アンティマキのいいかげん田舎暮らし

アンティマキは、愛知県北東部の山里にある、草木染めと焼き菓子の工房です。スローライフの忙しい日々を綴ります。

本「マイクロカプセル香害」(ジャパンマシニスト社)

2024-05-16 10:31:35 | 映画とドラマと本と絵画

  7,8年ほど前、私のパンと焼き菓子の会に参加した方から、はじめて化学物質過敏症の実体験の話をお聞きしました。

  彼女は、合成洗剤や柔軟剤を多量に使っていて、ある日突然、体調不良となり、まともに生活のできない状態になったといいます。でも、何が原因なのかまったくわからず、あれこれ調べてみてようやく病の原因が合成洗剤や柔軟剤にあることを知ったのだそうです。

  発症するまで、彼女は洗剤や柔軟剤そのほか合成香料の入った商品につけられた匂いが物足りず、どんどんきつい匂いのするものを探すようになり、行きついたのはすべてアメリカ製品だったといいます。

  原因を突き止めた彼女は、洗剤や柔軟剤のみならず、消臭剤そのほか類似の商品をすべて廃棄し、洗剤はシャボン玉石鹸の製品に替えました。「変えた途端、家族みんなに味覚がもどったのです」つまり、知らないうちに味覚も鈍感になっていたらしいのです。

  その会は、自然食品店の店内で開かれたものでしたが、件の参加者は、自分が化学物質過敏症とわかってからずっとその店の顧客となり、食生活にも気を配るようになりました。そして家族全員が健康になったとのこと。

  私自身は、ずいぶん前に石鹸洗剤に切り替え、柔軟剤は面倒ということもあって一度も使ったことがなく、消臭剤もたぶんほぼ買ったことがありません。でもはっきりと体に害が生じるからとは思っておらず、環境への負荷を気にしていただけなのですが、この話を聞いて、これはかなりたいへんなことがおきているぞ、と危惧を持ちました。

  この本「マイクロカプセル香害」は、200ページほどの変形の新書判なのですが、半分は香害被害者からとったアンケート結果を紹介しています。その内容は上述の、私が出会った人以上のひどさで、唖然とするばかり。

「ある瞬間から、すべての合成洗剤が使えなくなりました。現在も数十メートル先の公園からの柔軟剤臭で、家の中でさえ苦しい。まっすぐ歩行できず、呂律が回らなくなり、計算や文章や言葉の解読できなくなり、感情的になり家族に当たり散らしたこともありました」

「発症後は、全く別の体になったというか、普通の暮らしができない。香料で倒れます。筋肉硬直です。・・・全身に症状が50種類以上出ました。大量の鼻血が出たときは、ものすごく不安でした」

「夫や実家や義理の両親からの理解が得られず、夫婦喧嘩(過敏な私にうんざりした夫から離婚届を突き付けられた)が増えています」

「医者からは原因不明の「腸閉塞」の診断。ただし、胃腸の検査では何ら問題なしと。・・・症状は、喉のかすれ、痛み、めまい、鼻水、頭痛、胃腸の不調が月日を重ねるごとにひどくなっています」

「病気を公表してからママ友だったと思ってた人たちはだんだんと離れていきました。・・・(子供は)一緒に遊んでくれるお友達もほぼいないので、子どもはいつも「死にたい、もっと早く生まれていたらこんな病気にはならなかった」と漏らしています」

  小学生の子供から老人まで、発症の年齢はまちまち。それぞれ多種類の症状を抱えて不自由を囲っています。そして皆一様に周囲の理解が得られないことでさらなる苦痛を強いられています。

  ここ数年前からとみに増えてきた柔軟剤のテレビCM 。きれいな若い女性が海辺で立っているとそこに花びらがひらひらと散り、若いハンサムな男性が引き寄せられる、という映像もあったのではなかったかな。あの匂い、かなり強烈だと私は思うのですが、「いい匂い」と思うように、もう鼻が慣らされているのだろうと思います。

  柔軟剤も合成洗剤も消臭剤もみんな石油製品。香りを長持ちさせるためにマイクロカプセルなるものに香りの成分を閉じ込め、空中に飛散するようしかけてあるのだそう。そのカプセルの壁に使われている化学物質に、イソシアネートという「ごく希薄な吸入でもアレルギー性喘息や中枢神経系・心臓血管系の症状を引き起こす毒性化合物」があります。

  このイソシアネート、80年代に農薬の効果を持続させるために開発されたマイクロカプセルの中からこの毒物が生じたことがあったらしく、被害を訴える人がいたそうなのですが、確定的な証拠がないことを理由に、そのままに。ただし今は、もしかしたら危険性を知った消費者の声に製造会社が敏感に反応して、ほかの物質に替えている可能性もあるかもしれないとのことです。でもだからといって、危険性がなくなったわけではありません。

