表紙には、「昭和五年 中華民国十九年 〔一九三〇年〕 三月発行 士華 第一号 東京陸軍士官学校 中華民国同学」とある。22センチ、目次3頁、予告1頁、口絵写真6頁、序・文38編・詩110首・附録等170頁。文・詩は、卒業生・在学生・退校生らが漢文または日文で執筆している。
口絵 ・陸軍大臣 陸軍大将 宇垣一成閣下
・教育総監 陸軍大将 武藤信義閣下
・前校長 陸軍中将 林仙之閣下 、前幹事 陸軍中将 厚東篤太郎閣下
・校長 陸軍少将 坂本政右衛門閣下、幹事 陸軍少将 清水喜重閣下
・中華民国学生隊職員教官及学生一同写真
・陸軍士官学校東通用門(中華学生の多く出入りするところ)、金子学生隊長、中華民国学生隊本部及学生舎(最前方は本部後方は第一中隊更に遠く後方に見ゆるは第二中隊学生舎也)
・中華民国学生自習室の状態、中華民国学生バスケツトボール競技、中華民国学生寝室の装置
序文 陸軍士官学校幹事 陸軍少将 清水喜重
古来日華両国の武将いして陣中に雅懐を展べしもの一世に傳誦せられ、或は幾千年の後尚人を感動せしむること少なからず。東洋独特の風尚として吾人の欣慰に堪へざる所なり。茲に本校中華民国学生諸子、業余暢叙に成れる詞藻を輯め、題して「士華」といふ。寔に先縦に耻ちず。以て東洋の名将、後ありと謂はしむるに足らんか。一言以て序となす。
昭和五年一月
陸軍士官学校幹事 陸軍少将 清水喜重
巻頭文 予が愛弟たる中華民国学生に與ふ 中華民国学生隊長 金子定一
国史概論ー(抄記) 法学博士 文学士 大川周明
陸軍士官学校中華民国学生隊々歌及譜(譜は士官学校校歌に同じ)〔歌詞は、其八まで〕
別來歳月易遷延、河山無恙否、 新亭林酒感銅X〔「馬」に「宅」〕、見風景依舊
三萬里國防未固、一狂強梁X〔上が「敍」で下が「土」〕、四千年 國飄飄、 寂寞神明宵
太平洋濁波排空、驚風雲正X〔「馬」に「衆」〕、
好男兒投筆従戎、肯落他人後、
〔其二以下、省略〕
附録
・大日本帝国陸軍士官学校入学希望者心得
第一條 中華民国学生(将校ヲ含ム以下単ニ学生ト称ス)ニシテ日本帝国陸軍士官学校生徒トシテ入学セントスルモノハ左ノ條件ヲ具備スル者ニシテ本心得ニ異議ナキモノタルヲ要ス
(一)日本帝国ノ中学校卒業者ト同等若クハ夫レ以上ノ学力ヲ有シ日本語ニ熟達シアルコト
(二)志操堅確身体強健ナルコト
(三)中華民国中央政府又ハ督辨、省長若クハ之ト同等以上ノ地位イ在ル民国地方官憲等ヨリ派遣セラレタル者又ハ之ニ準スル者ナルコト
(四)後條述フル所ノ学費ヲ前納スルコト
第二條 前條第三項ノ派遣者(之ニ準スルモノヲ含ム以下同シ)
(一)派遣セル学生カ第一條ノ資格ヲ具フルコトヲ保證スルコト
但シ日本語修得ノ程度ニ関シテハ部隊配属マテニ約一ケ年若クハ夫以上日本語ヲ専修シタルモノタルコト又ハ専修セシムヘキコトヲ保證スルコト
(二)学生ノ入隊ヨリ学校卒業ニ至ルマテ其ノ身上竝学費ニ付キ保證スルコト
〔中略〕
第七條 日本帝国陸軍士官学校ニ入校ヲ許可セラレタルモノハ毎年四月上旬夫々日本帝国軍隊ニ配属シ隊附勤務ニ服セシメ同年十月同校本科(修業年限約一年十ヶ月トス)ニ進学セシム
〔中略〕
附記
日本語ノ理解不充分ナルトキハ所期ノ修業目的ヲ達シ得ス故ニ留学生ハ成ルヘク速ニ渡日セシメ日本語ヲ専修セシムルト共ニ日本ノ食、住、習慣ニモ慣レシムルヲ有利トス
〔以下省略〕
・陸軍士官学校の概況 中華第一中隊区隊長坂井中尉 〔下は、その抜粋〕
一、教育綱領
曹操の言に曰く「生子当如孫仲謀」又唐句に「男子須為執金吾」といふのがある、けれどもこれは一片の賛辞、羨望語であつて皮相観に過ぎぬ。
抑も将校は国家の干城国民の保障であつて一意奉公生を捨て義を採り国を憂ひ民を愛するの至情は寐寤の間にも之を去らず超然として俗塵の表に立ち学術に精通し勤務に勵精し其の品位高尚言語簡潔で而も確固不抜の精神を具備し上級のものは能く部下の信服を得、下級の者は能く上長の命令を格守し同僚に対しては友誼を厚うし恭敬を致し以て軍人たるの名誉を発揚することを本然とするのである。
故に本校教育綱領としては特に左の件に留意して学徒を教養してゐる。
