蔵書目録

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『西湖風景』 第一集 (1926.4)

2020年08月01日 | 清国・民国留日学生 1 教育、松本亀次郎

           

 西湖風景

    第一集 

 Views of West Lake

    Volume 1

   Hangchow , China

  上海商務印書館印行

蘇隄春曉 Spring Dawn on Perfect So❜s Causeway.  

雙峰挿雲 The North and the South Peaks. 〔上の写真:2枚目〕  

柳浪聞鶯 The Willow Bay and the Arch Built by Emperor K❜ang Hi,1700 〔同3枚目〕

花港觀魚 Looking at Fishes on the Flowery Lagoon.

曲院風荷 The Winding Hall,Built by Emperor K❜ang Hi,1700 .

平湖秋月 The Tang Dynasty❜s Pavilion.

南屛晩鐘 A Pavilion on the Nan Ping Range. 〔同4枚目〕

三譚印月 The Three Pagodas Half-buried in Water.

雷峰夕照 A Sunset View of the Thunder Peak Pagoda.

斷橋殘雪 The “Broken-off ” Bridge,Which Commands a Superb View of Melting Snow. 〔同5枚目〕

白隄   Perfect Pei❜s Causeway. 〔同6枚目〕

錦帶橋  Silk Girdle Bridge.

九獅石在三譚印月浙江先賢祠前 The Nine Lion Rock in Front of the Temple of the Chekiang Worthies. 〔同7枚目〕

焦石鳴琴 The Musical Rock.

空谷傳聲 “The Echoing Pavilion.”

西冷橋 The Si Ling Bridge.

放鶴亭 The Stork Pavilion.

湖心亭 “The Heart of the Lake”-a pavilion.

雲林寺 The Yün Lin Temple.

公園 Public Park.

文瀾閣 A Library in the Lodge.

保俶塔 Prince Su❜ Protecting Pagoda. 〔同8枚目〕

大佛寺 The Great Buddha❜s Temple.

雲棲 A Bamboo Grove. 

烟霞洞 The Cloudy Cave.

韜光山 The T❜ao Kuang Hill.

飛來峯 The “Overhanging” Peak.

冷泉寺 A Pavilion in Ling Yin Temple.

春淙寺 The Chun Tsung Pavilion

淨慈寺 Tsing Tze Temple.

岳王墳 Yo Fei❜s Tomb. 〔同9枚目〕

銭武肅王祠 Chien Liu❜s Temple.

秋社(一) Tomb of Chiu Chin,a Woman Martyr(Ⅰ) 〔同10枚目〕

秋社(二) Front View of the Tomb  of Chiu Chin,a Woman Martyr(2) 〔同11枚目〕

竹素園 A Place in Tsian Yi Li❜s Temple.

高莊 Ko❜s Summer Residence. 

劉莊 Liu❜s Summer Residence.

宋莊 Sung❜s Summer Residence.

小萬柳堂 Liens❜ Summer Residence.

虎跑寺 The Tiger Temple.

 庚戌年六月初版

 中華民國十五年四月十一版

  

 【西湖】 中國全體の地理から言へば、東湖といふのが至當であるのに、どうして西湖と云つたものかと、かねては想つたが、杭州城の西に在るから、名づけたものだといふのが、正説らしい。尤も西湖と名づけた湖水は、中華に幾つもあるが、今日では、單に西湖と言へばこの湖水の獨占的名稱と成つてしまつた。

 【西湖の概観】は、蘇東坡の一詩に盡きて居る。東坡の詩集を觀ると長編で二十句有るのだが、こゝには説明に必要な四句だけを抄出する。

     六橋横絶天漢上  北山始與南屛通

     忽驚二十五萬丈  老葑席巻蒼雲空

 試みに宋史を繙 ひもと いて蘇軾傳を觀ると、杭本近海、地泉鹹苦、居民稀少、唐刺史李泌、始引西湖水、作六井、民足於水、白居易又浚西湖水、入漕河、自河入田、所漑至千頃、民以殷富、湖水多葑、自唐及錢氏、歳輙浚治、宋興廢之、葑積爲田、水無幾矣、漕河失利、(中略)又取葑田、積湖中、南北徑三十里、爲長堤、以通行者、呉人種菱、春輙芟除、不遺寸草、且募人、種菱湖中、葑不復生、収其利、以備脩湖、(中略)堤成、植芙蓉柳其上望之如畫圖、杭人名爲蘇公堤、と云ふ事が錄してある。

 字書に據るに、葑は菰 まこも の根である。菰は根が張つて、忽ちに湖沼を密封するから、葑といふのだ相だ。蘇東坡が、宋の元祐年間、杭州の守と成り西湖を修めることを奏請した狀に、自國初稍廢不治、水涸草生、漸成葑田、凞寧中、湖之葑合者、蓋十二三爾、至今塞其半、已打量湖上葑田計二十五萬餘丈、度用二十餘萬工と云ふ事がある。

 以上の資料に據つて案ずるに、西湖は卑隰 ひしゆう の地で、三面山を以て圍まれて居るから、雨毎に押し出される土砂の爲に埋 うづも れ易く、唐以来歴代浚渫して居つたが、宋に及んで一時之を廢した爲、湖の大半二十五萬丈が眞菰田と成り、水が涸れて水運の便を失つたから、蘇東坡が奏請して、二十餘萬工を用ひて浚渫工事を起し、靑々として雲の如き眞菰田を、根から掘り浚 さら つて、一直線に湖中に積み上げ、南北直經三十里の長堤を作り、之に芙蓉楊柳を植え、且つ六橋を架して行人に便し、以て湖の周圍を迂廻するの勞を省く樣にしたものである。蘇詩に云ふ、天漢は即ち湖水を天の河に見立てたものであらう。

