直江兼続とともに米沢の城下町の基盤を築いています。
また、江戸時代には米沢藩の藩政の立て直しを行った名君上杉鷹山公も知られています。



上杉城史苑

駐車場は上杉城史苑の前にあります。
ここでは、地元の特産物や地酒、戦国武将グッズなど販売されています。
帰りにはこちらでお土産を買っています。


駐車場
雨が降っているにもかかわらず、多くの観光客でいっぱいです。


上杉鷹山公の像

上杉家10代藩主上杉鷹山公は、困窮・崩壊寸前の藩を復興させた江戸時代の名君です。
「なせば成る なさねば成らぬ何事も 成らぬは人のなさぬなりけり」という言葉を残していますが、
この言葉、会津出身の母親に小さい頃からよく聞かされていました。
米沢の上杉鷹山公の言葉だったとは…母の言葉ではなかったのですねw


松岬神社

上杉神社に上杉謙信とともに祀られていた上杉鷹山が松岬神社に分祀された神社です。
かつてはここに景勝公御殿がありました。
 

舞鶴橋

米沢城の大手口(表参道)で、米沢城の別名が舞鶴城であったことから
舞鶴橋と名付けられています。


上杉謙信公祠堂跡

上杉謙信公の遺骨が納められていた場所で、現在は別の場所で上杉家御廟所
移葬となっています。
伊達政宗出生地の碑も近くにあるのですが、近年の調査では政宗の出生地は
舘山城ではないかといわれています。


米沢城下絵図

米沢城を中心として、城下町が栄えていたことがわかります。


上杉謙信公の像

昭和49年に地元の彫刻家によって作られた謙信公像です。
米沢城には多くの銅像が存在しますが、この銅像もシンボル的な存在ですね。


天地人の銅像

大河ドラマ「天地人」でも有名になった銅像です。
この二人の主従像は、他にない銅像でこの二人の絆の深さはいいなあと
いつも思います。


かねたん

直江兼続をモチーフにしたキャラクター「かねたん」誕生10周年記念に
立てられた石像です。
以前訪れた時にはこの存在に気付かなかった^_^;


観光案内所

今回は続日本100名城のスタンプと攻城団チラシをもらいに寄りました。


スタンプ
観光案内所内に続日本100名城のスタンプが設置されています。
そして、そこには攻城団のチラシも置いてあります。


上杉神社

米沢城本丸にある上杉神社は、1876年にかつて奥御殿のあった場所に創建されました。
奥御殿は簡素で、本丸の大半は表御殿が占めていました。


本殿

大正期、火災のため焼失してしまいました。
現在は、米沢出身の建築学者である伊東忠太が設計し、再建されたものです。


上杉神社庭園

本丸御殿跡に残る池泉回遊庭園で、「松岬城堞図」にも庭園が描かれています。


春日神社

越後の上杉家の居城があった春日山には、奈良の春日大社から分祀された春日神社があります。
上杉家は、藩主の移封とともに会津、米沢と移ってからも、その信仰は変わらずこの地にも
上杉家の氏神として、上杉神社とともに祀られています。


菱門橋

藩主御殿の手入口で、通行の取り締まりを厳重に行ったことで「秘し門」とも呼ばれていました。
そして、ここには馬出を構え虎口を二重に固めていました。


南参道

御堂に勤仕する僧侶がここを使用したという。
朱色の橋が印象的で通行を厳しく取り締まるという印象の無い橋ですが
当時は直江兼続が指揮した米沢城下造営の一環で整備された堰からの
水を取り入れる場所に近い事もあり、御入水奉行が管理するといった重要な場所でも
あったということです。


上杉神社稽照殿

上杉神社の宝物殿として刀や甲冑、絵画など約300点ほど展示されています。
直江兼続が所有していたといわれる「愛」の前立の甲冑もあるそうですが、
今回は日帰りのため先を急ぎます。



