觀潮樓一夕話
(エドモン・ロスタンが事) 〔省略〕
鷗外漁史談
(脚本「サロメ」の略筋)
今度は一幕物で、殊に短い、オスカア・ワイルドの作「サロメ」のことを話さう。
脚本の材料は誰でも知って居る傳説だけれど、學者や基督敎徒の爲に話すのでは無いから、手近な西經中の數節を前置にしよう。路加 ルカ 傳第三章に左の記事がある。
テベリオ・カイザル在位の十五年ポンテオ・ピラトはユダヤの方伯 つかさ となり、ヘロデはガリラヤの分封 わけもち の君と爲れり。其兄弟ピリポはイッリア及テラコニラの地の分封の君となり(中略)たりし時、ザカリアの子ヨハネ野に居て(中略)悔改 くいあらため のパブテスマ(洗禮又浸禮)を宣傳 のべつたへ たり。(中略)民懐望 まちをり し時なれば、衆人 ひとゞ みな心にヨハネをキリスト(救世者 くぜいしゃ )なるや否や忖度 かんがへ たりしに、ヨハネ之に答 こたへ いひけるは、我は水を以てパブテスマを爾曹 なんぢら に施 おこな へり、我より能力 ちから ある者(耶蘇基督)きたらん、我は其履帶 くつのひも を解 とく にも足 たら ず、彼は精靈の火を以てパブテスマを爾曹に施 おこな はん。(中略)扨 さて 分封の君なるヘロデ、その兄弟ピリポの妻ヘロデヤの事および行ふ所の凡 すべての惡事 あしきこと をヨハネに責 いさめ られければ、猶も惡事を加へ、ヨハネを獄 ひとや に囚 いれ たり。民みなパブテスマを受けるに、イエスも亦パブテスマを受けて祈るとき天ひらけ、聖靈鳩の如き狀 かたち にて其上に降りぬ。又天より聲あり、云 いはく なんぢは我愛子 あいし 、わが喜ぶ所の者なり。
又第四章に左の記事がある。
ヨハネ二人の弟子を招 よび て(イエスに)言遣 いひつかは しけるは、來るべき者(救世者)は爾なるか、亦われら他 た に俟つべき乎。(中略)イエス彼等に答曰 こたへいひ けるは、爾曹が見 みる ところ聞 きく ところ(跛者 あしなへ は行 あゆ み癩者 らいびやう は潔 きよま り聾 つんぼ はき〻死 しに し者は復活 いきかへ され貧 まづしき 者は福音を聞 きか せらる)をヨハネに往 ゆき て告 つげ よ。
又第九章に左の記事がある。
分封の君ヘロデ、イエスの行 なし し諸 すべての 事を聞て惑 まどへ り。或人は之をヨハネの甦 よみがへ れるなりと言、ある人はエリヤの現れたる也といひ、又ある人は古 いにしへ の預言者の一人甦れる也と言 いへ ばなり。ヘロデ曰 いひ けるは、我ヨハネの首を斬 きれ り、斯 か〻 る事の聞ゆる者は誰なるか、ヘロデ之を見んと欲 おも ふ。
右の末段では、ヘロデ即ちヘロオデス・アグリッパ第一世が已にパブテスマのヨハネを殺して了 しま って居る。ヨハネが殺される處は、馬太 マタイ 傳第十四章に書いてある。
其ころ分封の君ヘロデ、イエスの聲色 うはさ を聞 き〻 て、其僕 しもべ に曰けるは、是 これ パブテスマのヨハネなり、彼死より甦りたり、故に異 ふしぎ なる能 わざ を行ふなり。前にヘロデその兄弟ピリポの妻ヘロデヤの事に由 より てヨハネを捕へ、縛 いましめ て獄に入 いれ たり。此はヨハネ、ヘロデに此婦 をんな を娶 めと るは宜しからずと云 いひ しに因 よる 。彼ヨハネを殺さんと欲 おもへ ど民これを預言者とするにより、彼等を懼 おそれ たりしが、ヘロデ誕生の日を祝へる時、ヘロデの女 むすめ その座上に舞 まひ をなし、ヘロデを悦 よろこ ばせければ、何 いか なる物にても求 もとめ に任せて與 あた んとヘロデ之に誓 ちかひ たり。女その母の勸 す〻め ありしに因 より 、プパテスマのヨハネの首を盆に載せて此に賜れと曰 いふ 。王憂 うれひ けれども已に誓たると席に列 つらな れる者の爲に與ることを命じ、即ち人を遣し、獄に於てヨハネの首を斬せ、その首を盆に載て女に與ければ、女は之をその母に捧げたり。
