京師法政學堂の槪況(下)
育英生
第二 現狀槪要
(一) 本學堂設立の由來
前々號に述べたる如く科擧廢止の結果として進士館は之を存立するの必要なきに至れり、かくて進士館の事業將に終りを告げんとするや學部は光緒三十二年(明治三十九年)七月京師法政學堂を設立せんことを上奏して裁可を得、翌光緒三十三年四月(明治四十年五月)に至り舊進士館跡に京師法政學堂を開設せり、學部が本學堂を開設するに至りし理由に就きて左に少しく記述する所あるべし、
本學堂の開設以前と雖既に北京に進士館及び仕學館あり各省に課吏館(官吏養成所)ありて法政教育を施すの機關は全く缼けたるに非ざりき、然れども此等の學堂は槪ね官吏或は科擧出身者に對して法政學に關する大體の知識を補習せしむるに止り少壯の學生に法政の專門教育を施すの目的に出でたるものに非ず、其の然る所以のものは淸國の當局者尚未だ近時の法政學に關する智識に乏しきが爲に之を少壯の學生に課するの果して國家に有益なるや否やを判斷すること能はず、甚しきは政治上に一種危險の思想を引き入れ或は國家の秩序を亂るに至らざるかを憂慮するものありたるが故なるべし、張之洞氏の起草に係る奏定學堂章程に於て私立法政學堂の設立を禁じたるに由つて之を觀るも略ぼ其の意向を知べきなり、然るに上記の諸學館に於て法政教育を施したる結果は世人をして一般に法政學の眞に國家有用の學問なることを悟らしむるあり又日本に於て法政の學科を修めたる留學生の漸次歸國して仕途に就き其の効果を政務の實績に顯はすありて當局者の法政學に對する疑團も亦漸く氷解し法政の專門學堂を設立するの必要を感ぜしむるに至れり、而して在外留學生の一部には往々紛擾を事とし或は過激奇矯の議論を弄して世の視聽を駭かすものあり其の監督の困難を感ずること尠からざりしかば遂に當局者をして國内に専門の法政學堂を經營するの急務なることを認めしめ全國一般に法政學堂の設立を奬勵するの機運に向へり、當時當局者は固より大學の設立を欲せざるに非ずと雖大學に入るには章程上小學堂より順次嚴正なる課程を履まざるべからず、然るに當時尚之に該當する學生無かりしが故に其の本意を實行すること能はざりしが偶進士館の事業終りを告げ其の校舎の利用すべきものありしかば學部は全國法政學堂の模範として先づ特殊の法政專門學堂即ち京師法政學堂を北京に開設するに至りしなり、
京師法政學堂の開設せらるるや從來進士館に教鞭を執りし巖谷、杉、矢野の三氏は是に轉ぜしが更に日本教習を增聘するの必要を生じ文學士小林吉人氏先づ聘せられ次いで井上翠、松本龜次郎両氏の來任を迎へ又二三講師の相次いで嘱托せらるるものあるに至れり、
今本學堂の特色とする所の要點を擧ぐれば即ち左の如し、
一、純然たる法政專門の學堂にして科擧出身者の學力補習若くは官吏養成を主旨とするが如き學堂とは全く其の趣を異にする事、
二、特殊の專門學堂にして高等學堂大學堂とは其の系統を異にする事、
三、日本法政を以て主要の研究材料とする事、
四、正科に於ける主要學科は日本人に依り日本語を以て直接に教授する事、
五、豫科及び補習科に於ては最も日本語の教授に重きを置く事、
以上は本學堂の最も特色とする所のものにして別科及び講習科は過度時代の必要に應ずる一時の施設にして本學堂本來の目的には非ざるなり、
(二) 分科及び學生數
正科
正科は法政學を教授するを以て目的とす、之を分ちて政治門、法律門のニとなす、學生は本學堂の豫科及び補習科を卒業せし者及び是と同等の學力を有する者より之を採る、卒業年限は三年とす、
正科に於ける外國教習の教授は日本語を用ふるを以て方針とす、
豫科及び補習科
豫科は正科に入學せんと欲する者に日本語及び普通學を教授するを以て目的とす、學生は主として毎年各省より送り來る所の中學卒業生に對し入學試驗を行ひたる上之を採る、卒業年限は二年とす、