  農薬といい、こうした化学合成剤といい、日本は先進国の中ではかなり規制が緩いこともかかれています。

  嗅覚というのは、五感の中でもっとも原始的な感覚だと言われています。味覚や聴覚、視覚が現代人はかなり衰えていますが、そこにもってきて、さらに嗅覚までだめになったら、身を守ることができなくなってしまう。土をいじることから遠ざかっているので、触覚も駄目になっていそう。

  私の友人たちのなかにも、仕事先で支給された制服の匂いに耐えられなくて仕事を続けられなくなった人や、整髪料などの香料の匂いに耐えられなくて頭痛に悩んだといった経験を持つ人がけっこういます。この本は表紙に、「緊急出版」とあります。さらに「明日、あたらしいマスクが必要になる だれか、助けろ あの子をいますぐ」とも書かれています。

  過敏症になった人には、毒ガス用のマスクでも付けないと、つらくて生きていられないほどの事態となっている現実を、多くの人に知ってほしいものです。

 

 

 

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本「姫神の本~聖なるヒメと巫女の霊力」(学研)

2024-05-07 15:16:57 | 映画とドラマと本と絵画

  しばらく前に読んだ本ですが、ささっと教養を身に着けるにちょうどいい本だとおもいます。

  日本で男女同権となったのは先の大戦後。他の先進国でも女子に参政権が与えられたのは思いのほか後年のことで、世界中の民族が宗教の違いはあれ、おおむね男尊女卑の社会だったというのが、大方の認識だと思います。

  でも、単純に同一視していいのかなとずっと思っていました。山の国、日本では、山の神は女神。こちらに来て一度だけ参加したことのある「山の講」というお祭の際に、集落の山の神の住むという山中に供え物を持っていくのは男性と決まっています。女性が行くと神が嫉妬するから、と言われています。

  最近はいわないだろうけれど、しばらくまえまでは、夫が妻のことを「うちの山の神」と半ばふざけていっていました。夫が恐妻家のふりをしても馬鹿にされないのが日本という社会。そもそも、皇祖神とされるアマテラスオオミカミは女神です。

  もやもやしていたのが、このガイドブック的教養本を読んでちょっと頭の中が整理されました。

  「天照大神を皇祖神に戴くこの国は、「女神の佑わう国」でもあった。女神や巫女たちの大いなる活躍は前章で書かれているとおりだが、その女神たちが零落し、この国が「ほとけの佑わう国」へと変わっていったのは、いうまでもなく仏教の浸透による」

  「女性の地位の著しい後退にくわえて、平安時代からさかんになってくる穢れの思想が、さらに女たちを救いのない境遇へと追いやった」

  「成仏することも自立的に生きることも許されず、「三界に家なし」といわれて世界そのものから疎外された女性の境遇は、そのまま女神の境遇へとスライドされていき、かつて日本各地の海や山に満ちていた名もない女神たちから、多くの聖性を奪っていった」

  女神たちは零落して物の怪へ。もともとは神と同意であった「鬼」ということばは、「醜い邪悪な妖怪の呼称」へと変わり、「女性と近しい妖怪」とされるようになったといいます。山姥とか鬼婆とかは、女神が「魔の世界に住み替えていった」姿のようです。

  しかし、女性が神に近いところにいる、という認識は完全には滅びることなく、神の言葉を伝える巫女やユタ、ノロ、イタコとなって、つい最近まで庶民の根強い信仰にささえられて、大きな役割を果たしていました。

  イスラム教の経典で女性がどう扱われているかは知りませんが、旧約聖書では、イブはアダムの肋骨から神が作った存在。部品なのです。仏教では、女性には「五障」があるため修業の妨げとなるとされ、寺では禁制とされました。ただし、日本の場合は、神道が仏教と習合して生き延びたため、その分、女性はか弱くて男性に庇護されるしかない存在という考えは、西洋ほど強くはならなかったのではないかと想像します。それが幸いだったかどうかはさておき、歴史的経緯はある程度知っておかないと、どこかでまちがえてしまうのではないかと危惧することが多いので、ちょっとだけ紹介しました。

  

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本「ばびぶべぼだぞ、わすれるな。」ひがしくんぺい(フォア文庫)

