蔵書目録

明治・大正・昭和:音楽、演劇、舞踊、軍事、医学、教習、中共、文化大革命、目録:蓄音器、風琴、煙火、音譜、絵葉書

『ミッシャ・エルマン』 帝国劇場 (1921.2)

2020年01月29日 | ヴァイオリニスト ハイフェッツ、小野アンナ他
  

 ミッシャ・エルマン 
    大正十年二月十六日より二十日まで毎夜八時開演 帝国劇場

 〔口絵写真〕 

     

 ・右はエルマン氏の師匠レオポルド・アウアー氏で、少年エルマンの天才を見出した方です。
  中は此頃のエルマン氏の演奏姿勢で下はエルマン氏のニコニコぶりです。
 ・大正十年一月二十五日は真冬ながら風もなく、長閑 のどか な夕暮は横浜の海面にたゞようて居りました。丁度午後四時半、軍艦のやうな三本煙突のエンプレス・ルシア号は、小山のゆらぐやうに大桟橋へと近づきました。
  □
  エルマン氏はどれだらう。其内に船はピタリと桟橋へ着きました。降りる人。迎へる人。其処にエルマン氏はニコニコと立って居りました。記念にとカメラにはいって頂いたのが此のピクチャーです。
  エルマン氏は左の方。レッサー氏は右の方です。
 ・二月十四日エルマン氏の一行は東京駅へ着きました。これは駅前での撮影で、右から山本帝劇専務氏、妹尾幸陽氏、山田耕作氏、エルマン氏レッサー氏支配人ストロック氏の諸氏が写って居ります。
 ・二月十四日午後0時五十分エルマン氏の一行は東京駅へ着きました。それからすぐ帝国ホテルへ参りましたガ、これは山本帝劇専務さんとエルマン氏の握手です。而 そ して中の方は支配人のストロック氏です。
 

 楽聖エルマン氏招聘につきて  帝国劇場専務取締役 山本久三郎氏談 (楽聖エルマン氏到着の日帝国ホテルに於て杉浦善三記)

 ミッシャ・エルマン
 
 ミッシャ・エルマンは千八百九十一年一月の廿日南露西亜のタルノーェに生れた。全然の猶太 ゆだや 人で彼の父は土地の校長で、父自身も可成バイオリンをひく人であったと云ふから、彼の天才は其の遺伝なのかもしれない。
 それで、四歳の時、すでに玩具のバイオリンを見事に奏 ひ いたとの事で、父親も乗気になって、六歳の時、彼をオデッサの音楽学校へと伴った。其処で、彼はフィデルマン教授の教へを受けた。
 此処で彼が偉大な進歩を見せた事は驚くべき程で、十一歳の時、此地方を旅行した、当時のペトログラード帝室音楽学校のバイオリン部長であるアウアー教授に其の天才を発見され、アウアー教授の骨折 ほねおり で、特に勅許を得て猶太人の入校を許されざるペトログラード帝室音楽学校に入学を為す事が出来、英傑アウアーの絶対の弟子として其の技 ぎ を磨いたのであった。
 さて、千九百四年、十三歳の時には、ペトログラードの独逸歌曲協会の演奏会へ、師匠アウアーの代理として演奏した。而も差支 さしつかひ のある筈の師匠は、聴集に混って弟子の出来栄を聞いて居たと云ふ話もある位。早速とそれが伯林 べるりん への出演の口火となって、其処でサラサーテの「ザパテアド」とパガニーニの「二調司伴楽」を奏いて大成功を修め、翌年は更に倫敦 ロンドン に表はれて、此の十四歳の少年は、当時の驚くべき謝礼、千二百円を獲得した。而も実際、可愛い、水兵服を着てステージに表はれるのだから、其の人気も素晴らしいものであった。
 こうして彼の名声は日一日と弘 ひろ まった。彼が米国へ渡ったのは、千九百八年の事で、勿論大成功を得、それから以後は、英国及び米国の音楽季節に欠くべからざる人物となってしまった。
 次にかゝげてある一節は、エルマンが某米国批評家の質問に答へて、一切の彼を告白し、進んで、そうした藝術に向かっての彼の主張を述べて居る。それがエルマンの藝術を語る一番良い手段と思ふのである。

   生命と色彩との解釈 
   種々なる技巧
 
   演奏中の習癖 マンナリズム

 これは誰でも知ってゐる事であるが、エルマンは公演を行ふ場合、頭を動かしたり、体を動かしたり、音楽に合はせて始終体を揺 ゆ す振ってゐる。一言にして云へば、彼の演奏に伴 つ れて、或る種の習癖がある。それを批評家たちは、宛 あた かも殉情主義の兆候でゝもあるかの如く、真面目に疑って紹介した場合もあった。この場合、彼が果して「真面目」であったのか、または彼の動き方が、暗に他の人たちも言ってゐた通り、果して十分練磨された「舞台上の仕草」仕草であったのか、こんな事を訊くのは彼を侮辱する事だとは考へないでもなかったが、兎に角私は敢へてさうした不躾な質問を試みた。するとエルマンは、如何にも可笑しいと云った風に、無邪気に笑った。
 『違ふ、違ふ』と彼は言った。『演奏を助けるやうな「舞台上の仕草」など、てんで勉強した事がない!自分を舞踏家に比較しなければならぬかどうか、それは知らないが、舞踏の観客に訴ふるのはすべて音楽的動作に起因する。ある諧律と音楽の組合せとが、半意識的に、私を感動せしめるのだ。音楽の自分に與ふる直接の影響は、一種情操的に反射する心の動く場合に在るのだと思ふ。私が音楽に伴れて体を動かすのは、さうした心持を無意識に身振りに移す為めであらう。従ってそれは全く個人的のものである。仏蘭西の提琴家たちが公衆の前で演奏する場合には一般にその眼を指頭と弓とに注いで、非常に厳格な姿勢をとって演奏する。さうして私も理論としては是非さうならなければならないと思ふ。けれども実際になると、私はその方則から外れて仕舞ふらしい。気禀 テンペラメント の問題だと憶ふ。私は勿論自分の姿勢を美しくないと信じてはゐるが、然しー自分が動くか、動かないかは全く知らないのだ!時偶 ときたま 、色んな友達に注意されて、初めて成る程、自分は動いたり、体を揺す振ったり、その他そんな事をするのかなア、と憶ふのだが、自分が一向知らないところをみると、さうした動作はどれもこれも無意識になされてゐる事に違ひない。而も世間では、それを「舞台上の効果」を高める為めの「用意」と考へてゐるなぞは可笑しなことだ!』さうして再びエルマンは笑った。
 