以上の記事で、傳説の大略 あらまし は解るだらう。脚本に出る人物は、
ヘロデス 即ちユダヤの分封の君ヘロデ。
ヨハナアン 即ち預言者ヨハネ
若きシリア人 ヘロデスの護衞兵の大尉。名はナルラボオト
チゲルリヌス 年若き羅馬人。當時の羅馬の役人がユダヤの宮廷に行って居る樣子は、さういっては惡いか知らぬが、マア日本の幅の利いた役人が韓廷に行って居る樣なものだと想像したら好からう。
カポドシャ人
ヌビヤ人
第一の兵卒。
第二の兵卒。
ヘロヂアスの小姓。 ヘロヂアスの事は次に出で居る。
奴隷。
ユダヤ人大勢。
ナザレ人大勢。 ナザレは耶蘇の故郷。
ナアマン。 首切り役。
ヘロヂアス。 此人 このひと はヘロデス大王と呼ばれた前代 せんだい の王の孫娘で、初はヘロデス・アグリッパ第一世の同胞フィリッポスの妻であったのを、ヘロデスが同胞を殺して娶たのだ。上 かみ に引いた新約全書の文には、フィリッポスをピリポとし、このヘロヂアスをヘロデヤとしてある。路加傳の惡事といふのは、同胞を殺して、同胞の妻を横奪 よこど りしたのをいふのだ。
サロメ ヘロヂアスの娘。これは先夫の娘で、連子の樣な譯だ。
サロメの腰元大勢。
舞臺はヘロデス王の宮殿の石の階段 きざはし になって居る。時は月夜。ヘロヂアス夫人の小姓と二人の兵卒とが、奥の宴會塲を覗いて見ながら話をして居る。護衞兵の大尉、シリア産 うまれ のナルラボオトが繰返してサロメ姫の美しい事を賞讃する。此時舞臺面より下、地の底の土窟 つちむろ に成居 なせお る牢屋から預言者ヨハナアンの聲が聞える。預言者は耶蘇出世の事を語るのだ。兵卒二人は今の夫人ヘロヂアスの先夫で、今の夫 おう のヘロデスの兄フィリッポスが牢に入れられて、遂に縊殺 しめころ された噂をする。
此時姫君サロメが奥から出る。姫はヘロデス王が鼹鼠 むぐらもち の樣な眼をして引切りなしに私を見て居るので、堪 こら へられぬと嘆息して、月夜の美しいのを賞 ほ め、大尉と詞 ことば を交す。牢屋よりは又預言者の聲が聞える。姫大尉に向って、王が太 ひど くあの預言者を怖れて居ると話し、又あの預言者は自分の母の事に就 つい て、恐ろしい事をいふと話す。奴隷出で〻、姫に王樣が召し升と傳へる。姫、私は預言者に逢って話したい事がある、王の處へは行かれぬと斷る。奴隷入る。姫、兵卒に預言者を此處へ呼んで呉れといふ。兵卒は怖れて聽かぬ故、改めて大尉に言付ける。大尉も初 はじめ は斷って居るが、遂に承諾して兵卒に命令する。其處で預言者ヨハナアン、牢の中より姫の前に引出される。襤褸 つ〻゛れ を纏ひ髪を亂して居るが、眩 まばゆ い程の美少年だ。姫の前で、王ヘロデスと妃ヘロヂアスとを罵って、姫サロメに、頭に灰を冠 かむ って耶蘇の所へ尋ねて行って、悔い改めるが好いと勸める。姫は只ヨハナアンの美しいのに見惚れて、其姿を褒めそやし、逼 せま って接吻を求める。大尉は姫に戀慕して居た故、囚人を牢屋から出すといふ樣な、容易ならぬ事をも斷行したのであるが、その樣子を見るより憤 いきどほり に堪へず、姫の面前で自盡して、姫と預言者との間に倒れる。姫顧みずして、愈々預言者に逼る。預言者はみづから牢屋の内に下りて行く、傍に居る兵卒が、大尉の死骸を匿さうとする時、王と妃とが奥から出る。王は姫を尋ねて出るのを、妃が妨げようとして跟 つ いて出るのだ。王、此階段の上に宴會の席を移せと言付ける。