2024-04-08 23:33:47 | 映画とドラマと本と絵画

  のらねこゴロのひとり語り。彼が出会った猫たちの話を語る。

 「おっと、しょんぼりして、どうしたの。

いじめるやつが、いるのか。

そんなときに、ためになる、

はなしをしてやろうか。

これからはなす、

ば・び・ぶ・べ・ぼ

を、しっかりまもれば、

もう、だれだって、てがだせないさ。」

「チョロのように、

かのふりしちゃだめだ。

ペロのように、

くびくしてちゃだめだ。

チコのように、

つぶついっちゃだめだ。

パッシーのように、

らべらおしゃべりだめだ。

トラキチのように、

やぼやしてちゃだめだ。

これは、きみが、きみで、いるための、しっかりまもる、

ば・び・ぶ・べ・ぼ・だぞ。」

 端的だ。実にいい。忘れちゃだめだ。

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映画「自立への道」上映会のご案内

2024-03-18 13:18:12 | 映画とドラマと本と絵画

   不登校の子供たちが、現在全国で29万人もいる、とつい最近聞きました。わたしの周りにも不登校のお子さんを持つお母さんがたくさんいます。いじめにあった、勉強についていけなくなった、教師の言うことが理不尽、なんとなくいやになった、などなど理由はいろいろあるようです。

   学校が好きとは全く思っていなかったけれど、不登校なんて考えられない時代に育った私には、選択できる(?)今の子たちがうらやましいと思うし、元気に不登校している子供を何人も知っているのですが、お子さんやご家族によっては、「行かない」ことで将来に対する不安や周囲への引け目を感じている方も少なくないと思います。

   そんな方たちに、「学校へ行かなくても、人一倍元気で意欲的で前向きに生きている人たちがいるのだよ」ということをおしえてくれる映画があります。それが、「自立への道」。

   映画は、今は大人になっている8人の人たちと2人のご兄弟のお母さんへのインタビューを中心に、彼らの暮らしぶりを交えて構成されています。監督の種蒔夫さんは、元美術教師。内申書の不正を告発して辞職したのち、渡欧して現代美術の活動をつづけ、帰国後「自然と農の啓蒙活動」を開始し、「種蒔きの旅」に。その後、「元不登校児ビデオインタビューの旅」を経て、この映画が完成しました。

   私は昨年春、稲武のフェアトレードカフェで、この映画の上映会に出席。監督は、映画のDVDと機材持参で全国を行脚していて、そのおりもカフェでご一緒に映画見を見て、彼のお話をお聞きしました。上映会後は質疑応答の後、不登校のお子さんをお持ちのおかあさんたちを交えての座談会も開かれました。

   映画を見たあちこちの子供たちが、監督の車に思い思いの絵を描きました。

   この映画を、再来週3月31日、豊田市の産業文化センターで上映します。主催は、産業文化センターの隣の場所で、子供食堂「山二食堂」と「蔵カフェ・ケセラセラ」を営む矢野泉さん。彼女は、子供食堂に集まる親御さんたちから、不登校のお子さんたちの話を聞く機会が多いのだそうですが、お子さんの気持ちに寄り添おうと努力するお母さんに比べて、お父さんやお祖父さん、お祖母さん、近所の人達の無理解が目立つことが多いといいます。今回の上映会には、そうした、子供たちを取り巻く大人たちにもぜひ見てもらいたくて、大きなホールでの上映を企画しました。

   上映会の詳細は以下の通りです。

*日時:3月31日(日)13時30分開演

*場所:豊田産業文化センター多目的ホール

*入場料:大人1500円

     中学生以下無料

*定員 100名

*当日のスケジュール

 13時:開演

 13時30分:上映開始(90分)

        新作紹介(10分)

  休憩

 15時30分:種蒔夫さんとトークの会

 16時30分:終了

⋆予約方法

  ①QRコード

  ②jiritsu331@gmail.com 

       ③09011080598(矢野)

上記いずれかの方法で、お申し込みください。

******

    さて、ついでに、元気に「不登校している(不登校していた)」私の知り合いのお子さんたちのうちの一人、豊田市旭地区在住の逸見ルチカちゃんのことを紹介します。

  

   こちらの絵は、昨日豊田市美術館での個展「ナルシシズムの星」を終えた、ルチカちゃんの作品です。彼女は8歳の頃初の個展を開き、今は15歳。この春中学校を卒業しました。といっても、小学6年生の1年間と中学校の3年間は全くの不登校児童生徒として過ごしました。

   最初から2番目の個展には、学校生活の苦しさを表した作品がいくつも見られました。小学校の高学年の夏、お母さんから、彼女が夏休みの宿題を全部燃やした、ということを聞きました。大胆さに驚く半面、いかに学校という存在が彼女を抑圧しているかを知り、その抑圧を跳ね返す彼女の力に喝采を送りました。

