大正十一年十一月一日ー五日迄 毎夕七時半開演
十一月三日
レオポールド・ゴドウスキー氏
ピアノ大演奏會曲目
丸の内 帝國劇場
▲ゴドウスキー氏洋琴演奏會▼
十一月三日
第三日目 プログラム
Ⅰ、交響樂的習作曲(十二曲) シューマン作曲
休憩 十五分
Ⅱ、(イ)ミウゼッテとロンド ラモー ゴドウスキイ作曲
(ロ)タンボリン 同
(ハ)牧歌 コレリー ゴドウスキー作曲
(ニ)ギク ロシリー ゴドウスキイ作曲
(ホ)夜曲風タンヂェル ゴドウスキイ作曲
(ヘ)追憶 同
(ト)田舎風のテイロール 同
(チ)音樂おもちや箱 同
(リ)ドンキホーテの俠気 同
休憩 十五分
Ⅲ、(イ)即興曲 作品廿九番(變イ調) ショパン作曲
(ロ)即興幻想曲 同
(ハ)夜曲 作品五十五番の一(ヘ短調) 同
(ニ)ワルツ 作品六十四番の一(変二調) 同
(ホ)諧譃曲 作品卅九番(嬰ハ短調) 同
(ヘ)秋に モスコウスキイ作曲
(ト)軍隊行進曲 シューベルト タウジヒ作曲
(終)
天才的音樂家ゴドウイスキーを聽いて
音樂學校敎授 弘田龍太郎
ゴドウイスキーが、ピアニストとして、世界一流の人であることは、彼の演奏を聴いた人の話と、蓄音器とによって知ってゐたに過ぎなかった。然も蓄音器は特にピアノの演奏には、いつも不滿を感じて、何となくものたりない憾 うらみ があったのに拘はらず、それを通じて聴いただけでも、ゴドウイスキーが大藝術家であることは、認めない譯にはゆかなかった。
私は市村座の仕事などの爲めに非常に多忙を極めてゐたので、演奏の第一日目には、出掛けられるかどうかと心配してゐたが、どんなことがあっても聽かずにはゐられない衝動を感じたので、無理に時間を拵 こしら へて聽きにいったのだった。丁度正面の左側にいい席が空いてゐた爲めに、演奏は勿論、ゴドウスキーの態度や、指の用ゐ方やペダンの使用方まで、細大漏さず注意を傾けることが出來た。
幕が開いて現はれたゴドウスキーは、餘り身丈の高い方ではないやうに見えた。氏は先づ聽衆に向って挨拶したが、如何にも謙遜な、眞面目な、嚴格な風が見えて、その人格が奥ゆかしく思はれた。
最初、ベートーベンのアパショナタが奏せられた。その第一の音を聽いた時、氏の持てる樂器の立派なこと、氏のタッチの極めて藝術的なのに驚嘆せずにはゐられなかった。そして甞て蓄音器を通じて聽いた氏の音樂といかに異ってゐるかを感じさせられた。
曲の進むにつれて表はれ出る技工の完全さ、それは如何に早い音でも、個々の音が立派に藝術的價値を備へてゐた。そして氏の手は決して大きいとは見えないのに、演奏に少しも骨の折れるやうな樣子もなく、如何にも自然に、如何にも優雅に、強く弱く、その彈きこなし方には全く嘆賞の外なかった。殊にその際、氏のペダルの使ひ方の巧妙さは何人も及ばないと思った。
由來ソナタは日本に於ては、長たらしいもので、人を倦 う ませるものとなってゐるが、氏の演奏を聽いては、倦むどころか、常に血が湧き立って來るのである。これだけでも實に偉大なものと思ふ。
ショパンのデリケートな、尊い境地と、燃ゆるやうな藝術の薫りとは、ゴドウスキーの天才的な腕と相俟って、或は美しく咲き亂れた花のやうに、或は太洋の波のやうに、或は星の如く晃 ひら めき、或は高山の嵐の如く、吾等の胸に迫って來て恍惚境に導かれるのであった。
上の文は、初日の感想ではあるが、大正十一年十二月一日発行の雑誌 『婦人画報』 第二百六號 東京社 に掲載されたものである。