蔵書目録

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津田梅子女史(1905.2)

2019年04月10日 | 女子教育 神戸女学院、日本女子他

  

 津田梅子女史  独尊堂主人

 新渡戸稲造博士嘗て曰く、日本に於いて最も英文を能する者数人、而して頭本元貞、内村鑑三氏等は世既に定評あれども、之と比肩して毫も遜色無きは実に津田梅子女史なりと、言や頗る簡なりと雖とも而も、我が英文界の一大明星、新渡戸博士其人の口より、親しく斯 かか る評論を聴く、以て女史の真価を窺ふべく、之と共に我国女流の価値を高むること幾千丈なるものありと謂ふべし。
 女史は我国農業界の先覚者学農社長津田仙の二女、慶應元年を以て東京牛込区南町に初めて呱々の声を揚ぐ、阿爺仙君当時外務省にあり、杉田廉卿(嘗て医師たりし人にて、当時外務省に同勤)なる人と、親密なりしより、其人の教へ隨 したが ひ、女史の尚ほ母胎にありし折より注意して、之を学理的に教育せんとは為しぬ、即ち独逸文を和蘭文に訳せし産科書に基き、胎教より始めて、完全なる教育を施さんとは為したるなり、之が為めに女史の母は既に女史の胎中に宿りしより後、其寝状(寝状は仰 あほむ けに寝ねて足を寛 ゆる りと置き、手は平らに置く)より食物に至るまで悉く注意して出産の折を俟ちつゝありしが、軈 やが て容顔玉の如き女兒は其初聲を放ちたり、是に於て、其後の教養又書物に指示 さしゝめ すが如くに為さんと努め、少しも之か教養を怠る事なかりき、其方法は如何と云ふにまづ兒をして一日に二度づゝ湯に入らしむ、朝の湯は微温湯を用ゐて中途に注湯 さしゆ を為す事なく、晩の湯は同じく微温湯を用ゆれども少しく中途に湯を注 さ す事を為す、而して二回共兒の身体を能く洗ひ、必ず洗ひ立ての襦袢を穿たしむ、大小用など為さしむるにも必ず時計を以て之を計り、乳を飲ましむるにも亦之を怠らず、而して其乳を與ふるに当りては、胃中に能く入らしむるが為め、必ず直立に之を抱 いだ きつゝ飲ましむるを例とし、寝 い ねしむる時も決して抱寝を為す事なからしむ、乳の如き、少しく残酷なるが如きも、夜間寝ぬる時飲ましめし儘 まま 、暁に達するまで之を飲 のま す事なし、然れども、小兒は、嘗て之を欲するが如き状なきと共に、夜中一回も大小便等を漏 もら せし事なし、母乳を與ふる事の如きも書に隨つて生後九個月目にて止め、其代りとして粥又は牛乳を用ゐしが、発達頗る佳良にて、最も愛らしき女兒として、成長したり、
 斯 かく の如く一切学理に随つて教養せしに、小兒の発育頗る円満なるを見て、父母の喜び譬 たと へんに物なく、掌中の珠と勤 いそし み育てしが、軈て自由に歩行し得る頃と為りしより、体育の為にとて舞踏 をどり を浅草なる某に就きて育はしめぬ、然るに一を聴きて十を知る聡明さ、舞踏の道も世の常の小兒よりは五六倍も早く覚えしより、師匠も大に望みを属し、此兒ならばと只管 ひたすら 熱心に教へける、当時一家は牛込より転じて向島にと居を占め居りしが、其業務上の都合より又も芝区に転ずる事とは為りぬ、然るに其居の少しく距 へだゝ りしが為め、其後は絶えて舞踏の稽古をも為さしめざりしが、師匠は酷 いた く之を惜 おし み、是非共此兒には習はせたしとて、我が家に来ると能はずは、自ら赴き教授すべしと強請せし事すらありと云ふ、尚ほ当時に於ける女史のことを聞くに、其頃女史は家庭にありて、母より百人一首を授けられしが尚ほ六歳の幼児なるに係はらず、其人物の座し居る台(百人一首にある人物の絵の台座は皆百人共異なり居ると云ふ)のみを見れば既に悉く其人の詠歌を誦し得たりしと云ふ
 斯くて女史は其齢 よはひ 七歳と為りしが、折から黒田清隆氏北海道に長官として、同道開拓の志あるに遇ひぬ、氏は先づ是等の目的を達せんには、完全なる教育ある女子を造らざるべからずとの意見にて、米国に赴かしむべき女子を募集したりぬ其募集人員は四五人なりしが、女子をして海を渡りて外国に赴かしむる如きは、開闢以来曾てあらざる事とて、人々皆恐怖の念を抱き、容易に之に応ずる者なかりき、然るに父翁仙氏は嘗て欧米にも渡航せし事あり、決して尋常一様の阿爺にあらざれば、断じて女史を留学せしむるに決し、折から岩倉大侯の一行、欧米漫遊の途に上らるゝを幸ひ、之に托して渡航せしむる事と為りぬ、
 女史当年正に七歳、普通より云へば尚ほ乳房を離れざるの年頃なれども、将来英邁の婦人と仰がるゝ女史、何の恐るゝ気色もなく、喜び勇んで波濤万里を越え、西半球の米国には向はんと思ひ立ちぬ、同行の留学生は今の大山侯爵夫人捨松子其他数人なり、出発に先つ数月、父翁女史に告ぐるに『お前は米国へ往 ゆ けば牛ばかり食つて居ねばならぬが善ひか』と問ひしに、女史は『それでは牛を食ひませう』とそれより毎日牛肉をのみ喫し、出発後の準備オサゝ怠りなかりしと云ふ、以て女史が如何に楽しく、米国行の事を待ち詫び居たるかを見るべし、