   それから彼女と会う機会はなく、先日の個展でしばらくぶりに再会。以前の少しゆううつそうな表情は消え、スッキリした美少女に変身していました。彼女は、学校に行かなくなってから自主的にホームワークをはじめ、学校から与えられる教科書や問題集のみならず、ネットで見つけた学習サイトで、大学の教員クラスの人たちから教えてもらって問題を解く楽しみを覚えたそうです。4年前には考えられないほどの勉強好きになっていました。4月からは、通信制の高校に進学。「とっても楽しみ」と語っています。

  

   

   

 

 

 

 

 

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漫画「人生はあはれなり・・紫式部日記」

2024-03-08 23:38:42 | 映画とドラマと本と絵画

  大河ドラマ「光る君へ」が始まったので、だいぶ前に読んだ学習漫画を紹介。

  「新編 人生はあはれなり・・紫式部日記」表紙には、「社交的じゃない・・ 人から嫌われたくない・・ 今すぐ出家したい・・ 『源氏物語』の著者が綴る 絶望だらけの平安ライフをコミカライズ!!!!!」とあり、著者は連名で、小迎裕美子と紫式部(!)。監修は赤間栄都子。

  「源氏物語」の作者が紫式部(本名は不詳)の作品だと後世に知られるのは、「紫式部日記」があるから。この日記は、中宮彰子の女房として彰子の出産を記録した部分が主なのですが、私的な部分のほうがネガティブで有名に。

  ずぬけて賢かった紫式部は、大河ドラマの中でも何度も父親から「お前が男だったら・・」と言われるシーンがありますが、その賢さが出仕してからは仇になり、「日本紀の局」と陰口をたたかれる羽目に。

「バカのフリをしていれば嫌われない!! この世界での正解はコレか!! すっとぼける!! きき流す!! 鈍感力!! わたしは女優!! おっとりしたバカと格付けされたのは解せないけれど・・」

「歌を詠んだりせず 知識や能力は隠していかねば!!」

「物語をひけらかしたらアウトだわ」

「バカこそ 私の本性と 努力しなければ」

  全然同期ではなくて、数年前に宮中から退出している清少納言のことをコテンパンにやっつけたり、和泉式部のことも歌は見事だけれど知識や風格はない、と批判したり、なかなか辛辣。

  日記はさほど長くはなく、現代語訳付きで、細かいことはすっ飛ばして読むつもりならたいした苦労はいらないと思いますが、無理したくない人にはお勧めの学習漫画です。こういう学習漫画は、中高校生にぜひともガンガン読んでほしい。

  

  

 

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マンガ「あしたも着物日和」

2024-02-14 00:13:17 | 映画とドラマと本と絵画

  一昨年末ころから、友人に着付けを習い始めました。と言っても、習うのは月一回。普段の練習は皆無なので、全く上達しないまま一年たちました。でも、ごくたまに着物を着て出かけたり、それをSNSに投稿するようになったりするうちに、だんだん恥ずかしさは消え始め、下手でも着物を着るのが楽しいとおもうようなりました。

  先日、お若いころから着物が大好きで、上手に着こなしていらっしゃる知人から、漫画家の近藤ようこが書いた「明日も着物日和」をもらいました。

  私よりも少し若い彼女の着物遍歴が、あれこれの知識とともに描かれていて、ごくごく初心者のわたしには、興味深いものでした。

「絽は六月末から着てもいいけど 紗や麻はだめ? 単衣の時の半襟は絽ちりめん? 大島紬を真冬に着るのはいけないの?」

「誰が決めたルールなんだろ こういうルールを守らないとどうなるんだろ 街を歩いている時に笑われるのかなー でも誰に? なんのためのルールなんだろ  伝統ってなに?」

  私の子供のころまでは、女性たちはほぼ着物でした。母が庭先で洗い張りしていたことも覚えています。当時の映画やニュース映像を見ると、女性たちの着物の襟もとはやわやわっとしていて、今のようにピシッとなどしていないし、うなじはさほど開けていない。母も祖母も、なんでもなくササっと着ていました。当時は日常着ですものね、あたりまえ。

  ある時から一気に和服が高級なイメージにかわり、着付けをちゃんと習って、それなりの和服を持っていないと、そんじょそこらの人は着られないイメージにかわっていきました。着物を着たいと思ってもなかなか踏み切れなかったのは、そのせいもありました。着付け教室の隆盛が、かえって着物の敷居を高くして着物離れを助長した気がしていました。

