下田歌子一代記(二)
記者
祖母の苦衷
相知り相信ずる者が主義見解の相違から互に相分れねばならぬ程、悲痛 かなしみ の強いものはありますまい。舅の平尾が琴臺と緣を絶つたのも、決して婿の人物に不足があるのではなく。琴臺が養家を去つたのも亦、舅や妻に不足があるのではありません。舅の平尾は藩主への手前。婿の琴臺は自分の節操の前に互に其主義を譲り合ふ事が出來ずに、相信じ相敬しながらも二人は自らの斧を以て自らの緣を絶たねばならぬ破目に陥 お ちたのです。此の主義と主義との間に挟まつて斷腸九廻の歎に泣いたものは琴臺の妻でせう。父に背いて良人 をつと に從へば、これ不幸の子。良人に別れて父に從へばこれ不貞の妻。腐つても彼女は武士の娘です。儒者の妻です。親 と良人へ操を立てる可く其身を刄 やいば の錆と消すは、恐らく彼女にとつては最も容易 たやす い手段でありましたらう。けれど、彼女の懐には當年二歳になる一子鍒藏が居ります。自殺は其時を得れば、自分の責任を果す雄々しい手段の一つともなりますが、其時を誤れば却 かへつ て其責任から免れる卑怯手段の一つにもなるものです。若し彼女の周圍に於ける事情が、彼女の自殺によつて悉く解決がつくものならば、彼女も喜んで自ら刄に伏したに違ひありますまい。併し、彼女には自殺が許されないのです。縱令 たとひ 、彼女が刄に伏して斃れたとするも、其死を以て琴臺の心を翻す事が出來ませうか。若しそれが良人の心を翻す事が出來ぬとすれば、彼女の死によつて救はれるものは、只、彼女一個の苦痛 くるしみ ばかりではありますまいか。彼女が惜しからぬ命を長らへ、良人に別れて父に從ひ、愛兒を抱いて空閨を守り、甘んじて不貞の妻となつて居たのは、それ丈け彼女が良人琴臺の人物をよく了解して居たものと言はねばなりますまい。從て、琴臺の離別が彼女にとつては、どれ程辛 つ らく悲しかつたかは想像する事が出來ませう。
平尾鍒藏の人物
親子三人、節操と節操の三つ鼎の間に人と爲つた東條琴臺の一子平尾鍒藏も亦琴臺の名を愧 はづかし めぬ儒者の一人となりました。琴臺が机上の腐儒と異つて居た如く、鍒藏も亦書齋の儒者ではなかつたのです。一時は藩の御指南番として、自分も道場を開き、藩の子弟を教養して居たのですから、劒道にも熟達して居たのは言ふまでもありますまい。琴臺が開國主義を奉じ、遂に養家を追はれた程節操の堅い學者であつた如く、鍒藏も亦尊王攘夷の主義を以て、終始、時の幕府に反對した所謂注意人物の一人なのであります。琴臺が幕府から睨まれて、遂に江戸を追放されました如く、鍒藏も亦江戸の浪士等と其志を共にし、極力、攘夷説を奉じて幕府に反抗したので、之亦其筋の忌諱に觸れ長く蟄居を申しつけられたのであります。琴臺の開國主義。鍒藏の攘夷主義。兩者 ふたり の奉じた主義は全く相反して居りましたが、兩者の精神が幕府の横暴を憎み、粉身碎骨、偏 ひとへ に尊王の實 じつ を擧ぐるに在つたのは、流石に南朝の忠臣脇屋家の血統 ちすぢ をひいた家柄です。琴臺の主義と鍒藏の主義とが、偶々、背中合せになりましたのは、畢竟時代の相違から生じた結果でありませう。一日も早く横暴の幕府を仆 たふ して、天下の權を皇室に復歸し度いと言ふのが兩者の願望であり、幕府の勢力を殺 そ ぐ事が終生の大事業であつたのでせう。安政元年八月九日、平尾家に呱呱 ここ の聲をあげた歌子女史が、若し男であつたならば、父鍒藏の喜悦 よろこび はどれ程でありましたらう。歌子女史にしても同じ事、男に生れて居たならば、維新以来の風雲に乗じて必ず回天の事業に不朽の名を止めたに違ひありますまい。祖父より父。世は漸 ようや く幕府の勢力も衰へかけた時に生れて、あれ程の學問と才を持ちながら女に生れ合はせたのは恐らく父鍒藏の無念ばかりでもありますまい。歌子女史は世に謂ふ男に生れそこねた女の一人ではありますまいか。