豫科と補習科との關係に就きて一言する所あるべし、一昨年即ち光緒三十四年の夏學部は專門學堂令を發布して專門學堂に豫科を併置することを禁じ、法政學堂に限りて日本語を補習する爲に一年乃至二年の補習科を置くことを許せり、之を以て昨年以來各省より送り來る所の中學卒業生は試驗の上之を補習科の名の下に収容し專門學堂令發布以前に入學せし豫科の學生は依然豫科なる名稱を以て之を呼べりこれ異名同質の豫科と補習科とが同時に並存するに至りし所以とす、現存せる豫科の學生は本年四月(淸曆)を以て正科に昇級すべき筈なれば其の以後豫科なる名稱は自然消滅すべし、
別科
別科は法政學を教授し目下の急需に應ずる人材を養成するを以て目的とす、學生は官吏及び擧貢監生の入學試驗に合格せる者を採る、入學試驗は漢文を主とす、卒業年限は三年とす、
補習科
講習科は吏部の新分及び裁缼人員に法政學の大要を授くるを以て目的とす、學生は總て習部の選擇に任じ卒業年限は一年半とす、
講習料は前後二回の卒業生を出しし後募集せさるを以て現在は無し、
正科學生數(一級)一百零二名
豫科學生數(一級)一百二十七名
補習科學生數(一級)六十六名
別科學生數(三級)二百九十七名
總計五百九十二名
(三) 教授課目
(各学課目の下にある數字は一週間の授業時間數なり)
豫科及び補習科の課程
第一學年
人倫道徳(二) 中學文學(三) 日本語(十七) 歷史(三) 地理(二) 算學(四) 理化(二) 体操(三) 合計三十六時間
第二學年
人倫道徳(二) 中國文學(二) 日本語(十四) 歷史(三) 地理(二) 算學(三) 理化(二) 論理學(一) 法學通論(二) 理財原論(二) 體操(三) 合計三十六時間
補習科の課程はこれまで豫科のそれに準ぜしが元來補習科の學生は皆中學卒業生なるを以て算術理化等の如き普通學を課するの必要を見ず、之を以て近時補習科の課程より此等の普通學を削除し日本語法學通論理財原論等の時間を增加せんとするの議起れり不日決行せらるべし、
正科政治部門の課程
第一學年
人倫道徳(一) 皇朝掌故(三) 大淸律例(二) 政治(二) 政治史(二) 憲法(二) 行政法(ニ) 民法(三) 刑法(二) 理財學(二) 財政學(二) 社會學(三) 日本語(三) 英語(六) 體操(二) 合計三十五時間
第二學年
人倫道徳(一) 皇朝掌故(二) 大淸律例(二) 政治史(一) 行政法(三) 民法(四) 刑法(三) 商法(二) 理財學(二) 財政學(二) 國際公法(三) 国際私法(二) 英語(六) 体操(二) 合計三十五時間
第三學年
人倫道徳(一) 皇朝掌故(一) 大淸律例(一) 行政法(三) 民法(四) 刑法(二) 商法(二) 理財學(二) 財政學(二) 國際公法(三) 国際私法(二) 外交史(二) 統計學(二) 英語(六) 体操(二) 合計三十五時間
正科法律門の課程
第一學年
人倫道徳(一) 皇朝掌故(二) 大淸律例(三) 中國法制史(二) 外國法制史(二) 憲法(二) 行政法(三) 民法(四) 刑法(三) 商法(二) 日本語(三) 英語(六) 体操(二) 合計三十五時間
第二學年
人倫道徳(一) 皇朝掌故(二) 大淸律例(二) 行政法(三) 民法(四) 刑法(三) 商法(三) 刑事訴訟法(二) 民事訴訟法(二) 國際公法(三) 國際私法(二) 英語(六) 体操(二) 合計三十五時間
第三學年
人倫道徳(一) 皇朝掌故(一) 大淸律例(二) 民法(四) 刑法(四) 刑事訴訟法(四) 民事訴訟法(四) 國際公法(三) 國際私法(二) 監獄學(二) 英語(六) 体操(二) 合計三十五時間
別科及び講習科の課程は之を略す、
(四) 職員及び教員
職員 本學堂の監督は學部左丞の喬樹枬氏にして教務長は江庸氏(早稻田大學卒業)、庶務長は潘淸蔭氏、齋務長は陳嘉會氏(法政大學速成科卒業)なり、
教員 中國教習は總計三十名ありて其の中十九名は日本に留學したる人々なり、此等の留學生諸氏は或は日本教習の爲に通譯の任に當り或は專門の學科を獨立にて擔任せり、日本人の傭聘せらるる者は嚴谷孫藏、杉榮三郎、矢野仁一、小林吉人、井上翠、松本龜次郎の六氏にして此の外に囑托講師として岡田、志田、小河の三法學博士と原岡武氏とあり、
上の文は、明治四十三年五月一日発行(非売品)の雑誌 『燕塵』 第三年第五號 (第二十九號) に掲載されたものである。