  作者は80年代に、ある画期的な和装に関する本を読んで、得心します。

「この本で一番感銘をうけたのが 今の着物のルールは戦後作られたものが多いとか」

「そうかー 暑ければ四月から単衣でいいんだー 暑がりのわたしには助かるー」

  最近は、タートルネックのセーターにベレー帽、ブーツで和服を楽しむといった人も増えてきて、ずいぶん和服の門戸が広がりましたが、まだまだ、「ルール」なるものは厳然としてあるようです。着物を着るようになって、「着物警察」ということばも知りました。

  先日もらった古い着物のなかに単衣がたくさんあったので、4月頃から着たいなあ、と思っていたところでした。わたしも、ルールなるものを無視して、着物生活を楽しもう、とこの本を読んで決めました。

 

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映画「ひとにぎりの塩」

2024-02-05 22:32:42 | 映画とドラマと本と絵画

  能登半島で伝統的に行われている塩づくりのドキュメンタリーを見ました。制作年は2011年。正月の震災の後、この映画の監督の石井かほりさんが、復興支援を目的とした上映会の開催を推進していると知ったので、友人が催しているスローシネマカフェにて上映の運びとなりました。

****

<映画の解説>

“奥能登”と呼ばれる能登半島の最北端で、日本最古の「揚げ浜式」という方法でつくり続けられる「揚げ浜塩」の職人たちの姿を追ったドキュメンタリー。監督は「めぐる」の石井かほり。ナレーションを「インスタント沼」のはなが担当する。かつて日本各地で生産されていた塩は“より安価で安定した塩を自国で供給すること”を目指し、1905年、国による専売制が始まった。以後、戦争や戦後の高度成長で大量需要を満たすための技術開発が繰り返された結果、古来より続く製塩技法「揚げ浜式」はあえなく姿を消す。ところが、日本で唯一「揚げ浜式」で作り続けられていたのが雄大な日本海を臨む“奥能登” 珠洲であった。石川県珠洲市仁江海岸。ここでは、海水を汲み上げて、天日と風の力を借りて乾燥させ、平釜で昼夜焚き上げるという途方もなく手間のかかる製法で塩づくりが行われている。塩づくりの家に生まれ5代目として唯一、珠洲で一家相伝で揚げ浜塩を守ってきた角花豊さんと、息子で6代目の洋さん。二人にとって伝統の技を守るとはどういうことなのか……。
<石井監督からのメッセージ>
『塩は今や大量生産できる状態にあり、そこでなぜ手間暇かかる「揚げ浜式」による塩づくりが行われているのか、作り手の想いを記録しました。
そして、この度の能登半島の震災では、その塩田が津波により浸水してしまったこと、まだ連絡が取れずにいる方がいらっしゃることに胸が詰まる思いです。
どうぞご無事でありますように。そして、再びこの美しい精神性による塩づくりが再開される日が来ますように、と願っています。』
能登半島地震チャリティー自主上映グループ↓
*****
  能登半島先端の珠洲市は、米作りの難しい土地。そこで古くから塩田が作られ、江戸時代には、米の代わりに塩で年貢を納めていたそう。
  
  日本で岩塩は取れません。それで、塩はもっぱら海から採取するしかない。海岸近くでは、各地で昔から塩づくりが行われてきました。森鴎外の「山椒大夫」では、安寿が潮汲みをさせられますが、山椒大夫の屋敷があるのは丹後。能登の西です。稲武の幹線道路国道153号線、別名中馬街道は、「塩の道」とも呼ばれ、海で採った塩を内陸部に運ぶ重要な道でもありました。
 
  しかし、明治時代に専売制が敷かれ、その後、化学的な製法で塩が作られるようになって安い塩が出回り、ミネラル豊富な本来の塩の需要はどんどんなくなりました。専売制のため、製造にも販売にも厳しい制限が加わったこともあって、海辺の人々の生活のタツキであった昔ながらの塩づくりはどんどん姿を消していきました。
 
  90年代、ようやく専売制がなくなり、塩は自由に製造販売できるようになりました。
 
  能登半島で唯一伝統的な塩づくりを続けてきた角花さん一家。お父さんの遺志を継いだ角花豊さんが、窯で海水を煮詰めながらインタビューに答えた言葉が、印象的でした。
  
  「伝統を受け継ぐとかなんとか、そういったことを思ったことはないね。ただ、いい塩を作る。それだけしか思わん」といった意味のことを、淡々と語りました。
 
  珠洲市にはこの映画の撮影当時、浜士と呼ばれる塩づくりに携わる人が次第に増え、観光の担い手にもなっていました。昔ながらの製法のほかに、一気に効率よくミネラル豊富な塩を作る流下式と呼ばれる加工場も稼働を始めました。彼らがこのたびの震災でどのような被害を受け、何より塩田や塩づくりの加工場がどのような壊滅的な状況になったかと思うと、胸がつぶれる思いです。
 
