蔵書目録

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「日清戦争」 浅草座 (1894.9)

2021年03月23日 | 演劇 貞奴、松井須磨子他

  

川上演劇筋書
  劇場雑誌 第一号 淺草座
           香朝樓筆 

日淸戰爭

 ●八幕目 李將軍面前比良田之痛論
 一將軍李鴻章   高田實
 一副官趙武慣   中野信近
 一同洪炳集    柴田善太郎 
 一獄吏袁酷烈   深澤恒造
 一袁同臭     寺島倉次郎
 一李氏の侍臣矯仙 河村昶
 一同汝愼     原澤新三
 一廷吏李燵    矢野勘二郎 
 一同聶羽     保田注一郎
 一同玄朴     佐野庫二郎
 一春田しげ    石田信夫
 一比良田鐵哉   川上音二郎 

日淸戰爭

   〇序幕  黄河口日軍軍營の塲

 本舞臺總て支那黄河口日軍々營の体 てい 奚 こヽ に、將官植島寛尉官山内進下手に砲兵四人居並び分捕の大砲二門小銃數十挺を検閲して居る是を風音演習ラッパの音にて幕明く
 (山内)一昨日の開戦に分捕 ぶんどり の銃器は悉く揃ひ升たか(兵)ハイ殘らず揃ひ升 まして 厶 ござ り升 ます る(山内)ハヽア左樣ですかト大砲其他を見る事あって(山)長官是等の銃器は悉く新式の者ですか近頃では支那にても製造には心を用ひて居ると見得升 みへます (植島)當今は日本の村田銃なども來てをるが仕用する人材がなくては無駄な事じゃ(山)今日等 あた りは天津沖に進軍の報が有り升 ましよう が我が陸軍も益々進んで海軍に先 さきだ つて北京に進撃仕度 したき もので厶る(植)ムヽ香港の旅團長から命令にせつしたらば今晩にも進軍仕樣が此黄河口は第一の塲所だから輕々敷引拂ふ事出來ぬト宜敷 よろしく せりふ渡り是 これ にて分捕物を片寄 かたよせ る所へ兵卒三人出て來り(兵一)日本婦人が見得升たゆへ誰とか尋ね升 まし たれば(兵二)日本赤十字社の婦人の總代慰問の爲に來たとの事 〔以下省略〕 

    〇二幕目  北京城外關門の塲
   〇三幕目  支那中央電信局の塲
   〇四幕目  北京城内軍獄の塲
   〇五幕目  李將軍面前痛論の塲

 本舞臺高足唐模樣の強物 はりもの にて都 すべ て北京城内の体奚に正面の左右に淸官趙武慣洪炳集抔 など 云へる支那官扣 ひか へ平舞臺の左右に支那小官夫 ふ 居並び唐模樣の靜成る合方 あいかた にて幕明く(武)如何に袁酷裂本日兼て其元より中達有りたる日本新聞記者と名乗る比良田鐵哉水澤恭二の兩人を將軍自ら取調べ有りとの旨 むね に附此儀申置 もふしおく ぞ(炳)殊に我が大淸國と日本との交戰最中油斷成らざる折抦 をりから 彼の新聞記者と呼ぶ者他の探偵に參りし者の由 よし 依て今日直 ぢき ゝの取調べ(酷)夫 それ に附彼の兩人の内水澤恭二と申者 もふすもの 先刻死を致しましたが比良田と云へる奴血氣おとろへず成れども飯 え を立 たち し爲か余程神心おとろへ居 を れば御心配には及びますまい(武)シテ又其時捕へたる少女は如何致した(酷)是 これ も獄家に繋ぎ置ましたが降伏の樣子は見得 みへ ませぬ(武)ヨシ是より呼び出し將軍の直裁 ぢきさい に委 くわしく せんト是を時計音鳴物 おとなりもの に成り正面より李將軍唐裳ぞくにて出て來り(李)兼て達し置きたる日本記者を呼び出 いだ せ(下官)ハアト下手へ這入り前幕の比良田鐵哉を引出し來る(李)ヲヽ日本人比良田鐵哉は汝が今度 このたび 倡と隣國朝鮮との關係から日本と戰に成つたが見受る所余程勞 つか れた様じやが汝じ我軍の秘密を探りに來たか樣子を白狀した上で降 こう を乞へば斗 はかろ ふべき事有るぞよ(比)貴官が聞及んだ李將軍ですか今聞ば日淸の交戰は朝鮮の關係上世の風潮の致す所抔 など と甘言を以て我を誘 いざな ふとも夫に乗るべき者と思ふかト是より兩人にて種々論のせりふに渡りトヽ李將軍立服のこなしあつて(李)益々募 つの る其暴言最 も う此上は用捨はせぬ各々彼れに笞杖を當てよト是にて下官二人袁酷裂立つて近寄る比良田急度 きつと 成る皆ゝたぢゝと成る又立つて春田しげを打つ是にてしげ子はウント気絶する(比)斯 か く迄云へど理非を知らざる獄卒どもモヲ此上は片つ端から怨みに倒れし我が同胞水澤恭二が仇を報 むく わんサア假令 たとへ 身体衰ふとも神洲男子の生命を絶 たゝ れる者成 な らたつて見よト是にて皆ゝ何をと掛 かヽろ ふとする此時ドンチャンを打ち込 こみ 砲撃聞 きこ へ下手より前の袁同臭出て來り(同)私報致します只今日軍北京城の周圍を一時に取りかこみました早速開戰の御用意傳へとの事で厶ります(武)然らば將軍今日の調べは是迄にして軍議の席へ(李)ムヽ犯人は急度 きつと 軍獄に繋ぎをけト云乍李趙洪三人奥へ這入る跡袁酷裂恐るゝ比良田の傍 そば に來り(酷)立てト云ふ比良田はウント立上るトタン繋ぎの鎖り切 きれ る是にて兩人驚き後ろへ倒れるを木の頭 かしら にてドンチャン砲撃烈しき鳴物にて幕

