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「清国に於ける日本人教師の現在及び将来」 (其一) 2 吉野作造 (1909.3)

2020年09月28日 | 清国日本教習 天津、北京、武昌他

   之等の教習はどういふ方面に働いて居るか

 總數五百名の教習はどういふ種類の學校に働いて居るか。假りに大體の分類をすると次の如くになる。
 第一普通教育に從事する者約九十五名ある。之は小學校、中學校、幼稚園の如きを含む。近頃は、斯種の低度の教育は、最早外國教師の力を藉るに及ばぬ、自國人で十分に出來るといふ方針であるから、將來は漸次減ずるであらう。現に北淸地方には此種の教習は殆んど絶無である。滿洲には軍政署などの忠告の結果として此種の教習頗る多い。南淸の方にも少しはあるやうだ。
 第二師範教育に從事する者は約百二十五名あつて、之は一番多い。其分布も各省に至つて居る。之に依て見ても、淸國は教師の養成を閑却して居ない事が分る。近頃は普通の師範教育は、漸次自國人の手に回収する方針を取り、外國人には、高等の師範教育のみを托すといふ傾向になつて來て居る。
 第三陸軍教育に從事して居る者は約百人ある。併し此中には、陸軍小學堂とか、陸軍測繪學堂の如きをも含んで居る。陸軍小學堂は、設立當初の目的は日本の地方幼年学校の如きものにする積であつたけれども、實際は普通の小學教育に兵式體操の課業が多い位のが多いさうであるし、又測繪學堂は、寧ろ陸軍測量師の養成を目的として居るから、純粹の軍事教育に從事して居るのは、武昌、保定、天津に居る總計三四十名の將校だけだらうと思ふ。此方は、餘程成功して居る。度々の戰爭に勝つた結果、軍事は日本が進んで居るといふ考もあらうが、一つには、陸軍將校の淸國に雇はるゝ者は、參謀本部の許可を得るを要する、從つて參謀本部で十分に人選もし、監督もし、奬勵もし、淸國側に對しては、被雇者の有力なる後援として、絶えず陰に陽に庇護して居るから、立派な人物が眞面目に忠實に働いて居るといふ爲に、成績も擧らざるを得ないのである。淸國に働いて居る者の中、一番成功して居る者は此方面であると云はねばならぬ。海軍は未だ支那に出來て居ぬ。從て教師もない。
 第四實業教育に從事して居る者は約八十名ある。其内半數は工藝科にして、商科は僅に數名、他は農科である。工藝は南淸に多い。農科は北淸と滿洲が主である。尤も振はないのは實業教育であつて、之も満洲に例の忠告に基いて立つたのがあるのみだ。此實業教育は成功中々困難なやうだ。一體農工の如きは、學生自ら勞役して、實地に當つて見ねば分るものでない。然るに淸國では、學校に入る位の者であるから、多くは中流以上の子弟である。而して中流以上の者は、力役に從ふを恥として居る古來の風習がある故に、如何に教師が鍬を取れ水を汲めと命じても、斯かる事は苦力の屬すべき事に屬すとて、頑として奉せぬ。強て迫ればストライキか退學かである。段々迷夢も醒めて來る傾向はあるけれども、假令學校内では幸に力役に甘んじても、社會に出ると再び古來の習慣に制せらるゝから、到底此方面の發達は近々には六かしからうと思ふ。
 第五法政教育に從事する者約四十五名ある。今の處未だ十分盛なりとは云へぬ。けれども立憲云々と騒いで居る際なれば追々益増加する事であらう。加之淸國人士中には、一般の學問は日本に學ぶよりも直に本家の歐羅巴に行く方が近道だが法政だけは國情を同うする日本を手本とするが宜いと云ふ見解を持つて居るものが多い。故に、將來淸國教育界に獨人佛人などが多く這入り込む樣の時代があるとしても、法政方面のみは日本の獨占であらうと思ふ。故に法政の教習は、大勢に於て、將來益増加するであらうと思ふ。
 第六警察教育に從事して居る者約三十名居る。警察の方面も中々盛んにやつて居る。今後も益盛になることであらう。相當に成功もして居るやうだ。併し何分警察官の待遇も地位も低いから苦力の少し體裁のよい者位の外志望者がない。志望者は山の如くあるけれども、多くは乞食や勞働者になるよりも巡査になつた方が勝しだといふ連中であるから、警察官として十分の効果を擧ぐることは出來ない。支那の巡査の智識の程度は、日本の田舎の學校や役場の小使よりも遙に低い。目に一丁字のない者も無論少ない。予が甞て奉天に居た時警察分署の隣に家を持つて居たが、職務上の失態ある巡査に對する懲戒處分として、尻叩きの刑を課して居るのを屡目撃した。或る時如何なる失策あつたのかと聞くと、署長の命を奉じて本署に使に行つた巡査が、途中で道草を食て頓と用向を忘れて呆然歸つて來たのだといふ。大抵之で其程度が想像が出來る。併し日本人教習は熱心に此方面に盡力して居るから、段々よくなるだらう。
