古稀を過ぎた主夫の独り言日記

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ちちのこと

2022-11-18 10:12:52 | 主夫のつぶやき
父が生きていれば今100歳になる。
父春吉、母くわの三男だったと思う。
思うというのは、名前が『恒三郎』だからだ。
長男は『正太郎』と言った。
だから、次男が居たと思うのだが幼い内に亡くなったのだろう。
正太郎と父は十歳以上歳が離れていた。
正太郎はかなり変わり者だったようで、職人の家に生まれながらバイオリンなどを習っていたそうだ。
二十歳そこそこで女が出来、子供が出来た。
親には勘当同然の身となりながら、自由人を貫き、離婚し、二十代で死んだ。
父はそんな正太郎のことを好きだったようだ。
後々供養し、戒名を頂き仏壇に祀った。
父が幼い頃の家はかなり裕福だったらしい。
幼稚園に通うのに御伴が着いていったという。
まだ15歳にも満たない丁稚だったそうだ。
三歳の頃には島田の大祭りで上踊りを踊っている写真がある。
300年以上続くこの祭りは『帯祭り』として有名だ。
一街から五街は屋台を牽いて、その屋台の上で歌舞伎の一流どころの長唄や三味線をバックに踊るのだ。
今でもそれが受け継がれているが、上踊りをやるのには数百万円を用意する必要がある。
父の祖父は街の顔で、羽振りも良かったらしい。
親は金を用意できなくても、祖父母が可愛い孫のために金を作るのだ。
小学校に上がってから暫く、父はぼんぼんで育った。
しかし、世界大恐慌の不況がじんわりと小さな街を襲い、工場は倒産してしまった。
尋常高等小学校から商業高校に進学する予定だった父は、就職した。
そして間もなく、召集令で戦争に巻き込まれていく。
釜山から鉄道で大連まで行き、そこから南下が始まった。
青島や寧波など海岸沿いに南下し、広州まで行った。
そこから押し戻され、武漢まで後退したところで戦争が終結し捕虜になった。
終戦後半年ほどで帰還したらしい。
最初の就職先に再就職し、結婚し、子供も生まれようやく落ち着いた生活が出来るようになった。
父は新しもの好きである。
私が小学校低学年の頃、プラモデルに嵌まっていた。
それが昂じてラジコン飛行機を始めた。
オートバイも何台か乗り継いだ。
自分で商売を始めてからは、暇はあるが金が無いので野球をしていた。
商売が上手く回り始めてからは発明に懸命になった。
商売に関連する発明をしては登録していた。
メーカーに特許を購入して貰ったこともあった。
それでも、全部持ち出しだった。
金には執着していなかった。
檀家寺や市内の有名寺院などに寄付をするのが趣味のようだった。
寺の百段以上もある階段の手すりを作るのに金を出し、労働奉仕もした。
仕事を辞めてからも寄付や奉仕は続いた。
亡くなったとき、固定資産以外に財産はほとんど無かった。
預金として残っていた数百万円は叔父・叔母に少しずつ分けた。
率直な意見をする人で、多くの人に嫌われていたようだ。
亡くなった後に、そうした話をする人が何人も居た。
父と深く付き合った人以外には勘違いされていたようだ。
短気で、怒りっぽく、五月蠅い人だと。
一緒に仕事をしていた人でも、優しい面を知っている人は少ない。
父の葬儀に、友人が100人以上集まり一緒に食事をした。
口々に父のことを聴かされた。
嬉しかった。
曲がったことが嫌いで、納税では毎年表彰されていた。
友達のためには親身に何でもしていた。
病院は大嫌いで、それが原因で癌が見つかったときは遅かった。
私は父が死ぬまでガンのことは一切言わなかった。
どうしても家に帰りたいと、一晩だけ許可を頂き帰宅した。
母と私に挟まれて、一晩昔話をした。
我が家の先祖の多くは17日に旅立っている。
父の最後の言葉は『もう17日になったか?』だった。
翌朝、旅だった。
1月17日だった。


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