蔵書目録

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「故郷 (マグダ)」 御園座 (1912.7)

2011年07月15日 | 演劇 貞奴、松井須磨子他

 表紙には、「明治四十五年 〔一九一二年〕 七月十九日ヨリ同二十三日迄「五日間」毎日午後六時半開演 『故郷 マグダ』筋書及番組 御園座 坪内博士主宰文芸協会 名古屋第壹回公演」とある。22センチ、両面印刷、表裏で共十面。

     

  〔絵葉書の写真、左から:文芸協会第三回公演(故郷)松井須磨子氏扮装マグダ、同 土肥庸元氏扮装シュワルツヱ、同 東儀季治氏扮装フォン,ケラー博士〕

 故郷 四幕 スーダーマン氏作 島村抱月氏訳

  シュワルツヱ 退役陸軍中佐  ‥‥ 土肥庸元氏
  マグダ    中佐の先妻の娘 ‥‥ 松井須磨子氏  
  マリイ    同前      ‥‥ 林千歳氏
  アウグステ  中佐の後妻   ‥‥ 和泉房江氏
  フランチスカ アウグステの妹 ‥‥ 都郷道子氏
  マツクス   アウグステの甥陸軍中尉 ‥‥ 林長三氏
  ヘフターデ井ング 聖マリイ教会の牧師 ‥‥ 佐々木積氏
  フオン、ケラー博士 参事官  ‥‥ 東儀季治氏
  ベツクマン教授  休職校長   ‥‥ 西原勝彦氏
  フオン、クレプス 退職陸軍少将 ‥‥ 戸田猿仁氏  
  フオン、クレプス夫人      ‥‥ 横川唯治氏
  エルリヒ夫人          ‥‥ 森英治郎氏
  シューマン夫人         ‥‥ 泉新一氏
  テレゼ シュワルツェ家の女中  ‥‥ 森英治郎氏
  以上 

 『故郷 マグダ』すぢ書

 ◎此の芝居は、ドイツの或る小都会に起つた出来事で、気候の好い時節、或る日の午後四時頃から夜にかけてが、第一幕第二幕にあたり、翌日の午前十時頃から午後にかけてが第三幕第四幕になつてゐる。場所はすべてシュワルツェといふ退職陸軍中佐の家の客間で、窓から見おろすと、町一杯に音楽祭で賑つてゐるのが見える。
 