   〇六幕目   渤海灣海戰の塲

 本舞臺一面の海原上手に大き成る支那軍艦を見せ下手奥の方に日艦の先きを見せ都て渤海湾海戰の体清艦の上に支那兵大勢銃を持ち後ろ向きに日艦へ砲發して居る支那指揮官壹名指揮 さしづ して居る此模樣宜敷 よろしく はげしき浪の音にて幕明く〔以下省略〕

   〇大詰   日軍大進撃の塲

 本舞臺都て支那風の城門前に堀を見せ左右城壁下手より奥へ掛けて市家 まちや の遠見爰 こヽ に序幕の大島少將武田中佐日軍を指揮して居る日軍兵大勢附添 つきそへ 發砲の模樣始終砲丸を飛 とば し鳴物にて幕明く
 (大島)如何に諸隊の兵臺方 へいしかた 今日は斯く我軍全力を擧げ北京城迄攻寄せたれば大日本の勇氣を各國に見せ只一 たゞひと 揉みに攻め落す時節成るぞ(武)今日こそ我が國に報 むく ゆる好機會各々一擧に進み給へト此内城より發砲烈敷 はげしく 日軍是を除ける城内より淸兵替 かはる ゝ出て立廻り淸將の討死ありトヽ門を開き前の牢番劉昌和しげ子を後ろにかこひ出る是を日軍二人打て掛る留 とめ て(昌)日軍の將士に申す事あり暫く(武)ヤア此塲に臨んで無用だゝ(昌)イヤ死を退 の がるヽ者でない日本人だゝ(大)後ろに見ゆるは日本婦人樣子があらん暫く待たれよ(武)シテ其方は何者だ(昌)私は當淸軍に雇はれ軍獄の牢番を勤めます劉昌和と申者 もふすもの で厶りますが生れは日本相州小田原のもの今より廿余年の昔此淸國へ渡りました未た幼年父は病死して我は國人劉氏に養 やしなわ れ斯く生長は致しましたか今度の騒ぎがおこりまして我同胞の新聞記者比良田樣に水澤樣又此しげ子さんと云ふ三人私か預り獄へ繋れしをお助け申 もふし た夫 それ を功に日本軍にお供して生れた國へ御奉公を致し度嚴しい守りをしげ子樣を助け申ました(大)夫では汝じは日本人か(武)シテ比良田と申新聞記者は(昌)其お方は長の牢舎で厶りましたが今日日軍北京城へ進撃とお聞に成り日本へ便利の爲め城内の細圖をお引で厶りまして今にお出に成りませう(武)シテ水澤と云ふは(昌)獄中の苦しみにたへ兼御落命を被成 なされ ました(大)ナニ死んだと云ふか殘念なシテ其方の名前は何と(昌)私の本名は秋山桂藏と申 もうし ます(武)ムヽ疑ひもなき日本人ムヽしげ子と云ふは黄河口に屯在の時赤十字社の私員として保護を與へし婦人ダナ(しげ)お蔭さまで北京に入り比良田樣や水澤樣の御介抱に預りまして命を助りました此上の御奉公には及ばず乍御案内を申ますから從軍をおゆるし被成 なされ て下さりませ(大)ヲヽ早速從軍ゆるして遣 やろ ふ兎に角兩人を手當して下さいト是にて二人の兵士附添下手へ這入る是を又砲聲に成り内より前の比良田鐵哉支那兵と立ち廻り出て(大)ヤア君ハ比良田か(鉄)ヲヽ長官かト是にて武田は兵士を追ふて助ける(鉄)是は城内の略圖是を持つて南大門より右へ廻って攻め入らば敵の要路 ようじ を突き凱歌を擧 あげ る時だ早くゝ(大)ヲヽ直に進軍仕樣ト是にて武田ラッパを吹く上下かみしも にて一時の砲聲を揚げる此時仕掛けにて大門燒き倒れる同時に日軍の下士壹人來り(下士)兼て城内に入り居りましたが只今北京城の守領袁氏は大將軍李氏共に利無きを察しましてか北門より忍び出て落 お て失せました(大)スリヤ北京城を打 うち て捨 すて てか(武)夫 それ では全く落城したナ(大)ヲヽ大勝利の勝どき揚よ(皆々)日軍大勝利日軍萬歳ト是にて皆ゝ居並び凱歌を擧 あげ る模樣宜敷 よろしく 幕

(明治廿七年九月一日内務省許可)
 明治二十七年八月三十一日印刷
 明治ニ十七年九月一日出版發行 (定價六錢)
         淺草區黒船町十六番地
    編輯兼發行人 座馬斧太郎
         日本橋區上槇町十六番地
    印刷人 平島曠



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