村田烏江著
支那劇と梅蘭芳
玄文社版
〔題字〕
・馮耿光氏題字
・羅惇曧氏題字
・大倉喜八郎氏題字
・龍居賴三氏題字
〔序〕
・梁士詒
・李宣倜
・梅蘭芳序 聽花散人
・烏江散人
〔口絵写真〕
・梅蘭芳
・木蘭從軍 花木蘭 梅蘭芳
・晴雯撕扇 一名千金一笑 梅蘭芳
・晴雯撕扇 小間使晴雯 梅蘭芳
・ 晴雯 梅蘭芳
・晴雯撕扇 襲人 姚玉芙 寶玉 姜妙香 晴雯 梅蘭芳
・御碑亭 孟月華 梅蘭芳
・貴妃醉酒 一名百花亭 貴妃 梅蘭芳
・遊園驚夢 杜麗娘 梅蘭芳
・琴挑 陳妙常 梅蘭芳
・麻姑献壽 麻姑 梅蘭芳
・麻姑献壽 麻姑 梅蘭芳
・虹霓關 〇〇 梅蘭芳
・游龍戯鳳 一名梅龍鎭 李鳳姐 梅蘭芳
・天女散花 梅蘭芳 天女 梅蘭芳 花奴 姚玉芙
・天女散花 姚玉芙 梅蘭芳
・天女散花 梅蘭芳
・天女散花 姚玉芙 梅蘭芳
・靑衣 梅蘭芳
・靑衣 梅蘭芳
・靑衣 梅蘭芳
梅蘭芳小史
梅蘭芳字は畹華江蘇省泰州人にして一代の名優梅巧玲の孫に當る。祖父の巧玲も矢張り女形の俳優でその色藝は當代に於ける幾多の文人墨客から謳はれ。中にも樊々山や易實甫等の學者はこの巧玲を頗る贔屓にしたものである。且つ巧玲は身は俳優であつたが、極めて義侠心に富んだ男であつたので、一般からも自ら崇められその人気は非常なものであつたと傳へられてゐる。光緒の初め巧玲は大瑣、二瑣の二人の子を遺して逝き、次子の二瑣は美しき顔立ちであつたので、之れも父業を繼いで優となり女形を學んだ。父の人気を享けて二瑣の評判は仲々好く、樊々山や易實甫は巧玲の關係から二瑣を賞すること極めて深く、懇切にこれを誘導したが、彼は體質弱きところに晝夜歌舞に從うた爲め遂に肺を病んで夭折するに至つた。二瑣が死する時幼名を群子(一名裙姉)と呼ぶ四歳になる遺兒があつた。群子は父を失ひて大瑣即ち梅雨田に養はるゝことゝなつた。父二瑣に似た美しい顔立ちの穉ない群子は人の目も羨るゝ程可愛い兒であつた、群子はこれぞ今日の梅蘭芳である。
幽燕歌舞の地と
梅蘭芳の生立ち
二瑣が逝きてより梅家は萬事意の如からず大瑣の家計は漸く細り行き巧玲の遺産も今は賴み少なくなつた。幸ひにして大瑣は胡琴の名手であつたので、各梨園に出入し生活の助けとして居つた。前淸の末期に及び大瑣は愈々家計に苦しみ、遂に兄の遺子たる群子を名優朱霞芬の門に拜せしめた。群子は朱霞芬の門に子弟となり始めて梅蘭芳と名乗つた。丁度十歳の時である。其後喜連成科班と云ふ少年俳優養成所が出來て、蘭芳はこヽに入り靑衣即ち節婦烈女に扮する女形を學んだ。當時同科班の少年俳優二百餘人もあつた中に、蘭芳が容色に於て最も優れてゐたと云ふのでも如何に彼れが美しかつたかゞ分明る。總明な彼れの技藝はこゝに於て長足の勢を以て進歩した。文明圏や中和園その他の劇場は爭つて彼れを聘するやうになつた。技藝に於ける蘭芳の名が漸く都下に謳はるゝや、羅癭公、奭召南、馮幼薇、李釋戡等の諸名士は巧玲の孫であると云ふところから、更らに彼を寵愛し引立つる力を惜しまなかつた。
一笑萬古春一啼萬古愁
萬都の士女を腦殺した