  ところで私は、80年代中頃、伊豆大島でミネラル分豊富な、公社塩とは全く違う塩づくりに挑む人たちがいることを知りました。
 
  彼らは、手間暇のかかる塩づくりを近代的なシステムで効率よく生み出す方法を考え出し、「日本食用塩研究会」として活動していました。仕組みは忘れましたが「タワー塩」という名で知られ、彼らの活動が、日本の塩事情を変えていきました。けれども専売制のもとでは、この塩は販売できず、試作品として会員に頒布するという形しかとれませんでした。私は当時、こちらの塩を舐め、塩がおいしいのだということに初めて気が付きました。現在この塩は、「海の精」という名前で、自然食品などで普通に取り扱われています。
  
  この塩に関する事柄は、こちらでごらんください。
  
  
 
  
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映画「新しき土」

2024-01-18 23:00:12 | 映画とドラマと本と絵画

  1936年の日本映画。https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%96%B0%E3%81%97%E3%81%8D%E5%9C%9F   全く聞いたことのない映画だったのですが、ひょんなことからタイトルと内容を知り、ダメもとでツタヤレンタルで調べてみたら、なんと貸し出し可能の映画になっていました。

  主演は小杉勇と原節子。ヒロインは良家の娘で、小杉勇は農家の出。親同士の約束で、彼は幼い時にヒロインの家に養子として迎えられ、ゆくゆくはヒロインと結婚して家督を継ぐことになっていました。

  昔はご大家によくあったパターン。親戚筋かあるいは血縁でなくても、優秀な婿を確保するため、幼い時に養子としてまず縁組してしまう。本人たちの意志やお互いの好悪よりなにより、家の存続が大事だった時代の慣習です。

  小杉は養家の出資でヨーロッパ留学を果たし、帰国。ヨーロッパの個人主義や自由主義の影響を受けた彼は、自分の意志とは関係なく果たさねばならない婚姻に、難色を示すようになっています。

  原節子の方は、小杉を兄のように慕い、彼の帰国を心待ちにしています。彼女は、婿のいない日本で花嫁修業にいそしみます。

  小杉とともにドイツから同行したジャーナリストの女性に小杉は好意を持っているようなのですが、その女性は原節子や早川雪州扮する彼女の父親と接するうちに、ヨーロッパの個人主義や自由主義とは異なる日本独特の「思想」に関心を持ち、彼らの生き方に理解を示し始めます。

  しかし、原節子は、小杉の心変わりにショックを受け、家出。着物に草履といういでたちで噴火口を目指します。彼女の後を追う、小杉。噴煙を上げる火口付近でほんとうに撮影したのかどうか不明ですが、このあたりの撮影はかなり力を入れた様子で、時間も長い。ドイツの山岳カメラマンとして有名な人が撮ったそうで、当時としてはかなりの迫力だっと思われます。

  「新しき土」とは、満州の大地のこと。結局結ばれた二人は古いしがらみから逃れて、新天地満州で再出発、というところで映画は終了。当時の国策映画だと思うのですが、若き日の原節子のお相手が武骨な小杉勇、と言うところがどうもいただけません。展開も強引。でも、当時の人たちには、かなりインパクトのある映画だったのだろうな、とおもわれました。

  この映画は、ある旧家を見学させてもらったときに見つけたチラシで知りました。

   このチラシは、古い針箱の中に丁寧に折りたたまれてはいっていました。チラシには「常盤座」とあったので、多分映画館の名前なのでしょう。針箱の持ち主は、この旧家の現在の持ち主のおばあさま。大正初年くらいの生まれだということなので、映画のできたころは、多分25,6歳。嫁入りしたての頃にご覧になったのか。あの丁寧な畳み方から察するに、映画にずいぶん感銘を受けたのではないかしら。

  親同士が決めた婚約をいったん破棄したあと、新たな気持ちで再び出会って結ばれた二人。当時の人たちには共感するところがあったのかもしれません。

  個人の部屋などない昔の日本のこと。嫁の居場所は大家と言えどもなかったはず。大事なチラシをしまう場所は、針箱しかなかった。などなど、勝手にいろいろ想像をふくらませたことでした。

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本「跳べない蛙」~北朝鮮「洗脳文学」の実体

2024-01-02 23:29:12 | 映画とドラマと本と絵画

  本書「跳べない蛙」の著者金柱聖は、在日韓国人。中学生の時、祖父母とともに北朝鮮に帰国して30数年を北朝鮮で過ごし、その後脱北して韓国にわたり、2018年に本書を刊行しました。

