「空の鳥を見なさい。天の父は彼らをも養ってくださる。」
(聖書マタイ6.26)
「山路(さんじ)来て
何やらゆかし
すみれ草」
(松尾芭蕉)
通る人も少ない山奥の脇道に、すみれの花が咲いている。神から与えられた短い生涯をひっそりとけなげに生きている花に感動したのでしょう。
花や鳥達が懸命に生きている。父なる神を信じて。私たちも精一杯自分の場所で花を咲かせましょう。誰かの生きる勇気になるから。
「空の鳥を見なさい。天の父は彼らをも養ってくださる。」
(聖書マタイ6.26)
「山路(さんじ)来て
何やらゆかし
すみれ草」
(松尾芭蕉)
通る人も少ない山奥の脇道に、すみれの花が咲いている。神から与えられた短い生涯をひっそりとけなげに生きている花に感動したのでしょう。
花や鳥達が懸命に生きている。父なる神を信じて。私たちも精一杯自分の場所で花を咲かせましょう。誰かの生きる勇気になるから。
ある童話の物語をまた思い出しました。
鹿児島の屋久島へ少年8人が、シカ狩り名人吉助おじさんと、冬の山へ、シカ撃ちに行きました。
目当ては鉄砲で片耳をもがれたシカの大将。ところが急に嵐になり、ずぶ濡れになった一行は洞穴にもぐり込みます。そこには、仲間を連れて嵐を逃れた大鹿達がいました。
寒くてたまらない少年達はシカの群れの中にもぐって冷えきった体を温めたため、命が助かりました。
気がつくとシカの群れは大鹿について出ていきました。
大鹿を殺しに来たのに逆に助けられたのでした。人間の心のみにくさや命の大切さ、助け合って生きていくことを教えてくれました。そんな物語です。ユーミンがこの物語に感動した記憶があります。忘れられない物語に出会った事に感謝。
「袖振りあうも他生の縁」(日本の諺)
この言葉には暗示する意味があります。
他生とは、仏教では前世、来世のこと。道ですれ違うまったく関係ない人でも前世からの因縁があると教えている言葉です。「袖」を「魂」に変えてください。「魂すりあうも前世、来世の縁」となります。声掛け合う人は前世、来世でも深く触れ合う人です。私は相談事、悩み事を受けて知らない人と接する事が良くあります。その方よりも背後霊の方に親しみを感じる事もあります。お互いの前世のご縁があるからでしょう。皆様とお話ししているのは国を離れて前世からのご縁があるからだと思います。私の前世は貧しく困難な道を生きていて、皆様の前世に救われていたのだと感じています。そのご恩返しで生かされているのです。ありがとうございます。
感謝 合掌 アーメン
「幸福になりたければ、やれ恩を返せだの、恩知らずだのと言わないで、人につくす喜びだけを生き甲斐にしようではないか。」
(D・カーネギー)
これが分かると幸せになります。それが一番神様が喜ぶからです。
『お茶を濁(にご)す』という言葉があります。いいかげんにその場をごまかしたり一時しのぎに取り繕うという意味です。昔、お茶は大変貴重なものとして珍重されていました。一般に普及したのは室町時代以降で、それまでは貴族や僧侶だけの飲物とされていたそうです。そこで、お茶を出せばその場を丸めこめたことから、急場をしのぐことを「お茶を濁す」というようになったという説と、作法の厳しい茶道で、心得のない人がいいかげんなやり方でお茶をたてその場を取り繕ったことから由来しているという説があります。僕は困った時、人生訓などを話しています。それが、案外興味をひく話しになって皆の気を引きその場を取り繕ったことがありました。これも、お茶を濁すというのだろうか。お茶がなかったから『話を濁す』てことか。言葉はお茶のように役にたちます。だから身につけましょう。深く共鳴する言葉は心に刻みましょう。