蔵書目録

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「君死にたもうことなかれ」 作曲 吉田隆子 (1949.4)

2023年11月17日 | 作曲家 その他

  

  「君死にたもうことなかれ」
                 吉田隆子

 私が、晶子の「君死にたもうことなかれ」を、はっきり作曲したいと考えだしたのは、終戦から間もなくの頃でした。その頃私は、永い病臥生活から再起出来て、新しい時代の求める人民的でしかも芸術的な歌曲を、民族の底を流れる音楽情感を生かして作りたいと願っていた時でした。しかし私の求めるのにふさわしい新鮮な感動を持つテキストはなかなか見当たりません。それならば、私は、この明治の時代の感触を持ちながらも、女の悲哀を通して鋭く戦争に抗議した晶子の「君死にたもうことなかれ」を、現代の歌曲として生かしたいと思いました。  
 しかし作曲はなかなかはかどりませんでした。ーこの氣魄にみちたオクターヴの高い調べの詩!一体、晶子の天才は、詩の言葉のなりにくいものまでちゃんと高い格調を持って歌いこなしているのですから‥‥‥。原詩が優れていればいる程、作曲もそれにふさわしくてはならない、と思うので、軽々と筆を下すわけには行きません。-ヒューマニズムの高い調子を保ちながら、誰にも親しまれやすく、という謂わば芸術作品として専門家が歌ってきかせるばかりのものではなく、是非ともみんなが声を出して心を触れ合わせながら歌えるものにしたい!思えば‥‥‥あの頃、私は一体、幾度メロディのデッサンを作りなおした事でしょう。ようやく仕上げたのはそれから4年もたった今年の4月でした。それは丁度、日本が生んだこの不世出の詩人・與謝野晶子の偉業を偲んで催された第1回「晶子祭」(1949年5月29日、晶子の8回忌、於・国際綜合文化協会、主催・日本女詩人会)の直前でした。この会場で三宅春恵さんにょって初演された時の聴衆の感動のすすり泣きや、其の後全国各地で歌われているという知らせは、この詩を現代に生かして我々の歌曲にしたいと念願した私をどんなにはげましてくれた事でしょう。
  さて、「君死にたもうことなかれ」は、明治37年9月号の「明星」誌上に発表されました。それは丁度、日露戦争の真最中旅順陥落の成るか成らざるかにょって戦いの帰趨が決まるという好戦的昂奮のただなかであったわけです。当時の反戦運動は第一次「平民新聞」によって代表されますが、其の他早稲田の学生を主に、全国各地の反戦的底流は、この詩から大きな感激を与えられたと伝えられています。しかし同時に一方から晶子は、非国民呼ばわりをされ、雑誌「太陽」には、大町桂月が、「乱臣なり、賊子なり、国家の刑罰を加うべき罪人なり」と書いて、攻撃の手は盛んにあがったとも伝えられています。それに対して「明星」の同人達は演説会を開いて晶子を擁護しましたが、晶子自身も、「明星」11月号に、「ひらきぶみ」と題した長文の手紙体の抗議文を「みだれ髪」の署名で発表し、自分は政治運動としてではなく、ただ真実を追求する芸術家の真情でこの詩を書いたのだと、つつましい言葉の中にもその決意を披瀝しています。
  
  「前略。ー歌は歌に候。歌よみならい候からには、私どうぞ後の人に笑われぬ、まことの心を歌いおきたく候。まことの心うたわぬ歌に、何のねうちか候べき。まことの歌や文や作らぬ人に何の見どころか候べき。長き長き年月の後まで動かぬわからぬまことのなさけ、まことの道理に私あこがれ候心もち居るかと思い候。この心を歌にて述べ候ことは、桂月様お許し下されたく候。桂月様は弟御様おありなさらぬかも存ぜず候えど弟御様は無くとも、新橋渋谷などの汽車の出て候ところに、軍隊の立ち候日、一時間お立ちなされ候わば、見送の親兄弟や友達親類が、行く子の手を握り候て、口々に『無事で帰れ,気を附けよ』と申し、大ごえに『万才』とも申し候こと、御眼と御耳とに必ずとまり給うべく候。渋谷のステーションにては、巡査も神主様も村長様も宅の光までも斯く申し候。かく申し候は悪ろく候や。私思い候に、『無事で帰れ、気を附けよ、万才』と申し候は、やがて私のつたなき歌の『君死にたもうこと勿れ』と申すことにて候わずや。彼れもまことの声、これもまことの声私はまことの心をまことの声に出だし候ことより外に、歌のよみかた心得ず候。後略ー」(「音楽の探究」から)
   
〔蔵書目録注〕
   
 上の写真の楽譜は、昭和二十四年六月一日発行の 『婦人朝日』 六月號 第四卷 第六號 通卷第四十一號 の 「君死にたまうことなかれ 自由と愛と美の詩人與謝野晶子を讃う 解説 深尾須磨子 作曲 吉田隆子」中にあるもの。 
上の吉田隆子の解説は、昭和三十六年四月二十五日の 「吉田隆子を偲ぶ夕」 主催 吉田隆子を偲ぶ会 のパンフレットより。
なお、この解説の原載は、昭和三十一年九月発行の改訂版の『音楽の探究』 理論社 と思われる(未見)。



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