   彼は大学卒業後、大学の教員になったが、辞職後、「作家」になります。

「(北朝鮮の)‘三代にわたる世襲を可能にしたものは何か。それは、かの国が重要視する``宣伝扇動``効果に他ならない。それによって独裁者は‘‘神様‘‘と崇め奉られ、悪行も善行と思わせる。そして、その宣伝扇動効果を高めるもっとも有効な手段こそ、‘‘文学芸術‘‘なのである」

「北朝鮮では群衆を``扇動する‘‘手段として、文学芸術作品が利用されている。そして、宣伝扇動のために作品を創作するのが、‘北国の作家‘‘たちだ」

  「三権分立」は名ばかりで、朝鮮労働党委員長の金正恩のもとにすべての国の組織があり、朝鮮労働党もその支配下にあるのですが、その労働党の中にある「宣伝扇動部」に、新聞も放送局も文学芸術の組織(朝鮮文学芸術総同盟)も組み込まれています。

  「作家」は、この総同盟の一員としての正式な同盟員である「現役作家(本業作家)」と、候補同盟員である「現職作家(兼業作家)」、さらにその下の、「群衆文学通信員(アマチュア作家)」に分かれて、活動します。筆者の、作家としての最終的なポジションは、「現職作家」でした。

  執筆するジャンルはいくつかに分かれ、変更も選択も自由なのですが、唯一、金氏一族の物語を創作することは、特別に選ばれた作家だけなのだそうです。

  筆者たちは、こうした創作家たちの作品を「おべんちゃら文学」と陰で評しますが、国内では高く評価され、一流作家の名をほしいままにし、裕福な生活が可能になります。

  国内ですら移動の自由も居住の自由も認められていない北朝鮮ですが、作家になれば国内を通行手形なしに自由に動き回れて、有給休暇がとれる。ほかにもメリットはいくつもあるということで筆者は現役作家を目指したのですが、種々の理由で、実力は認められても目的の地位を獲得するための受賞は果たせず、結局筆を折ることになります。

 それにしても、90年代には政策の失敗のせいで餓死者が300万人以上も出し、冬の暖房や煮炊きのための薪すら手に入らないほど困窮を極めている北朝鮮で、なぜクーデターも暴動も起きないのか。とにかく物凄い監視体制があるせいなのだろうとは思っていましたが、学校教育のみならず、あらゆるジャンルや場面で宣伝扇動工作を怠らないからなのだと、本書を読んで改めて知りました。

「あれは、韓国の「北韓大学院大学」という大学院で修士課程に通っている時だった。韓国人の若い(といっても30代)女性たちに“在日帰国者”について話をしたことがあった。彼女たちが興味があるのは“洗脳教育”だというので、私は冗談半分に「北朝鮮式の宣伝扇動であなたたちを泣かせてみせましょうか?」と言った。

「金さん、それは無理でしょう。私達は北韓問題の専門家なんですよ? もし泣かすことができたら、夕ご飯は私たちが奢(おご)りますよ」

そして先述の奇跡の物語、つまり金日成氏が送った“初の教育援助費と奨学金”ストーリーをより壮大に語った。話し始めて30分ほどが過ぎた時だった。2人の女性がハンカチで目じりを押さえ、しくしくと泣き始めた。残りのひとりに至っては、ほぼ嗚咽に近い鳴き声をあげていた。彼女が一番たかをくくっていた人だった。

「金さん、もうやめてください。金日成さんて、本当に温かくて人間味のあるお父さんのような方だったんですね。私、感激しました」

冗談で話していた私ですら、驚くほどの効果だった。話を聞くまで、彼女は金日成氏を呼び捨てにしていたのに、そこまで簡単に“洗脳”されてくれるとは思わなかった。おかげで私は、高級料理を奢ってもうらことができたのだが――。

人様の感性をくすぐる、そしてその感性を論理化していく過程が、いわゆる“洗脳”ではないだろうか。」

(『跳べない蛙』「第2章 祖国」)」

彼女たちは北朝鮮について一般市民より深く学んでいる人たちなのに、簡単に筆者の語る嘘に騙されました。甘すぎる。ぞっとする話です。

「地上の楽園」と宣伝され、戦後の1960年くらいから始まった北朝鮮への帰還事業。筆者は70年に、朝鮮総連の幹部だった祖父の強い勧めで、祖母とともに同行します。でも、北朝鮮についた直後から、楽園とは程遠い北朝鮮の現実に嫌でもさらされることになります。

