工業學堂記事 迷霞
工業學堂は初め藝徒學堂と稱し光緒三十二年(明治三十九年)を以て創立せられ同年十一月より授業を開始せり、本學堂は當時の商部(現農工商部)左丞紹英氏(現度支部左侍郎)が工藝徒弟養成の目的を以て創立せしものにして、其學科程度は日本の徒弟學校のそれに同じかりき、創立當時は前記紹英氏自ら監督となり、保定優級師範學堂監督張鍈緒氏を教務長に兼任せしめ、一切の事務を同氏に一任し、同氏は又た日本人原田氏に一切を擧げて計り、募集人員百三名に對し應募者六千七百名といふ非常なる盛況を呈したり、其後紹英氏は間もなく度支部に轉任となりし爲め監督を辭し、爾来熙彦氏(農工商部左侍郎)郭增忻氏(禮部侍郎)を經て、現監督袁勵準氏(翰林院編修)に至る迄目的其他に就いては殆ど何等の變更する所なかりしも、學科程度は次第に嵩まりて事實は徒弟制度を脱して中等程度となれり、是に於て乎生徒は其名義の依然たるに不平を起し、或は監督に歎願し、或は同盟休校(本年一月)をなして以て改名を希へり、かくて監督は相當の手續を踏み、今茲宣統元年六月下旬(吾八月上旬)上諭を賜はりて從來の藝徒學堂は爰に中初兩等工業學堂と改稱せらるゝに至れり
爾来課程も全く學部の規則に準據し以て今日に及べるが、この中、初等部のみは當分設置せられざる事となれり、現在も生徒數は約三百名あり、現監督は前記袁氏、教務長は前記張氏、庶務長は陸長携、齋務長は孫慶錫にしてこれを本校の首腦者とす、其他の職員は教習十名、事務員十七名、通譯九名、日本教習二十六名にして學科の分類は下の如し
板金科 鑄金科 織布科 織衣 メリヤス 科 染色科
漆工科 彫刻科 細工科 窰業科 圖案科
經費は一ヶ年約拾萬兩にして北京崇文門關税収入高中より支出し居れり、其管轄は農工商部なるも規則は學部に從ひ、經費は度支部に仰げり、日本教習が其數二十六名に達せるは、淸國學堂に於ける日本人教習の數としては恐らく其冠たるものなる可し、而して此日本教習中の主腦者は東京高等工業學校及東京美術學校の卒業生のみにして、現下教習としては原田武雄、秋野外也、川淵薫平、信谷友三、杉本憲作、岩瀧多麿、福地秀雄及來海篤太郎の八氏あり、此他の十八氏は教師として夫々教務を分擔し居れりと云ふ
上の文は、明治四十二年十月一日発行(非売品) の 『燕塵』 第二年 第十號 (第二十二號) の 雑報 に掲載されたものである。