一、尊王愛国の心情(中華民国学生にあつては其本国を愛するの精神)を養成すること、
二、軍人たるの志操と元気とを養成すること、
三、健全なる身体を養成すること、
四、文化に資するの知識を養成すること、
二、沿革の概要
明治元年(民国紀元前四十四年) 始めて兵学寮を京都に設く
同 四年(同四十年) 兵学寮を東京に移す
同 七年(同三十七年) 兵学寮を士官学校と改称し東京市牛込区市ヶ谷(現在の位置)に校舎を新築す
同 八年(同三十六年) 第一期士官生徒入校
同十一年(同三十三年) 開校式を挙ぐ
二十年(同二十四年) 士官生徒の制度を廃し士官候補生制度を採用す
陸軍幼年学校を分立せらる、
二十一年(同二十三年) 第一期士官候補生入校す
三十三年(同十一年) 始めて清国学生四十名入校す
大正六年(国民六年) 准尉候補学生第一期入校す
同 九年(同 九年) 准尉候補者制度を廃し陸軍中央幼年学校を本校に合併し予科及本科の制を設く
同十二年(同十二年) 関東大震災のため校舎の大部倒潰し現に復旧中にして本年迄に本科及予科生徒舎、生徒集会所及食堂を完成す
全部の復旧は昭和八年に完成の予定なり
同十四年(同十四年) 現制度の採用す其の概要は左の如し
校長 - 幹事 {本科生徒隊 予科生徒隊 学生部 中華民国学生隊 馬術部 教授部
・中華民国学生隊の現況 中華第二中隊区隊長新藤中尉 〔下は、その一部〕
○
過くる明治三十三年に当士官学校に於て清国学生約四十名の教育を開始したのが当校中華民国学生隊の濫觴である、当時既に業に東亜の為め高遠なる企図の実際運動に着手された当局の炯眼には、今更ながら敬服の外がない。
現在我が中華民国学生隊い在籍する学生の数は二年生(第二十一期生)九十二名一年生(第二十二期生)百十八名を算し、約三十名を以て一ケ区隊を編成し之に一将校を専属の訓育者として配当し三乃至四区隊を合して之を一期隊長の統一指揮下に属する、期隊長が事務執行機関として下士数名より成る事務室を有する更に二期隊を統制するものに学生隊本部あり学生隊長は之が頭首たり副官書記をして事務を処理せしめ、戦術、築城地形、兵器其他各学部の教官と連絡し校長以下の上司の命を承けて二百余名の学生教育の任に当るのである。
○
「東洋平和樹立の為に中華民国の有為なる軍人を養成す」
学生隊の教育綱領如何と問ふ者あらば筆者は刻下にそう答へるであらう噫何と宏遠であり雄壮であり痛快なる教育ではあるまいか、果して何年の後に其の教育効果を如実に見得るや等は教育者の問ふ処ではないし、又蓋し被教育者たる学生と雖とも之を明確に予言し得る者は一人たりとも無いであらう、然しながら教へる者も教はる者も孰れの日にか必ずや此の雄大なる教育原理が赫々たる成果を齎すであらうとの確信を胸底に秘めながら、朝夕刻苦鼉勉の日を続けて居るのである。
東亜永劫の平和確立てふ問題は現下の複雑多岐な国際関係や、乃至は之が組成分子たる各国の政治経済外交軍事の状勢を諦観する時それは決して茶飯事では無くして実に途轍もない大難事であることを痛感する、然し之を必ず実現せんことを庶幾する如上各男子の勃々たる壮心も亦偉なる哉である。
○
「先づ中華民国の為めに」
それは当隊教育者の把持する「モツトー」である、蓋し前述の教育総領より生れ出づる必然的な一過程でらねばばらぬ。
而して此の「民国の為め」たるや、留学生をことさらに優遇し目前の感謝を求めるやうな微温的な意味は毛頭無いのであつて飽く迄其の監督は至厳に其の指導は積極的であり「スパルタ」的に徹底したものである。
〔以下省略〕
・日本陸軍士官学校中華留学生追悼東北邊防軍陸軍第十七旅旅長韓光第團長張季英林選青X禦俄戦死諸将士紀實(宋人傑草)
・陸軍士官学校中華民国学生関係職員及課外講話講師
・中華民国学生に関係深き諸官
・明治三十三年以降歴代校長
・明治三十九年以降歴代中華学生隊長
・断雲片々 黄襟老
・或る日の午後 新藤多喜男
・戦場心理の一面 照準點生
・陸軍士官学校入学中華民国及前清人名簿(昭和五年 中華民国十九年 調)
〔以下省略〕
・学生隊指定学生往訪日本名士