筆者が帰還したときより数年前ころ、高校生だった私は、同じ中学校で同年だった在日の青年と知り合いになりました。家が近かったので、訪ねたこともありました。彼の父親は済州島出身で、戦中に強制連行で連れてこられ、岐阜県御嵩町の亜炭鉱で採掘に従事していたとのことです。その後、私のすんでいた町に移住。彼の姉は朝鮮大学校に通っていて、私と別の男友達と彼の三人が、彼女のおごりで会食したこともありました。

その彼が当時つぶやいた言葉。

「寂しい時、つらい時、深夜にひとりで平壌放送を聞いている」

口調はなんとなく自嘲的で、暗かった。その時私が何と返事したかは覚えていません。

その後しばらくして、彼とは音信が途絶え、私は大学入学のため京都に引っ越し、そのままに。何年かたった頃、彼と親しかった男友達に消息を尋ねましたが、一家は町からいなくなり、その男友達も既に彼とは付き合いがなくなっていました。のちに、二度ほど出席した同級会や同年会でも、だれに尋ねても行方は分からなくなっていました。

もしかしたら、彼は帰国したのかもしれない。この本を読んで、私は想像が確信に変わり始めています。

本書によれば、帰還事業で北朝鮮に渡った人の90%は、韓国の出身者だったそうです。つまり、ほんとの「故郷」に帰ったのではなく、北朝鮮や朝鮮総連が「宣伝扇動」した結果、在日の人たちのあこがれの地となった「地上の楽園」である「祖国朝鮮」に渡ったのでした。

書いていて思い出しましたが、彼は「本を書くなら、タイトルが決めてある」というようなことを言っていました。そのタイトル、うろ覚えですが、たしか「悪党」だったような記憶が。頭のよかった彼は、もしかしたら、北朝鮮で、本書の作者のような道を歩んだのかもしれません。

北朝鮮の内実は、近年様々な報道で少しずつ明らかになりつつありますが、本書にはこれまであまり知られていなかったと思われることが、多々描かれています。階層をとっぱらった「社会主義国」のはずの北朝鮮は、あらたな身分制度を作り、世襲制を敷いてるそうです。知れば知るほど、驚くようなことがまかりとおっていて、もしかしたら古今東西こんなひどい国はなかったのではないだろうかとおもうほど。そんな国が生きながらえたのは、米中ソの三つの大国に挟まれて、そのバランスの中にいたからなのでしょう。

ともあれ、北朝鮮には、まだまだ暴露されていない事実はやまとあると思いますが、その一端を覗くことができました。

 

 

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映画「アルジェの戦い」

2023-12-23 23:12:18 | 映画とドラマと本と絵画

   70年代に京都で見た、と思い込んでいましたが、どうも見ていなかったらしいので借りました。https://mihocinema.com/algeri-tatakai-81090

   アルジェとはアルジェリア。50年代から60年代初頭にかけての、フランスからの独立運動を描いた作品です。映画の中で、「フランスとアルジェは130年続いた仲」と言っていたので、植民地時代が長い。モスクを取り壊してキリスト教の教会に建て直したりしていたそうで、抑圧の歴史も長かったろうと想像されます。

   ヨーロッパ人の居住区と現地のアラブ人たちの居住区は分かれていて、ヨーロッパ人は圧倒的に裕福な暮らしをし、アラブ人は差別され、貧しい暮らしを余儀なくされています。

   主人公は青年アリ。ヨーロッパ人からひどい屈辱を受け、仕返ししたために投獄されます。その後、地下組織であるアルジェリア人民解放軍に入ります。解放軍は、フランス政府との間での平和的な交渉を望みますが、応じない政府に対して、活動は過激化。アリはテロリストとして、解放軍の重要人物になっていきます。

   頻発するテロに危機感を持ったフランスは、軍人に強い権限を与えて制圧に乗り出します。テロが起き、死者が出ると、軍はアラブ人を大量に検挙し、その中のめぼしい人物を拷問にかけては、反政府勢力の組織の実態とアジトをつかんでいきます。

   組織はいったん壊滅状態に。しかし60年代初め、突如起きた民衆の運動がきっかけで、独立を勝ち取ります。

   映画はモノクロ。カスバの階段と白壁が、印象的です。軍隊に追われるテロリストや活動家たちは、カスバの細い階段を駆け抜け、白い壁の向こうへ。そこで、彼らはかくまわれ、生き延びます。

   銃撃シーンやモブシーンはニュース映像なのかと思うくらい緊迫感がありました。映画を作ったのは、イタリアとアルジェリア。イタリア映画もフランス映画も力があって面白かった時代の映画の一つなのだろうなと思いました。

   

   

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