大尉の死骸は其儘になり居るを王見て、どうしたのかと尋ね、自殺と聞いて、後から出て來た羅馬の客チゲルリウスに向ひ、ストア派(希臘哲學の一派)の學者などが、自殺といふ事をするのが可笑しいといひ、又その自殺した大尉は自分の滅 つぶ した國の太子であったのだと話す。王は酒と果 くだもの とを言付けて、姫に馳走する。牢の中より預言者が、死の時は到れりと叫ぶ。ユダヤ人大勢出で、宗論をして、預言者ヨハナアンは邪道の者ゆゑ、引渡して貰ひたいといふのを、王は聽かぬといふ。牢屋よりは預言者、耶蘇出世の事を叫ぶ。ナザレ人(耶蘇の郷人) 大勢出で、ユダヤ人と爭論をする。預言者ヨハナアンは、昔の預言者エリヤスの再來だとか、再來でないとか、耶蘇は昔から待たれて居る救世者メシアスだとか、さうでないとかいふ爭 あらそひ なのだ。爭論の間に耶蘇といふ男が、此頃死んだ者を生かしたといふ話がある。王はぎっくりして、死んだ者を生かすのは好くない事だ、そんな事をする人は、尋ねて伴れて來させねばならぬといふ。牢屋より預言者、淫婦を石責 いしぜめ にせいと叫ぶ。妃ヘロヂアス、あの叫ぶ者を殺して呉れといへど、王は聽かぬといふ。王盃を上げて一同に、羅馬のカイザルの萬歳を唱へさせ、姫サロメに舞を舞へと言付ける。妃は留める。サロメも辭退する。此時 そのとき 王はカイザルの徳を稱 た〻 へ、妃を罵って、預言者の詞 ことば が當って居るなど〻いふ。牢よりは預言者、王を罵って、滅亡を預言する。王又姫に舞を舞へと言付け、若し舞ふならば、何でも望みのものをやらうといふ。姫立上って、それは眞實 ほんと かと尋ねる。王、眞實ぢゃと答へる。此時王は物狂ほしき調子にて、頭の上で鳥が羽搏 はう つ、その風が寒い、イヤ暑い、頭に挿した花が燃えるといって、花を取って卓 つくゑ の上に躑 なげう つ。腰元膏 あぶら と七つの面紗とを持って來て、姫に渡し、跪いて姫の靴を脱がす。姫が舞ふ。舞が濟むと、姫は跪いて、約束の通、望みの品が御座り升、外でも無い、あの預言者ヨハナアンの首を銀の皿に盛ってお貰ひ申したいといふ。妃聞いて喜ぶ。王、それは出來ぬといふ。姫、私の首を望むのは、母樣の爲では無い、私が欲しいのぢゃといふ。王はどうかして別の褒美で濟ませようと思って、大きな綠柱玉をやらうといったり、大 おほき な孔雀を百羽やらうといったりする。此處に作者が得意の文才を發揮して、寶物の店卸しがしてある。どうしても姫は承知せぬ。王椅子の上に仰向に倒れ乍ら、姫のいふ品をやれ、實に母が母なら、子も子ぢゃといふ。妃王の指に嵌めて居る死罪の印 しるし の指輪を抜取って、兵卒に渡す。兵卒受取って首切り役に渡す。首切り役受取って、土の牢に下りて行く。姫上より牢の中を覗いて居て、待遠がり、母の小姓をやらうとしたり、又兵卒をやらうとしたりする。軈て牢の中から首切り役の黑い腕が、銀の盾に載せた預言者ヨハナアンの首を差出す。姫受取って首を摑む。此時王は面 おもて を掩 おほ ひ、妃は扇を手弄 まさぐ りて微笑する。ナザレ人等は跪いて祈祷をする。姫手に持った首を熟 じっ と見て、首になっても可哀いと、戀の白 せりふ がある。王怖れて、燈 ともしび を消せと指圖して、奥へ入らうとする。奴隷燈を消す。今まで照 さ して居た月を黑雲が隠す。姫、お前の否んだ接吻 キツス ぢゃけれど、かうなれば思ひの儘ぢゃといふ時、雲間を洩る月が、姫の預言者に接吻する姿を照す。階段を上り掛って居る王振向いて、サロメを見て聲を勵まし、あの女子 をなご を殺せと叫ぶ。兵卒等進み出で〻、姫を盾で押殺す。幕。
