稼げる書体があるのです。
それは時代によってどんどん変わっていくのです。
オリジナルなんてものはどこにもありません。
すでにやり尽くされていて、現代に生きる者が書の世界で新しいことをやろうとしたら、それはもう最新のテクノロジーに頼るしかないでしょう。
平面に書いた文字を3D化したり、建物に動画として移し出したり、その時その時で慣れてない間は話題になるでしょうし、時代の先頭に立っていたい人はやるべきです。
でも私はやりたくない。
こう見えて、結構保守的なんだな(笑)
遊びではやりますよ、こころ入れなくてすみますから。
でも何かに心や魂を入れる作業は、書でも絵画でもロックドラムでも、一気にいかないと僕にはできないなぁ〰
だらだらとやるのは、遊び。
その、遊びの中にヒントがあるので、遊びはやめません。
でも所詮遊びですから、テキトーです。
そこを評価されるのは困るんだよなぁ〰
書道展に行くと、毎回ように感じることがあります。
社中展にはありがちなのが、師のお手本を真似をしたものを、その会以外の第三者に見せたい心理がわからない。
部外者に見せなくてもいいんじゃない?
そして、アバンギャルド風な作品を観ると、暗黒な闇を持っている人がこんなにいるのか!という驚きと、それが瞬間に、でもやっぱり、闇を抱えてる風な仕上がりを求めたんだろうなぁというため息に変わる、、、
自分を変人に偽るのはやめたほうがいいんじゃない?
これが国民の等身大のわかりやすい作品だ!
と言わんばかりの、馬鹿っぽい(笑)作品に出くわすと、この人馬鹿なんだろうなぁ〰と
早く目を覚ましなさいよ。
ひとりの人間は多くの面を内包しています。
それを一つ一つとってデフォルメすれば、極端なものになるのは必然でしょう。
しかし、日本人の創り出した作品には、日本人がDNAレベルで継承しながら育んできた、静謐な精神があってほしいのです。
渋谷駅にある巨大な岡本太郎の作品にも、縄文人の生命力と同時に、縄文人の静謐さを感じます。
岡本太郎はオリジナルを創り出した数少ない芸術家です。
日本の書の世界に同等な芸術家がいたのだろうか、、、
自分の目指している事が、無謀である事は分かっているのです。
そこには葛藤があり、無力さからくる諦めがあり、でも何かヒントがないか、いつも探している。
遊んでいれば、諦めなくて済むし、諦めていないと言う自分に対する言い訳にもなる(笑)
故に、遊びはテキトーでもわたしには必要なのです。
大成しそうもないなぁ〰(笑)