 西湖は南北の三面峯巒 ほうらん を繞らし、東の一方が杭州の城市で、平地であるが、日本領事館や岳飛廟の裏手保俶塔といふ高塔の立つて居る山脈一帯が北山で、之と相對して居る湖南の屛風の樣な連山が南屛山である。湖を隔てて南北對峙して居る連山を、新に築いた蘇堤に依つて連接し、捷徑 ちかみち を作つたから『北山始與南屛通』といつたのである。是迄眞菰が靑々と雲の如く、二十五萬丈の湖沼に生い茂つて居たが、太守の英斷で片端から蓆 むしろ を巻く樣に、根こそぎ掻き浚つて、積んで長堤としてしまつたから、湖上一空に歸し、目を遮ぎる何ものも無くなつたのに驚くといふのが、詩の大意であらう。

 東坡が古今無雙の文豪であると同時に、經世の才に富んで居つた事は、僅に此の一事でも驚嘆せざるを得ぬのである。

   眞菰根を 積みて成りにし 長堤 勲は とはに 朽ちせざりけり

 【裏湖と外湖】 蘇堤の西を裏湖と稱し、東を外湖といふ。無論外湖の方が廣くて水も深く、畫舫などを浮かべて遊ぶのは外湖である。玉泉山・飛來峯などいふ山は、皆湖西の連山中にあるのである。

 西湖には名勝古蹟が多いので、少なくとも三四日を費さねば、詳細に探究することは不可能であるが、自動車を驅つて、如何にスピードで巡覧しても、僅半日足らずでは、眞の一斑を窺ふに過ぎないが、見た順序によつて、概見した處を、北側からざつと記して見よう。

 【保俶塔】 日本領事館の後 うしろ の巨石山又の名寶石山の巓 いたゞき に見える八角七層の高塔で、千年餘りを經た建築物であるから、遠目にも古雅に見える。

 【孤山】 湖中に孤立する山だから名づけたもので、山北を後湖、山南を外湖といふ。領事館を辭して、程遠からぬ處に、斷橋といふのがある。斷橋を渡り、錦帯橋を過ぎ、孤山を經西冷橋に至る迄を白沙堤と云ひ、又孤山路と云ふ。孤山には陸宣公(唐の陸贄)白樂天(唐の白居易)蘇文忠公(宋の蘇東坡)林和靖(宋の林逋)等の墓がある。放鶴亭・巢居閣は林和靖の遺址で梅樹三百株を植ゑ、朝夕鶴を放つて娯 たの しんだ處・『暗香浮動月黄昏・疎影横斜水淸淺』淺と詠じたのも、此の處であらう。放鶴亭には、康熙皇帝の御書放鶴の扁額、董其昌筆の舞鶴の賦がある相だ。

 【文瀾閣】 此の閣は、乾隆四十七年に、揚州の大觀堂文滙閣、鎭江の金山寺文字閣と共に、四庫全書各一部を置かれたものだ相だが、長髪賊の亂に散佚したのを、杭州の丁氏が極力捜索して、十の八九を得、再び此の閣に藏 おさ めたので、東南の文獻が幸に墜 お ちざるを得たとふことである。乾隆の舊書には、巻頭に古稀天子之寶・巻尾には乾隆御覽之寶の印璽が押してある相だ。天下の至寶といふべきであらう。

 【蘇小々の墓】 名所には美人の墓がないと寂しいが、西湖にも西冷橋畔に、南齊時代錢塘の名妓で、詩を能くしたといふ蘇小々の墓がある。丁度奈良の猿澤の池畔に、吾妹子が寢くたれ髪と歌はれた采女の碑を見る樣な感じがした。

 【秋瑾女史の墓と予の追憶】 蘇小々の墓と稍離れた處に、鑑湖秋女俠之墓と題した墓標がある。即秋瑾女史の墓である。女史は女ながらに革命の先唱を爲し、巡撫恩姓〔恩銘〕を斃した革命黨員徐錫麟の案に連座し、其の捕へられて官憲の拷問に遭つた時、『秋風秋雨愁殺人』の七字を書し、又他を言はずして從容死に就いたといふことである。墓前の風雨亭は、悲史を記念する爲に、建てたものであらう。秋瑾女史は、予が明治三十八年の頃、駿河臺の留學生會館に於て、日本語を教授した事がある。色白で目の切れの長い、體格は稍 やや 花車 きやしや の方で、日本服の黑縞の單衣に當時流行の紫の袴をはき、纏足で、髪は日本流の束髪に結ひ、蓮步蹣跚 れんぽまんさん として、毎日缼かさず通學して來たものである。應答ははつきりして居つて、質問なども鋭い方であつたが、壯烈な革命の先軀者であらうとは、想像しても居なかつた。今親しく殺害された土地の墓前に來て、當時を追想すれば、二十六七年も前の事であるが、女史の風丰 ふうぼう が腦裡に浮んで、感慨に堪へぬものがある。

   紫の 袴はきたる 纏足の 彼の手弱女が 女俠にてありし

 上の写真と文は、「中華教育視察紀要 松本亀次郎」より、昭和五年四月の西湖見物の記述の一部である。



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