 軈て太平洋の波の音は、幾夜重なる夢を破り、隈なき海上の月を眺めて、名のみ聞く米国の地へは着きたりしが、其後は華聖頓 わしんとん を赴きて後の文部大臣森有禮氏の紹介により、チャーレス、ランマンなる人の許 もと に預られ、アダムス校にて教  受 ぬ、此ランマンは有名なる米国の政治家ダニエル、ヱブストルの教を受けし人にて、当時日本公使館に在勤せし人なりき、女史は既に志望せる国来り、今又斯る好紳士の許に預けられしより、幼年ながら熱心に勉学せしが、漸々英語に熟達するに随ひ、日本語の方は漸く不得意と為り、其父翁に寄する書面の如きも、初め相応にいろはにて認 したゝ め得たるもの、後には竟 つひ に甚しく粗悪なる文字と為りたりしと云ふ、
 官費にて洋行せしめられし事とて其学費は最も裕 ゆたか に支給せられぬ、年千弗 どる づゝの学費は到底幼年の女史には費消し終る事能はざりしなり、因 よ りて屡々父翁より其残余を返さんことを述べしも許されず、竟に帰朝の際金貨六百弗を以て、ピアノ一台を買ひ帰りしと云ふ。
 女史の米国にありしは正に十箇年、其間孜々 しし として只管螢雪の功を積みしが今は相当の学識をも積み、文明国の実情にも通ぜしより、一度父母の安否を問はんものと、帰心は実に矢の如く、軈て太平洋通ひの一汽船は此可憐なる女史の英姿を乗せて風光明媚なる横浜の波止場には着きぬ、噫頭を回せは、郷国を出でしより、既に十一年目なり、身は弱 かよわ き女の身の、心強くも能く、波濤万里の空に、長の月日を送りけるよと、我ながら我が大膽なりしに呆れつゝ、取る物も取り敢へず、父母の居を訪 と ひ、『今帰りました』と挨拶すれば、之を見たる母の喜び、父の笑顔、誠に天地も崩れんばかりの歓声、暫く一家に響動 どよめ きける、
 去れど尚ほ妙齢可憐の一女子、春秋も未だ裕 ゆたか なるに、此儘郷国に埋没せんは悲しむべき限なりとて、二度米国の空に向ひ、尚ほも其学を磨き上げんとは志しぬ、即ち家に留ること三年の後女史は再び太平洋の波を破りて、我が第二の故郷なる米国の地には向ひたり、此折の目的は生物学と教育学とを研究せんとにありて、女史は先づ費府 ヒラデルヒア のグリンモール大学に入りて生物学を修め、後紐育 ニューヨーク のオセゴー大学に入りて教育学を修めぬ。
 此行は在米二年にして帰国せしが、爾 しか りしより後、女流英学者としての風聞は最も高く、帰朝後直に華族女学校の教授を命ぜられ、斯くて幾多の才媛淑女を教育する事とは為りぬ。
 折から米国に万国婦人会開れしより、女史は政府の依嘱に因り之に赴きぬ、然るに席上一場の演説を為せしが為めに大に欧米上下の喝采を博し、竟に英国のカンターベリー僧正の夫人等より招待を受けて、同国に赴く事と為り、備 つぶさ に同国の女子教育を視察して目出度帰朝したりぬ、是れ今より六年前の事にて、其後女史は又華族女学校の教授と為り、又女子高等師範学校の教授をも兼ね、続きて自ら女子英学塾を開校するに至りたり、此中女子英学塾は女史が理想的の教育を施さんとする所のものにて、専ら女子に高等の英語を教授するを主とし、生徒は百人の外入学を許さゞる事と為り居るなり。
 女史は又万一己の死する事あるも、同塾の教授に其人を欠くが如き事なからしめん為め、米国に於て募金を為して一万弗の金を得、之れを資本と為して同校卒業生中最も有望なる者を米国に於て教育するの道を立て、既に前年より之を実行し居れり。
 此外女史は自ら主幹と為りて英文新誌を発刊し、又時に応じて慈善事業を行ふ、今回の戦争の如きにも、我が在満州の兵に向ひ、腹巻五千五百人分と靴足袋四千五百足(其中には多く寶丹を入る)とを贈り、在赤十字社の病兵に対しては腹巻千三百人分を贈り、尚ほ恤兵部其他に向つて多数の靴足袋等を贈らんとの準備中にあり、誠に盛んなりと謂はざるべからず、
 女史の性は頗る謙譲の徳に富み、多く世に知らるゝを好まず、然れども其徳のある所、世に顕れざるの理なければ其齢今日四十を越ゆる尚ほ一二なるも、盛名は、既に天下に嘖々 さくさく たり、明治年代の名媛として本誌は之を世に紹介せざるを得ざるなり。

 附言、女史謙譲にして己の真影の世に知らるゝを好まず、写真の如き之を借らんことを請ひしも許さるゝ所なし、然れども天下幾多の女史を知らんとする者、若し其写真を掲げずんば記者を責むるを如何せん、よりて某氏より借りて之を掲く、請ふ之を恕せよ、

 上の文と写真は、明治三十八年二月一日発行の雑誌『成功』第六巻第貳号に掲載されたものである。



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