ただ今、また私の病の一つ、見当はずれの「心配性」というのが3ヶ月ほど続き、無駄なエネルギーを湯水のように使い、カスのようになって、がっくりと疲労状態である。
対象は、多くの場合、息子たちにむかって多発する。good-by をし、空気の精になっているのだが、ささいなふとした心配がきっかけで、この病がおきる。あわてふためき、あれこれと自分の考えだけで、心配をする。
この病の処方は、先々とあわてずに、むしろ後手にまわるような感じで、じっくりと現実の成り行きをみながら対処してゆくことだ、という。「ほっておく」のが原則。決して口をださない。成人したら、自己決定、自己責任が原則。が、人生はいろいろだから、そのとき、そのときで、息子たちから相談されてから、考えればいいのだ、というが.....
もちろん、先をみて準備しておかなければいけないことは、ある。
しかし、その二つが、ふとしたはずみで混合し、あわてふためき、先々と見当はずれの「心配性」街道を突っ走るという病がでることがある。
「待つ」ことよりも「騒ぐ」ほうが楽だとみえて、この病を完治することができない。
たいがいは、無駄騒ぎに終わる。
「自分の不安感を消すためだけに、騒ぐのはやめてくれ。もっと冷静になって、そしてよく考えるのだ」と、ナマイキな息子には、きつく言い渡されている。(?!)反論しないのは、その通りだと思うから。
したがって、騒ぎたくなった時には、家族の誰にもいわず、心のなかだけで一人で騒ぐ。対象相手に接近すると、心中がばれるので、接近しない。だが、時間にまかせておくと、ふたが開く。たいがいは、たわいもないほどあっけなく、ちゃんと自分の結論を出していることが多い。
しかも、私の頭だけで考えたこととは、まったく関係ない考えで結論がでていることが多い。それは、そうでしょう。わたしと、息子たちとは、親子といえども別人間であるので、考えがちがうのは、あたりまえ。自分の考えだけで、あれこれ心配するのは、ほとんどが無駄。
しかし、分かってはいるが、やめられない。だから病なのだ。
こうゆうのを、典型的な「バカ母」というのだろう。立場を代えて考えると、うんざりするのが、わかるので、発症したときには、心のなかで、家族にばれないように、騒ぎたいだけ騒ぐ。病の処方はすでに知っているというのに、たまに、まだ病がおきる。だから、病なのだ。
対象は、多くの場合、息子たちにむかって多発する。good-by をし、空気の精になっているのだが、ささいなふとした心配がきっかけで、この病がおきる。あわてふためき、あれこれと自分の考えだけで、心配をする。
この病の処方は、先々とあわてずに、むしろ後手にまわるような感じで、じっくりと現実の成り行きをみながら対処してゆくことだ、という。「ほっておく」のが原則。決して口をださない。成人したら、自己決定、自己責任が原則。が、人生はいろいろだから、そのとき、そのときで、息子たちから相談されてから、考えればいいのだ、というが.....
もちろん、先をみて準備しておかなければいけないことは、ある。
しかし、その二つが、ふとしたはずみで混合し、あわてふためき、先々と見当はずれの「心配性」街道を突っ走るという病がでることがある。
「待つ」ことよりも「騒ぐ」ほうが楽だとみえて、この病を完治することができない。
たいがいは、無駄騒ぎに終わる。
「自分の不安感を消すためだけに、騒ぐのはやめてくれ。もっと冷静になって、そしてよく考えるのだ」と、ナマイキな息子には、きつく言い渡されている。(?!)反論しないのは、その通りだと思うから。
したがって、騒ぎたくなった時には、家族の誰にもいわず、心のなかだけで一人で騒ぐ。対象相手に接近すると、心中がばれるので、接近しない。だが、時間にまかせておくと、ふたが開く。たいがいは、たわいもないほどあっけなく、ちゃんと自分の結論を出していることが多い。
しかも、私の頭だけで考えたこととは、まったく関係ない考えで結論がでていることが多い。それは、そうでしょう。わたしと、息子たちとは、親子といえども別人間であるので、考えがちがうのは、あたりまえ。自分の考えだけで、あれこれ心配するのは、ほとんどが無駄。
しかし、分かってはいるが、やめられない。だから病なのだ。
こうゆうのを、典型的な「バカ母」というのだろう。立場を代えて考えると、うんざりするのが、わかるので、発症したときには、心のなかで、家族にばれないように、騒ぎたいだけ騒ぐ。病の処方はすでに知っているというのに、たまに、まだ病がおきる。だから、病なのだ。