世は民國となつて蘭芳は北京前門外鮮魚口なる天樂園に出演することゝなつた。爾来その名聲は一時に高く、萬都の士女は彼れの矯名に醉うてしまつた。その當時に於ける彼れの一顰一笑は誠に城を傾け國を傾くるの概があつた。易哭庵はその萬古愁曲に一笑萬古の春一啼萬古の愁古來此の佳人ありやと詠じて居る。其以前今は物故した一代の名優譚鑫培が全盛を極めた時分、名士狄楚靑が、國事興亡誰管得、滿城爭説叫天兒(叫天とは譚鑫培の別名)と戯れたことがあつたが、此時に於ける蘭芳の聲價は殆んどこれ以上で、天樂園のある鮮魚口外は車馬絡驛として絶えず、都人は勿論數十里外より態々彼れを觀に來るものさへあつた。民國議会が開けて正式大總統の選擧が行はるゝや梅蘭芳に一票が入れられた。固より議員の戯れであつたがこれを見るも如何に評判であつたかが判明る。然しその頃に於ける蘭芳は藝術の上から眞面目に論じて尚ほ研究の餘地が充分あつた。そこで彼れを賞揚すを馮幼薇、李釋戡、齊如山、許伯明、舒石父、呉震脩、胡伯平の諸名流は蘭芳後援會を組織し之を綴玉軒と名付づけ、專らその研究指導に從事することゝなつた。時に蘭芳の聲名を傳へ聞いた上海の丹桂園は禮を厚うして彼れを迎へ、彼は其年の夏同僚の王鳳卿と共に初めて上海に赴き丹桂園に出演した。蘭芳の上海に於ける人気は亦た非常なるもので樊々山は當時梅郎曲を作つて呉天飛下鳳凰雛朝陽一鳴萬目注と云ひ呉郎聽郎歌呉姫見郎舞と歌つてゐる。蘭芳は上海に在ること四十餘日歸京の後第一舞臺が落成し、彼は此處に出演し再び文明園、吉祥園等に登臺し熱心に研究を續けた。
新曲の研究に生れた
支那藝壇の明星
上海から歸つて來た蘭芳は尚ほ自らの技藝に慊らず更らに新曲の研究に志した。所謂新曲とは新劇の意味ではなく近代文學家にして蘭芳の誘導者たる李釋戡及び齊如山、呉震脩諸人の作曲になるもので嫦娥奔月、黛玉葬花、天女散花等の曲がこれである。此等の曲は詞句の上品なると共に之れを演ずるのも容易でない。彼れは之を研究し之を演じ更らに此新曲を携へて前後三囘上海に出演し非常なる喝采を博した。彼れは實にこれ等の劇を以て舊慣卜守と稱せられたる支那劇に始めて現代的色彩を添へ支那劇を藝術として汎く世に紹介した、爾来彼の名は外國人にまで識らるゝやうになつた。蘭芳の師を呉菱仙と云ふ然し彼の今日を成しのは、呉菱仙よりも靑衣の泰斗陳徳霖に師事したのが與つて力がある。又た彼は西太后の殊寵を蒙つた内廷供奉の喬惠蘭に就き崑曲の蘊奥を極め是に於て彼は崑曲に於ても名人の域に達し京中第一の名聲を博し得た。蘭芳の妻はその同輩たる王毓樓の妹で容姿優れざるも賢夫人との譽れが高い。伯父梅雨田を失ひ彼れは今や巧玲の夫人たる本年八十歳になる祖母と一人の伯母に仕へて居る。蘭芳今年二十六歳爲人溫順且つ勤勉好學にして交友苟もせず謙譲自ら人をして敬愛せしむ。その支那藝壇の花として更らに洋にたる將來を有すると信ずる。
支那劇梗概
支那劇の見方
劇中の梅蘭芳
梅郎評 〔下は、その一部〕
谷崎潤一郎氏の梅郎觀
小説家として文名隠れなき谷崎潤一郎氏は支那漫遊の途次北京を過ぎ數日の滞在を屡々劇場に出入して支那劇を觀察した、著者は一日氏を伴うて廣徳樓に梅蘭芳の劇を觀た藝題は御碑亭で蘭芳の配役は名優王鳳郷であつた、氏は劇の始終に就て仔細の注意を怠らなかつたが芝居が終つてから北京で各處の支那劇を覗いて見たが今日始めて劇らしい劇を見たと語り梅蘭芳の眉目と表情更らにその聲調等に就き遺憾はないと賞讃して止まなかつた。