幼時の歌子
併し流石に其血統 ちすぢ は爭はれぬもので、歌子女史は決して只の女ではありませんでした。何しろ四歳の時、既に父が其子弟に教へて居る四書の素讀を聞き覺えに覺えてしまつた程悧發な性質 うまれ でありましたが殊に歌才に於ては先天的とでも申しませうか時は丁度、水戸の浪士が櫻田門外の雪を蹴散らして首尾よく井伊大老の首を打ち取つた其日、當時蟄居中の鍒藏は竊 ひそ かに二三の親友を招いて祝宴を張り、互に思 おもひ を歌や詩に事寄せて興じ合つて居りました。其時歌子のお鉐(幼名)も父鍒藏の傍 そば におとなしく控へて居りましたが、偶々父が冗談半分に
『どうだお鉐、お前も何か一つやつたら』
と言はれて歌子のお鉐は、暫く可愛らしい小首をかしげて荐 しき りに考へて居りましたが、軈 やが て
さくら田に思ひのこせし今朝 けさ の雪
と書いて父に竊 そつ と見せました。流石の父も一座の人も、これには少からず驚いたのです。其時父の鍒藏が
『大變よく出來たが、思ひのこせしではなくて思ひのこらぬの間違ひだらう』
と聞き返しましたら、歌子のお鉐は恁 か う言つて首を振りました。
『井伊さんの首をとつても、まだ異人の首をとらない間は駄目ですよ』
と。蛇は寸にしてその気を吐きました。
下田歌子一代記(三)
記者
▲天才の發芽
今猶、普通一般の家庭に於ては、女一通りのたしなみ以外、女の身を以て他の學藝に耽る事を好みません。縱令 たとへ 、斯道 そのみち にどれ程、天才の閃光 ひらめき をもつて居りましても、大抵は『女の癖に生意気な』の一句に二の句がつげず其儘永久に葬られてしまひます。況 ま して、算盤以外の學問は武士の事、町人風情には全く以て不必要だと言はれて居た時代、歌子の父の鍒藏が、夙 はや く其天才を認めて居ながらも、歌子が只管 ひたすら 讀書三昧に耽るのを餘り好ましく思はなかつたのは無理もありますまい。とは言へ、水の流と人の本性は、之を止めやうとしても容易に止まるものではりません。右を堰 せ けば左に溢れ、前を遮 さへぎ れば、横に開く。小河 をがは は大河に、大河は海に、往くところまで必ず行くものです。好きこそ物の上手なれ、四歳にして四書の素読を聞き覺えに覺え込んだ歌子の讀書癖は、年を重 と るに從つて愈々募つて來ました。殊に天稟 てんぴん とも言ふ可き歌才に於ては、流石の父も窃 ひそか に驚いて居りましたので、遂に八田知紀 とものり 翁に其添削教授を乞ひ、自分も亦漢詩漢文を授けましたので、歌子の天才は春の木の芽の如く生々 いきゝ と伸びて來ました。
▲藩中の御手本
『平尾のお鉐さんは全く悧巧者だ』と言ふ評判がパッと藩中に知れ渡りまして、二た言目には『平尾のお鉐さんを御覧』と娘を叱る生き手本とされましたのは歌子のお鉐が十二三歳の頃でした。最早、其頃には、古今集などは夙 と うの昔に暗 そらん じ、漢詩も和歌も見違へる程上達し、一家の手紙などは皆、歌子が代筆して居りました。近所隣の評判や、八田翁の褒 ほめ 言葉を聞いて、ホクゝ喜んで居りましたものは平尾夫婦ばかりではありません。歌子にはまだ見ぬ懐しいお祖父 ぢい さんであり、鍒藏には一日も忘れる事の出來ない父の東條琴臺が、遠く江戸の地に在って、一人淋しく悧發な孫の消息を聞いて嬉し泣 なき の涙を流して居たのです。切れて切れぬは夫婦の緣。斷ては斷てぬは親子の情。『同じ勉強するなら東京に限る』と言ふ琴臺から孫の歌子に宛てた一本の手紙が楔となつて覆水復盆 ふくすゐまたぼん に歸り、平尾一家が目出度く東京で暮す事になりましたのは、丁度、歌子が十五六歳の時でした。