 ◎第一幕は今度の音楽祭には、イタリアで有名なオペラの女優ダロールトーといふのが招かれて来てゐる。それを歓迎するために知事が夜会を催すやら、町中は大騒ぎである。所がこの中佐の家などは、軍人気質の極古風な厳格な道徳を守つてゐて、音楽だの女優だのといふものは 斥してゐる。其の家へこの一両日来毎日立派な花束を匿名で贈るものがある妹娘のマリイはそれを自分の許嫁の中尉マツクスといふのがよこすのだと思つて、手堅くしつけられた彼女は、マツクスをたしなめる。けれども実際其花束はマツクスが送るのでもなかつた。其うち此家の前に毎晩馬車が来て、立派な婦人が家の様子をうかがつたり、匿名の花束の贈主が同じやうな、婦人であることが知れたりして、それが今度来たオペラの女優ダロールトーであるといふ事が知れたそして更に驚くべきことには、其女優が十二年前家を出た姉娘のマグダであるといふことを、妻君の妹フランチスカと牧師のヘフターディングとが見届けて来た。さうなると此静な家庭には大波乱が起らざるを得ない。之が此劇の発端である。主人の中佐は所謂旧道徳の世間を代表した人物で、卒中で体がきかなくなつて、退職を命ぜられてからは、牧師ヘフターディングに助けられて、宗教上の仕事を手伝つてゐる軍人として君につくすか、それでなければ神の御前につかへるか、是より外に為すべき仕事は無いと信じてゐる老人である。それでゐて、斯んな小都会にあり勝な、こせゝした世間の毀誉褒貶を気にし、思想が段々偏狭になつてゐる。親の権力に凡てのものを服従させて、善良な家族的道徳を維持しやうとしてゐる。其精神からまづ娘マグダを牧師に娶 めとら せやうとすると、マグダはそれを嫌つて、遂に家出をした。そして女優になる決心を知らせて来た。堅い父は烈火のやうに怒て、それきりマグダを勘当して了 しま つた。それ以来中佐は益々今の世間の風潮が嫌になつた。広い世間には旧道徳を破壊しやうとする革命の精神が漲つている。現代思想だの新思想だの新道徳だのといふものは絶対に排斥しなくてはならぬ。併 しか し其の現代の嵐は既に自分の家庭をまで侵して来た。自分等も何時亡ぼされるか知れない、心の底には言ふべからざる寂しさがあつて、段々ひがみも募つて来る。是が此芝居を貫いた半面の意味である。其他もとマグダと旅で別懇いしたといふ参事官フォン、ケラーは軽薄な、利己主義な、饒舌な、功名心の盛な当世才子である。中佐の前へ出ては「ちよいとした少銭で極安値に所謂現代思想が仕入れられる世の中ですから」といふやうな事を言ふと、中佐は喜んで「現代思想!ヘッヘッヘッヘッ」と心地よげに新思想を嘲ける。また此家で名誉として交際してゐる退職少将や教授やなどが来て、女優だの音楽だの芸術だので世間が騒ぐのを憤慨したり弁護したりする中佐は其女優が自分の娘であると聞いて、どんな事があつても家へは入れぬと言ひ張る。それを牧師がさまゞに説得して、終に呼び迎へることになる。之までが第一幕で、中佐の厳格な旧思想に対して、牧師は其献身的な寛大な精神で之を緩和し、まるで異なつた新思想を懐いてゐる娘を説諭して、新旧二つの世界を調和しやうとする所に趣意がある。 

 ◎第二幕では、牧師が迎に行つたあと、家中いろゝの心持でマグダの来るのを待つてゐると、牧師と行き違つてマグダの馬車がまた家の前に止まり、マグダは遂に父と継母のアウグステとに迎へられて這入つて来る。考へて見ると、十二年ぶりで自分の家は帰つたのである。其間マグダの身に随分と変化があつた広い世間は暴風雨のあれるやうに動いてゐる。それに此保守的な父の家では、「十二年、何一つ起つた跡もない。私が見て来た事はみんな夢であつたのか知ら」と不思議に思ふ。それと同時に、家へ這入ればもうすぐ父の権力、家庭の道徳といふやうなものがひし々とマグダの自由を束縛して来る。自分で作り上げた大きな自由な己といふものが小さくなるやうで心細い。それに自分は一方では是たけの地位を作るために、精も根も疲れ果てた奴隷あのやうな身の上である。とても永く家庭の人になつて、此上更に義務や道徳の負担を背負はされることは出来ない折角帰つた家ではあるが、またすぐに出て行く外はない。自分はやつぱり家の無い自由な身で暮す外ははない、マグダは斯う決心した。併し牧師が仲に立つていろゝとなだめて引とめやうとする。マグダはおれを嘲笑つて「広い世間の生活がどんなものだか罪悪の味はどんなでせう、快楽とはどんなものだか、あなたが少しでもそれをお察しなすつたら、そんな説教じみたお話をなさる御自身が、どんなにか滑稽に見えるでせうにねえ」といふ。けれども牧師がマグダとの結婚を謝絶されて以来、全く己を棄て々マグダの為に尽し、中佐の為に尽巣真心に段々動かされて、終に子供のやうな柔かな心持になり、暫く家に留まることになる。但しマグダが過去の生涯については誰も一言も尋ねてはならぬといふ約束である。

 