   生命と色彩との解釈
   完成されたる技巧の第一の根本要素は完全なる調子である
   技巧の種々なる形
   演習の区分

 『左の手で綺麗な、歌の音 おん を起こして、弓の手でそれに正しく節をつけて行くことが、一番大切な事である。輒 すなは ち区分の問題である。いくら符づけが良くても、音色が悪ければ打 ぶ ち壊 こは しとなるし、いくら美しい歌の音が出来ても、符廻しが悪ければ、意味を喪 うしな って仕舞ふ。学生が或る程度までの技巧 テクニック を習得すれば、技巧は第二義的のものー然し怠るわけには行かないがーと考へられねばならない、さうして其の上は、立派な音 おん を出す事を勉む可きである。世間には弓を持つ手なり、或は提琴を持つ手なりどちらか一方に余り大袈裟な注意を払った為めに、生涯を誤った提琴家がいくらもある。それ故、両方の手が同時に注意されねばならない。さうして此の区分の問題は、自分で研究する場合でも、楽節を復習する場合でも、演習の際は始終、念頭から離してはならない。指の押へる力と弓の押す力とは、両方平均して、いつも一緒に働くやうでなければ不可 いけ ない。教師は或る程度まで教へることが出来るがそれから先きは生徒自身が研究すべきである。』

   教師としてのアウアー 〔下は、その最後の部分〕

 『アウアーは偉大なる奏楽の名人であった。彼は帝室舞楽団 インペリアルバレー 中に於て、独自の地位を占めてゐた。御承知と思ふが、多くの有名なバレーの中には、例へばチャイコフスキーのなどには、その中 うち に綺麗な而も難かして提琴の独奏が入ってゐる。で。それを演 や るには、是非とも、第一流の音楽家でなければやれないので、アウアーはペトログラードで毎時 いつ も其の役にあたってゐた。露西亜では此れ等のバレー独奏の一つを弾く為めに呼び出されることを立派な名誉としてゐたが、倫敦では何か全く偶発的な出来事のやうにしか考へてないやうであった。思ひ出せば、それは宛 し かも、ディアギレーフが倫敦でチャイコフスキーの「白鳥の湖」を上演した際の事であった。愛すべき少年で、且つ藝術の保護者であったアンドルー・ウラディミレーフ大公(曾て私の音楽を聴いた事のある)が、私を召してーまだ此の当時は、ロマノフ家の要求といへば、命令と同格の権力を持ってゐた時代であったーあの濡れ場に相応するやうな提琴 さげこと の独奏を弾いて呉れいとの言葉であった。それを弾くばかりは弾いても踊り手の方も監視しなければならず、また同時に音楽の指揮も司 つかさど らなければならず、実際容易な業 わざ ではなかった。然しながらそれは倫敦での奇観であった。誰もが皆悦 よろこ んで呉れた。さうして大公は謝礼に綺麗な金剛石のピンを一箇、私に贈られた。』

   提琴の練達

 「提琴の練達」とは一体如何なる事であるかと訊かれるのか?然 さ う、私は斯う考へるのである、自分の演奏するどんな曲目でも、すべての細部 デテール に亙って、作曲家の思想を自分の造形術の完全な美の中 うち に創り上げ、それに十分真実な色彩と比例とを賦與して、鮮明な絵のやうに再現する事の出来る人ならーその芸術家こそ達人と呼ぶのに値する人であらう!』
 『音楽家の使ふ楽器は、謂 い ふまでもなく、その人の最善の努力を実現せしむる大切な機能 はたらき をなすところのものである。私の提琴は?一七二二年といふ年号の打ってあるー信用の出来るストラディバリウスである。私はそれを倫敦のウヰリー・バーメスターから購 あがな ひ求めた。見給 みたま へ、前の持主は気を付けて使はなかった。独逸式の演奏法は、音色の美、謂はば古い伊太利の提琴 フイドル の持ってゐる音質を、出し得 う るものとは考へられない。それをバーメスターは力づくで音を出さうと努めてゐたらしく、私は思ふ、さうしてそれを軟 やはら かな音の出るやうに、また、本当に弾き榮 ば えのあるものにする迄には、随分時間が懸 か かった。然し今は  』エルマン氏は微笑した。彼が自分の楽器に満足してゐる事は、それによっても明 あきら かであった。『絲とくると』、彼は続けて言った、『金属線は決して使はない。-音色もなければ、音質もないからである!』

   研究すべきものと其の方法
   楽曲の改作
   コロンヌの追懐

   

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 大正十年二月十六日発行
 定価金四拾銭 
 編輯兼発行人 妹尾幸次郎 
 印刷所 東洋印刷株式会社


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