▲風来の若者
之より先、父鍒藏の道場に、一夕 せき 、試合に來た旅浪人がありました。見ると、五尺に足らぬ小男でありますが、腰には無反 むぞり の長い刀を打ち込んだ血気の若者です。先づ型の如く、道場に案内して二三の弟子と仕合 しあひ をさせましたが、年齡こそ若いが其腕前の冴え振りには誰も彼も齒も立ちません。瞬 またゝ く間にニ三人の者は打ち据ゑられてしまひましたので、今度は鍒藏が代つて竹刀を取り上げ立合ひましたが、成程、五分の隙もありません。其日は互に懸け聲のかけ合 あひ で引き分れ、翌日も亦立合ひましたが前日同樣矢張り勝負がつきません。今度こそは是非一本まゐつてやらうと言ふ意気込みで、其又翌日も勢ひ込んでやりましたが、之れ亦、勝負を決する事が出來ませんでした。鍒藏も酷くこの若者の腕前に惚れ込み、其儘、家 うち へ引き止めて置く事になりましたが、そもそもこの風來の若浪人が、歌子に取つては忘れる事の出來ない亡夫の下田猛雄なのです。
▲無反の猛雄
この下田猛雄は民谷流の達人島村勇雄の高弟で、殊に左胴の名人でした。『下田の左胴』と言へば當時誰れも知らぬものはありません。山岡鐵舟なども大 おはい に舌を卷いて居た一人です。五尺に足らぬ小男でありながら、いつも腰には二尺五寸と言ふ長い刀を落差 おとしざ しにして居たので『無反の猛雄』と言ふ綽名で通つたものです。流石に鍒藏の眼鏡に叶つた丈けに、却々 なかゝ 気性の勝つた一代の快男兒、眞に佳人才子の好配偶でありました。此頃の歌子は世間で言ふやうな性來の淫婦でもなければ、妖婦でもないのです、歌子が祖父琴臺の手紙に若い血を湧かして東京に來ましてから、その許嫁の良人 をつと 下田猛雄に死に別れるまでの前後十餘年間の辛勞は普通 なみ 一通りのものではなかつたのです。
下田歌子一代記(四)
記者
▲團扇繪師となって藥代を稼ぐ
他力生活が自力生活に代つた維新の改革が、當時の人の生活に種々の悲劇となり、喜劇となつて現はれましたが、少くともこの維新の改革が思はぬ媒介 なかだち となつて茲に目出度く家庭劇の終りを告げたものは下田一家でありました。相抱ける主義の相違から可愛い妻子と別れて養家を去つた東條琴台は其間獨り江戸に在つて淋しい生活をつゞけて居ましたが、いかに時勢が移り變つたとは言へ、再び一家圓滿の春を迎へやうとは夢にも思はなかつた事でありましたらう。廢藩後間もなく鍒藏が住み馴れた郷里から一家を舉げて琴台の許 もと に移つて來ましたのは、丁度、お鉐 せき の歌子が十五歳の時でした。當時、師の八田知則 とものり 翁も江戸に上つて既に宮内省に出仕して居ましたので、お鉐にとつては重ねゞの幸福 しあはせ であつたのです。