 〔上の写真は、「文芸協会第三回公演(故郷) 第二幕」とある絵葉書のもの。〕  

 ◎第三幕は其夜マグダが家へ泊つた翌朝で、起きるとからもう、双方の生活の様子が到底一致しない、別な世界の人々だといふことを現はしてゐる。マグダは妹を傍へ引よせ、マツクスとの恋の話を聞いて、金を自分が出して結婚させてやらうといふ。そして子供が生れたら「大威張りで、両手一杯に其子を差上げて世間に面と向つて見せてやつてお呉れ」と覚えず憤りの涙に咽ぶ。マグダは昔フォン、ケラーの為に弄ばれた時私生児が出来た其子のために今までの苦労もして来たのである。それを思ひ出すたびに、軽薄な其男を憎む情と、かわいゝ我子が日陰者であるといふ悲しさとが胸をつく。其上こんな穏やかな生ぬるい生活がマグダには窮屈すぎ狭すぎる。自分を小さくすることは不得手である。相手は必ず歌ひ負かして自分の前に平伏させてやるのがマグダの生き方である。それに対して、牧師はまた今までの自然の本性を殺してゐたことが悔るやうな気もするといふ。マグダは声をひそめて、善悪以上に超した人でなければ真に大きな人とは云へないといふ、所謂超人の思想をほのめかしたのである。其うちにケラーが尋ねて来て、昔の想出話をし、始めて子供の事を聞いて驚く。中佐は其様子を怪しんで、娘の身の上に関する疑ひを詰問する。 

 ◎第四幕では、マグダはもう家を去らうと決心してゐる、中佐はそれを引留めて、娘を弄んだケラーに談判し、うまく行かねばケラーをも娘をもピストルで射殺し自分も死んで汚れた家名を雪がうとする。牧師は一方、マグダに説いて、ケラート結婚し私生児を日陰者の身から救ひ出させ、事を円満に治めやうとする。併し功名心の盛なケラーにはたゞ細君のお供になつてごろゝしてゐることは出来ない否応なしにマグダと結婚して昔の自分の罪を償ふとしても其細君を利用して、社交界に手腕を揮はせ、自分の政治上の野心を満足させねば已まない。「最高の報酬于は応接間でのみ得られるもの」だから、マグダが舞台に出ることもやめねばならぬといふ。又私生児も当分隠して置いて、後にそつと養子にすればよいといふ。今まで屠所に牽かれる羊の気持で、自分を犠牲にして父や牧師の意に従はうと思ひ直してゐたマグダは、此一言を聞いて突き通すやうな笑声を上げ、ケラーを戸の外へ運び出さうとする。何より大事な子供をまで家名のために棄てよといふのなら、此上なんで家のためなどに苦む必要があらう。自分の最も神聖なものは芸術である。併し我子はそれよりも更に神聖である。それで問題はもう決して了つて。マグダは「また元のマグダに戻つた。父にやかましく言はれる必要はない。自分は自分の道を自由にあるいて行く。実を言へば父だつてマグダの世界とはまるで無関係である。マグダを家から逐い出して、独りで生きて行く外はないやうにしてそれでマグダが独立して自由な女になれば、それが気に入らぬと言ふ父に娘を流浪させる権利があるなら、なぜ娘は自分の愛を求め幸福を求める権利が無いてあらう。斯うなる以上はマグダはもう出て行く外はない。それにマグダが今までに身を許した男は必ずしもケラー一人ではないから、此上父が娘の身を心配するのは無用である。マグダが斯う言ひ放つのを聞いて父はおのれと一言、ピストルを取り上げ打たうとして痙攣のために遂に絶命する。マグダは「あゝ、帰つて来なければよかつた」と室の中央に突つ立つたが、牧師は諄々として愛と、犠牲の必要を説き父の前に其罪を悔いよといふ。マグダは屍の前に泣伏して悔恨の涙を流し天に祈を上けるそれが最後の幕である。

   

 〔上左の写真は、「文芸協会第三回公演(故郷) 第四幕」とある絵葉書のもの。左はマグダ(松居須磨子)、中はシュワルツヱ(土肥庸月)、右はフォン・ケラー博士(東儀季治)。上右の写真も、第四幕の絵葉書のものである。〕

 なお、広告は、いとう呉服店・洋紙問屋の中井商店名古屋支店・桔梗屋呉服店・ライオン歯磨の四面である。



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