作者オスカア・ワイルドは愛蘭土 アイルランド の貴族だ。父はサア・ヰリヤム・ワイルドといふ學者で、母はレヂイ・ワイルドは筆の立った人で、文壇の名をスペランザ夫人と呼ばれた。オスカアはオックスフォォド大學に居た時分に、詩集を出したのが初 はじめ で、千八百八十年代に書いた小説などから文壇で成功し始めた。當時倫敦の大い夜會といへば、此人の顔を見ぬ事は無かった。英國の樣な、社會の階級の嚴重な處では、さういふことは大成功の證據になる。作者の其頃の風采は花々しいものであったさうだ。併し餘り収入は無かったと見へて、結婚する爲に、一時新聞の主筆になって報酬を取った。それから千八百九十年代になってから脚本を多く書いたが、大體 たいてい 金の爲であった。この「サロメ」も時代は其頃のものだけれど、全 まる で外の作と違って居る。殊に妙な事には、この脚本は初英文で書かずに佛文で書いて、サロメエ・アン・アクト・パアル・オスカア・ワイルドとして、千八百九十三年に巴里で出版した。英譯はヅウグラス卿が筆を取って、千八百九十四年に倫敦で出版した。諄 くど く批評はせぬが、この作は樣式 スタイル を命にして居る脚本で、その事柄は如何にも幻像的 井ジオ子エヤ なので、文壇通の側では稱美して居るのだ。
この作の出た年邊から後のワイルドの作品は、極端な風刺的なものになって了った。平生の本能的な生活の間に、最初は戯談 じやうだん らしくして居た男色好 なんしょくずき が次第に世評に上って居た〻まらなくなり、作者は亞弗利加のアルヂイルに逃げて行って、無賴の徒と交際して日を暮らして居た。其内何と思ったか、友人の諫 いさめ を聞かずに倫敦に歸って、反對者に對して、侮辱の廉 かど で訴訟を起したが、あべこべに自分が懲役二年に處せられた。滿期の後男色云々 しかゞ の噂の元になった少年の某卿と決して交際せぬといふ約束で、女房の親類に貢がれて居たが、遂にはその某卿と以太利のナポリを指して逃亡した。死んだのは巴里に歸っての事で、千九百年であった。死ぬる時は困窮して居たさうだ。ワイルドが作の小説と論文とに就いて、面白い話もあるが略する。
現今の處では、ワイルドの流行は、本國よりは獨逸の方が盛 さかん な様に見える。英文學の脚本で、頻 しきり に獨逸の舞臺に上るのは、バアナアド・シヨオのものとオスカア・ワイルドのものとを主として居るらしい。
同じサロメの事を書いた獨逸のズウデルマンの脚本がある。題號は「ヨハンネス」で、豫言者の方を主人公にしてはあるが、サロメにも隨分重みが附けて書いてある。五幕物で、初に序幕が別に添へてあるから、都合六幕になる。ワイルドのから見ると、容積からいへば大いには相違ないが、どうもワイルドの一幕物ほどの感じが起らない。昔讀んだ時書いて置いた粗筋 あらすぢ があるから、因 ちなみ に次に載せる。
ガリレアの王ヘロデス・アンチパス、同胞を殺して奪ひ得たる妻ヘロヂアスと共に、エルザルムの寺院に詣づるとき、金鎧を着て來べきメシアスを信ずるヨハンネス石を抛 なげう ちて、人民の暴動の合圖とする筈なりしが、ガリレアより來りし旅人 りよじん に耶蘇の言 ことば を聞きしより、心がはりして、手より石を取り落す。ヘロヂアスのつれ子サロメ牢屋にヨハンネスをおとづれて挑 いど み、斥 しりぞ けられて怒る。シリアの使者ヰテルリウス等の前に舞ひしサロメ、舞の報 むくい にヨハンネスの首を求む。ヨハンネス死に臨みて、耶蘇の許 もと に遣りし弟子の歸れるを見て、耶蘇の敎を聞く。ヘロヂアス娘の金盤に盛りたるヨハンネスの首を掲げて舞ふを望見す。ヘロデス酒杯を手にして、人民に歡迎せらる〻耶蘇に戯 たはむ れんとして、忽ち驚懼し、手より杯を墜して面を掩ふ。ホジアンナアの聲城外に湧く。序幕の外、五幕。
上の文は、明治四十年八月一日発行の雑誌 『歌舞伎』 第八十八號 に掲載されたものである。