稽照殿の脇に朱色の小道があります。


福徳稲荷神社

この稲荷社には白狐の霊が祀られていて、興味深い伝説も残っています。
1740年(元文5年)に将軍家から御鷹の鶴拝領があり御請けの飛脚を立てたのですが、
本書と下書とを取違えて大失態。
御城代岩井大膳元則の飯綱の修法にて、神使白狐の懸命のはたらきで飛脚の持っていた本書と下書を
道中でこっそり交換し、難を免かれました。
しかし、その白狐は急ぎ走り続け稲荷神社へ辿り着くと絶えてしまいまいした。
その後、骸は大膳の申立にてにより櫃に納めてこの稲荷祠に祀られたと伝わります。


北西御三階櫓跡

現在この道は北参道として使われていますがかつてはこの道は無く、
左の土塁の上には北西御三階櫓が建っていました。


本丸北門跡



二の丸

二の丸にはかつて、二の丸御殿や城代役家、寺屋敷や二の丸勘定所などの
建物が建ち並んでいました。


うこぎの生垣

食べられる生垣「うこぎの木」
うこぎって何?から始まって、確かピエール瀧さんの「城下町へ行こう!」を見て
米沢に行ったらうこぎを見るぞ!と思っていたので、しかと見ました
苗木をお取り寄せして我が家の庭にも植えてみました。(いざとなったら食べます!)
そして、この生け垣の奥の建物が、上杉家13代茂憲の伯爵邸として建てられた「鶴鳴館」です。
現在は、郷土料理の店となり資料館も兼ねて営業しています。
庭園を眺めながら、落ち着いて米沢牛でも頂きたいところでしたが叶わず…。


米沢市上杉博物館

二の丸跡にある米沢市上杉博物館。
前回は子供を連れていたので、主にこちらに時間を充てて歴史を学びました。
内容はとても充実していて、上杉鷹山公のことや、米沢市の治水など
子供達も楽しめる工夫のされた良い造りになっている博物館でした。



今回も見たい気持ちはあったのですが…入ったらなかなか出て来られなくなってしまいそうな
内容だったので、時間が無いので後ろ髪を引かれる思いを振り切って仕方なく入口で引き返すことに。



文化ホールには能舞台が設置されており、前回訪れた時はここで
子供が能の稽古をしていたので、しばし見学させていただきました。


うこぎソフト

前回、とても気になった「うこぎソフト」。
今度こそは!と、雨が降って少し寒くても食べちゃいました


べにばな庵

前回、今回とも米沢牛串焼きと米沢ラーメンを食べました。
5年間が空きましたが、味も見ためも変わりなくいただきました。


米沢牛串焼きと米沢ラーメン

ラーメンは、ちぢれ麺でスープはあっさり味で串焼き牛はお肉が柔らかく、御当地グルメを手っ取り早くいただくことが出来ました。


塩引寿司

今回、初挑戦の「塩引寿司」です。
テーブルに座って目に付いたのですが、縁起が良さそうだったので追加注文しました。
和歌山ラーメンの早寿司(鯖)のような感覚で注文してしまいました^^;


米沢牛コロッケ

上杉城史苑の米沢牛コロッケです。
大河ドラマ「天地人」で上杉景勝役の北村一輝さんがとても気に入ってメンチカツとコロッケを食べていたとか。


前回訪れた時の写真(SDカード)を失くしてしまったことで、ずっと再訪問したくていました。
近くを通っても、ここは以前訪れているのでまた連れて行ってとはなかなか言いだせずにいたのですが
近頃は再訪問して発見することも多くなって来たので、やはり行きたいところには何度でも行く!と
決めて「連れ行って~」とせがんでみることにしました
やはり見逃したところもいっぱいあるので、新鮮で何度行っても良いものです。


平成26年8月23日登城
令和元年10月27日再登城



続日本100名城公式ガイドブック (歴史群像シリーズ特別編集)
公益財団法人 日本城郭協会
学研プラス