今日は忠臣蔵について話したいと思います。
NHKで「忠臣蔵の恋」毎週(土)午後6時10分放送。
主人公きよ(武井咲)、恋人役に礒貝十郎左衛門(福士城治)、大石内蔵助(石丸幹二)。
学生時代友人が泉岳寺の近くに住んでいたから何度もお参りに行っていた。
先日また行って来た。忠臣蔵は誰もが知っていると思いますが、知らない人のために簡単に説明します。
浅野家の若い殿様が上野介から、賄賂が前回は500両だったのに300両に減らされたため、饗応役の料理の献立や墨絵の屏風にいちゃもんをつけ、ひどい仕打ちを受けてしまった。
その「恨みで」江戸城松の廊下で刀傷に及び、その日の内に切腹させられ浅野家は断絶させられた。
家老の大石内蔵助が、300人の家臣を討ち入りの47人に絞ったやり方は。
まず、家臣達に金を分配する。
下級武士でも10両(10年は暮らせる)。
これが、第一段階のふるいだった。
次に赤穂城開城のとき、亡君の霊前で主君の後を追って殉死を試みる連判状に血盟させた。
これで、切腹覚悟する人間が57人になった。
その後、そのもの達の中には仇討ちを言い出す者が現れたため、
家老の大石は実は仇討ちをする事を打ち明け同意するものに、再び血判させた。
47人の家臣が残った。
両国にある「吉良邸包囲陣と突入の配置」は
『表門隊』
・総指揮5人
大石内蔵助(45歳)他
・東門3人
・玄関と側面6人
・屋内突進9人
片岡源五右衛門(37歳)他
・邸内突入9人
堀部安兵衛(34歳)他
『裏門隊』
・指令部3人
・側面固め12人
大石主税(16歳)、礒貝十郎左衛門(25歳)他
合計47人。
大石は討ち入り用に、折れない浅野家の家宝である銘刀を皆に渡したという。
また、黒装束に身を包んで闇にまぎれ、火消しに従事する者に見せかけた。
これも、不成功を許されなかったという考え方に立っていたからである。
さて、吉良がなかなか見つからなかった。
しかし、表門隊に属していた間十次郎(26歳)が台所口の炭部屋に入って、潜んでいた吉良に一槍突いた(一番槍、展示されている)。
つづいて、武林唯七(32歳)が一刀を浴びせて討ち取った(一番太刀)。
吉良の首を白小袖に包み、合図の笛を吹き、
表玄関前に集まり、
捕らえておいた番人3人に首を見せ、疑いなく吉良上野介(きらこうずけ)と確認したのち泉岳寺に引き揚げた。
快挙の報は電光のように江戸中に伝わり、民家の戸が次々に開き、群衆が道に溢れたという。
吉良の首を井戸で洗い(今でもある)亡君の墓前へ供えた。
一番槍の間十次郎を第一の功とし、始めに回向させて、
次に一番太刀の武林唯七に回向させたという。
さまざまな障害を乗り越え、同士の決意を鈍らせず、ひたすら目標に邁進させた結束力、指導力は現代型のリーダーといわれ、長く日本人の心をとらえている。
外国人の観光客もたくさん訪れるようになった。
また、この討ち入りの小隊が、後の日本軍の小隊編成の手本になったと聞いている。
平和な元禄時代の事ですが、
年末になると、いつも私は47人の中に残れるだろうかと自問自答している。
いや、邸内突入隊に志願しているだろう。
一番槍だ!
と子供の頃遊んだのを
思い出しました。
今日はこれまで
合掌
NHKで「忠臣蔵の恋」毎週(土)午後6時10分放送。
主人公きよ(武井咲)、恋人役に礒貝十郎左衛門(福士城治)、大石内蔵助(石丸幹二)。
学生時代友人が泉岳寺の近くに住んでいたから何度もお参りに行っていた。
先日また行って来た。忠臣蔵は誰もが知っていると思いますが、知らない人のために簡単に説明します。
浅野家の若い殿様が上野介から、賄賂が前回は500両だったのに300両に減らされたため、饗応役の料理の献立や墨絵の屏風にいちゃもんをつけ、ひどい仕打ちを受けてしまった。
その「恨みで」江戸城松の廊下で刀傷に及び、その日の内に切腹させられ浅野家は断絶させられた。
家老の大石内蔵助が、300人の家臣を討ち入りの47人に絞ったやり方は。
まず、家臣達に金を分配する。
下級武士でも10両(10年は暮らせる)。
これが、第一段階のふるいだった。
次に赤穂城開城のとき、亡君の霊前で主君の後を追って殉死を試みる連判状に血盟させた。
これで、切腹覚悟する人間が57人になった。
その後、そのもの達の中には仇討ちを言い出す者が現れたため、
家老の大石は実は仇討ちをする事を打ち明け同意するものに、再び血判させた。
47人の家臣が残った。
両国にある「吉良邸包囲陣と突入の配置」は
『表門隊』
・総指揮5人
大石内蔵助(45歳)他
・東門3人
・玄関と側面6人
・屋内突進9人
片岡源五右衛門(37歳)他
・邸内突入9人
堀部安兵衛(34歳)他
『裏門隊』
・指令部3人
・側面固め12人
大石主税(16歳)、礒貝十郎左衛門(25歳)他
合計47人。
大石は討ち入り用に、折れない浅野家の家宝である銘刀を皆に渡したという。
また、黒装束に身を包んで闇にまぎれ、火消しに従事する者に見せかけた。
これも、不成功を許されなかったという考え方に立っていたからである。
さて、吉良がなかなか見つからなかった。
しかし、表門隊に属していた間十次郎(26歳)が台所口の炭部屋に入って、潜んでいた吉良に一槍突いた(一番槍、展示されている)。
つづいて、武林唯七(32歳)が一刀を浴びせて討ち取った(一番太刀)。
吉良の首を白小袖に包み、合図の笛を吹き、
表玄関前に集まり、
捕らえておいた番人3人に首を見せ、疑いなく吉良上野介(きらこうずけ)と確認したのち泉岳寺に引き揚げた。
快挙の報は電光のように江戸中に伝わり、民家の戸が次々に開き、群衆が道に溢れたという。
吉良の首を井戸で洗い(今でもある)亡君の墓前へ供えた。
一番槍の間十次郎を第一の功とし、始めに回向させて、
次に一番太刀の武林唯七に回向させたという。
さまざまな障害を乗り越え、同士の決意を鈍らせず、ひたすら目標に邁進させた結束力、指導力は現代型のリーダーといわれ、長く日本人の心をとらえている。
外国人の観光客もたくさん訪れるようになった。
また、この討ち入りの小隊が、後の日本軍の小隊編成の手本になったと聞いている。
平和な元禄時代の事ですが、
年末になると、いつも私は47人の中に残れるだろうかと自問自答している。
いや、邸内突入隊に志願しているだろう。
一番槍だ!
と子供の頃遊んだのを
思い出しました。
今日はこれまで
合掌