處 ところ が、その喜びもほんの束の間、まだ一家の生計も碌々形がつきません中 うち に、父の鍒藏は重い眼病に患つて床に就きました。さなきだに生計に苦しんで居た事とて、忽ちの間に其日の藥代にも困る程の境遇に沈んでしまつたのです。生來、負けぬ気のお鉐が、どうして此一家の貧乏を空しく見つめて居る事が出來ませう。幸ひ、幼少 ちひ さい頃から好きで覺えた繪筆をたよりに陶器の上繪を描きせめては父の藥代でも稼ぎたいと言ふ健気な心を起して父に許 ゆるし を乞ひましたが、いかに零落したとは言へ武士の端くれ、父は涙ながらにお鉐の願を斥けました。とは言へ他に収入の道があるのでもなれば一家は日毎に益々貧乏の淵に底深く沈むばかりでした。最早、今となつては他に方法もない、父に無斷で事をするのは甚だ心苦しくはあつたものゝ背に腹は代へられない。お鉐は獨り心中 こころうち に決心の臍 ほぞ を固め、誰に一言の相談もなく新橋停車場から横濵までの三等切符を買つて横濱居留地の外人貿易商に抱へられて居た河野英齋と言ふ繪師を叩いて事情を訴へました。河野も其志に酷く感心したものと見えて、試 こころみ にニ三枚の繪を描かして見ましたが、却々 なかゝ 小器用に描くところから、早速、お鉐の賴 たのみ を容れて團扇 うちは の上繪師 うはゑし に採用することになつたのです。其後は毎日父の手前を宜い加減に言ひ繕つては横濱に通ひ、汗水流してせつせと團扇の上繪を書いてはそれに依つて得た報酬を父の藥代に宛て專ら孝養を盡した甲斐が現はれて、さしもの眼病も一年餘で全く平癒しました。其間、お鉐は毎日往復の汽車の中で歌を作つては、八田翁の許へ送つて添削を請ふて居ましたが、最早、其頃は八田翁も舌を捲く程に和歌も上達して來たのです。
▲歌子の名を賜ふ
當時、師の八田翁は宮内省の御用掛を拜命し、照憲皇太后陛下の御製を日々拜見する光榮に浴して居りましたが、或日、偶々お鉐の歌才を上聞に達すると有難くもお召出の御諚を賜つたので早速其旨をお鉐に傳へました。お鉐は気も轉倒するばかりに感泣し、直に仰せを畏 かしこ みて師の八田翁に供はれて伺候いたしました。其時畏くも、 陛下にはお鉐の歌才をいたくも愛し給ひて歌子と言ふ御名 おんな を下し賜り、八田翁も大に面目を施して御前を引下りましたが、其時お鉐が奉 たてまつ りました即詠は
敷島の道はそれともわかぬ身に
あやふくわたる雲のかけはし
爾来歌子と名乗て暫く宮内省に出仕して居りました
▲區役所での気焔
其時の事でありました。お鉐は早速區役所に駈着けて改名届を差出しましたところが、どうしても區長が許可しません。其處で歌子は『恐れ畏くも皇后陛下より賜つたお名を公 おほやけ に用ひては惡いのですか』と一本參つたので、區長も平身低頭、其罪を謝したといふ話が遺 のこ つて居ります程、歌子女史の得意振りが眼に見えるやうです。其後、歌子は元田永孚、福羽美靜などの諸氏に師事して只管 ひたすら 教を受け、砂中の寶玉 ほうせき は茲に全く磨かれたのであります。其間、歌子と許嫁 いひなづけ の良夫 をつと 、下田猛雄は麻布永坂に道場を開いて數多 あまた の子弟を教へた居たのです。何しろ左胴の名人として知られた剣客であり、當時はまだ江戸市中、腥 なまぐさ い風が吹いて居りましたので、西南戦争頃までは其門に集つて來た子弟も却々 なかゝ 少くはなかつたのですが、世間も漸 ようや く靜かになると共に、刀を算盤に持ち代 かへ る者が多くなるに從つて、漸く寂れ出した。
上の写真と文は、何れも雑誌 『女の世界』実業之世界社 の以下の號に掲載されたものである。
(二):大正四年七月一日發行 七月號 第一巻 第三號
(三):大正四年九月一日發行 九月號 第一巻 第五号
(四):大正四年十月一日發行 十月號 第一巻 第六號