龍居枯山氏の梅郎評
北京に來てから私はいろゝのものを見て、支那といふもの、支那文明といふもの、乃至支那人といふものに就いて豫期以上の智識を得たのであるが就中私を最も驚かしたものは梅蘭芳の藝術であつた。
梅蘭芳のことは私も豫てから聞いてもゐたし、寫眞なども見てゐたが、北京に來て直接彼れの藝術を見るに至つた、それが私の想像以上に立派なのに驚いたのである。恐らく女形として彼ほど理想的な役者は今日の日本には一人だつてあるまいと思ふ。
それでは彼の何の點が優れてゐるのか、容貌であるか姿であるか又はその聲であるかー私はその全部が好いと云ふに少しも躊躇しないのである。
けれどかう云ふて了つては餘り掴み所のない讃め方である。それ故私は私の貧弱なる彼に就いての觀察から彼の優れたる點の幾つかに就いて述べてみようと思ふ。
一口に云へば彼れは天才である。無論洗練されたる彼の藝術に立派なものがあるに違ひないが、それ等のものは彼の持つて生れた美しくして而も表情に富んだ眼やまた彼の柳の如く窈窕かな身體全體の美に比ぶれば云ふに足りぬのではあるまいか。
彼の眼と鼻は實に申分がない、ただ口が少し缼點であると云ふ人もあるけれど、私に云はせれば、口は決して惡くはない、否却つてあの口によつて彼の眼が生きて來るのである。
彼れの眼は觀客を恍惚とさせずには置かぬ一種の魅力を有つてる、殊に心持細めて少し上眼をする時の優しみは迚ても日本の役者などの及ぶ所ではない、私の如く支那語に通ぜざるものが(假令筋は知つてゐるにしても)彼の舞臺を見て直ちにその藝に醉はされるといふことは確かに彼の眼の働きによるのである。かう考へると彼の眼は彼の藝術の殆んど全部と云つて差支へないと思ふ。
私は彼の藝のいろゝ異つたものを見た、さういふ點になると支那の劇場は毎日出し物が變るので都合がよい、而して彼の藝の範圍が思つたよりも廣いのも豫想外であつた。
それから彼の全部について見れば、其所に男らしいといふ點が一つもない、舞臺に於ける彼は如何に激しい立廻りをしてゐる際でさへ女といふ態度を少しでも沒却するやうなことはない、これが日本の女形などの到底眞似も出來ぬ所である。
重なる脚本筋書
■黛玉葬花 ■天女散花 ■嫦娥奔月 ■遊園驚夢 ■晴雯撕扇 ■尼姑思凡 ■御碑亭 ■佳期拷紅 ■貴妃酔酒 ■春香鬧学 ■女起解 ■玉堂春 ■武家坡 ■汾河湾 ■遊瀧戯鳳 ■金山寺 ■虹霓関 ■奇雙会 ■琴桃 ■木蘭従 ■宇宙瘋
梅郎雑話 〔下は、その一部〕
梅蘭芳の弟子
梅蘭芳の弟子に程艶秋と云ふ今年十六になる女形が居る、蘭芳第二と云はれる程で其舞臺顔は仲々美しい、艶秋の二本虹霓關は蘭芳が授けたもので彼の傑作として名高い、ところが面白い事にはこの艶秋と蘭芳は同じく北蘆草園と云ふ處に住し、その家は僅かに數軒を隔つるのみで兩人は毎朝一緒に其飼鳩を天に放つて樂しみ傍らその喉嚨を養ふことに餘念ない、李釋戡が之れを詠つた放鴿の詩がある、曰く「不識人間恨與愁、師生占盡最風流、朝々兩種閒功課、放鴿晴空理玉喉」
名曲原本
黛玉葬花 五幕
嫦娥奔月 九幕
天女散花 四幕
詠梅集