今日も鹿狩である。
この山道は尾根筋で、ここより1キロほどの場所で獲物を待ちます。
右の谷底から犬達が鹿を追ってくる(?)予定です。
写真中央に石が見えます。40年ほど前は石垣の様に積まれていました。
この奥で焼かれた炭は女たちが背に負い山を降りました。80キロ近い炭俵を背負い、急峻な山道を杖一本で降りました。腰を下ろして休息すると二度とは立ち上がれない重さの炭俵です。
そこで石垣を作り、この上に炭俵を乗せて休息しました。勿論、人間は立ったままです。
山奥までにあと3か所「荷掛け石跡」があります。
ここで休息すると急勾配が続き、転倒の危険性があります。転倒すれば炭は割れて市場価値が下がります。
生計を支えるために女たちは自分の体重よりも重い炭俵を担ぎました。
夫婦で何日も山奥で生活し、時には子供も育てたそうです。
季語には「炭負い女」が有りますが、とても俳句を作る事は出来ません。
厳しい工夫ですね。
この様な跡は保護されず、消えていきます。
同時に人々の記憶からも消えて行くでしょう。
両親が炭焼きをしており、山の中で育ったこと、周囲の自然描写等々、え?というような話の連続。決して楽な暮らし向きではなかったのでしょう、、途中からは涙を流し、言葉に詰まってしまわれたので、とうとう聞かずじまいです。
そのずっと以前ですが、知人のツテを頼って、炭焼きを見学に行ったことがあります。
職人さんを手伝いながら、作業の真似事をしていましたが、炉から何メートルも離れているというのに、肌が焼けただれそうな熱風が襲ってきました。二度とやるまいと心に誓いましたが、そこの炭火でバリッと焼きあげたトーストと焼き芋が最高においしかったことだけは、鮮明に覚えています。
その炭焼き小屋に向かう途中、ハンターさんが山を下りて来るのに出会いました。軽トラに大物の猪が牙をむき出して横たわっている姿は、当時は衝撃。ハンターさんはほくほく顔でした。
良い体験をしましたね。
しかし、80キロを超える炭俵を担ぎ、山より降ろす炭負い女は過酷な労働です。
emiさんがやれば、ギックリ腰では済まないでしょう。
タクシーの運転手さんにとっては、思い出したくない事でしょう。
樵やサンカの生活は、まさにこの世界です。
昭和を懐かしむ意見も有りますが、陰の部分を見ていません。