 第七醫學教育に從事して居る者約十五名ある。未開國を開發するには醫術を以て行くに限ると云ふ事は、能く人の言ふ所である。是れ眼前に効果が顯れて、成程文明の學術はエライと感服するからである。支那でも漢方醫ではダメだ、西洋流の醫術でなければならぬと云ふことは餘程分つて來た。けれども不思議な事に、何ういふものかイザ病氣となれば、矢ッ張一應は支那醫者の所へ持つて行く。之は餘程不思議である。宣教師などが數十年來醫學校などを建てゝ西洋醫術を古くから輸入して居るのだけれども、全體の割合より見れば、洋醫の勢力誠に微々たるものである。併し西洋醫術が遙に漢方醫よりも優れて居る事は知らぬではない。故に懐に餘裕のある人は、散々支那醫者のイヂクリ廻した揚句、已むなく日本若くは西洋の醫者を招ぐ。曾て張之洞が大學の近藤博士を聘したり、近くは端方が靑山博士を聘したりしたのも此理由で、又支那で開業して居る日本醫者も、全然失敗と云ふ程ではない。併し當り前なら、モット西洋醫術は進歩して流行して居るべき筈だのに、事實はさうでない。天津には直隷總督の建てた官立病院があつて、凡て日本人が經營して居る。患者は毎日何百人と來る。けれども之は診察料も藥價も取らないからだ。或人は支那人の洋醫を迎へぬのは餘り金を貪るからだといふ。之も一理ある併し之のみでは無い。例へば袁世凱の如き金に不足のない人が曾て、而かも常抱へに二人の日本人醫者を高い月給で雇つて置きながら、一寸した病氣は先づ支那醫者に見せ、其が持て餘した上で始めて日本醫者に見せる。予の居た法政學堂には、日本人の校醫を雇つて置くが、曾て淸人教師で而かも永く日本に留學して居つた人が、病氣になつた。予等は速に校醫の診を求むべく忠告したが、此人は矢ッ張り支那醫者を態々外から呼んで診て貰つた。袁世凱の作つた新軍隊にも、軍醫部が洋式のと漢方式のと全然別異の二部あつて、患者をして各部好む處に赴かしめて居る。斯んな風で、西洋醫術の長所は飽くまで知つて居るけれど、何分一應は毛嫌をする。故に淸國人にして西洋などに永年留學して醫術を學んだ者も可なりあるが、開業した處が御客がトント無い相だ。尤も醫を營業とするといふ習慣は支那には無い。醫術は苟くも人の子たるものゝ必ず知らざるべからざる所で親の病氣を人手にかけるといふは人倫の許さゞる所となつて居るから。苟くも文字ある者は必ず一ト通りは醫書にも目を曝して居る譯である。併し實際は矢張り今日一種の副業として營まれて居るのである。兎に角、西洋醫術は商賣にならぬ、殊に、支那醫者の持て餘した患者を已むなく洋式醫術に托するといふ場合には、支那人の洋式醫者よりも外國人の洋式醫者を信用するから、同じく營業としても、外國人の方は多少の客足を留める事も出來るけれども、支那人では全く望みがない。從て學校を建てゝも入學希望者がない。是れ今日醫學教育の大に振はざる所以である。僅に天津の軍醫学堂及二三各地の小規模の醫學校があるのみだ。之等の學校でも無月謝で只食はして只衣せて、其上に月々若干の小使錢を呉れて、卒業後の使ひ途までを立てゝやつて、辛うじて生徒の在學をつなぎつゝあるとの事である。去れば此方面は近き將來に於て。大なる發展は六かしからうと思ふ。
 第八日本語教授に從事して居る者約十名ある。主として南の方に多い。之は一時日本留學熱の盛なりし時、其餘備として日本語を教ふる目的で學校を建てた。其等の方面に働いて居る者である。近頃は留學熱も餘程下火になつたから、從つて之等の方面も少なくとも一時は減退するを免れまい。且つ又淸國に於ける日本語教育は、實際餘り成功して居ない。之は日本語教習には餘り月給を出さいから、然るべき人を聘することが出來なかつたのと、淸國に居ては學生が日本語に慣るゝ機會が乏しいからだらうと思ふ。(未完)



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