「紺碧の空」を作曲した
古關裕而さんの苦心談
稻田今日介
秋!と言っても九月になったばかり。夏の眞盛りとさして變りのない暑さだ。しかし気の早いショーウヰンドウから、ジャーナリストの編輯室から、レコード會社の吹込室から、ETC、秋は既に加速度に到來しつつある。
暑中休暇が明けたばかりのコロムビアレコード會社には既に緊張味が溢れてゐる。この秋のヒットは果して誰が打つであらうか?藝術家控室に居ると、澤山の藝術家達が入って來たり出ていったりしてゐる。その中に、高田プロの可憐なマーガレット・ユキ嬢の姿なども見えた。やがて此處に姿を現したのは、小さい體ながらガッチリした骨組を想はせるコロムビアの中堅作曲家古關裕而氏である。
「お暇があったら、作曲の苦心談を聽かせて下さい」
「僕なんかにはお話するやうなことはありませんよ。」
古關氏は甚だ謙遜である。
「兎に角、少し暇を下さい。」
「これから音丸さんの稽古があるんですが、音丸さんがまだ來てゐませんから、待ってゐる間ならー。」
そこで二人はお茶を飲み乍ら卓子を圍むだ。
古關裕而氏、本名は古關勇治。明治四十二年、福島縣福島市生れ、といふから、まだまだ若い。
僕は暫く戸籍調べのお巡さんのやうに訊ねる。
「学校は?」
「福島商業卒業。」
「それから?」
「福島で銀行に二年間務めました。」
「コロムビアに入社したのは?」
「昭和五年十月」
「音樂を勉強するやうになった動機は?」
「別にありません。幼い時から唯好きだったといふだけです。故郷に居た時はハーモニカなどを吹奏してゐました。」
先月の本欄にも誌したやうに、古關氏が宮田東峰氏の許にあって、ハーモニカ・バンドの指揮者となる源は遠く此の頃にあったことを頷いたのである。
「故郷にゐてコツコツ作曲を勉強しては、偶々故郷を訪れる近衛秀麿氏や藤原義江氏に作品を見て貰ってゐたのです。」
古關氏には確かに作曲家としての惠まれたタレントがあったに違ひない。そして古關氏は極めて何でもない樣に、上述のやうな話をすらすらと述べるのであるが、その間には血みどろな努力があったに違ひないと僕は想ったのである。それは若年にして昭和四年の秋、英國にある國際作曲家協會の作品募集に應募して賞を獲得したことや、小松平五郎氏の指揮する國民交響樂團によって、古關氏の作品シンホニック・ポエム「大地の叛逆」が演奏されて華々しく樂壇にデビューしたことや、昭和五年の五月に上京するや間もなく同年の十月にはコロムビア會社に専屬として入社したことなどに依って、證明されてもゐるし、又、酬ゐられてもゐる。
「私が入社したのは、まだ古賀政男氏などが作曲家として専屬になる以前でした。」
「その當時はどんな流行歌があった時代でしたらうか?」
「そうですね、『ザッツ・オー・ケー』などといふのが流行ってゐました。」
「今迄にレコードになった作品の數はどの位ありますか?」
「さあ、數へてみたことはありませんが、二三百篇位でせうか。」
「そのうちでヒットしたものはどんなものですか?」
「ヒット・レコードといふ程のものはありませんが、強ゐて擧げれば『利根の舟唄』『船頭可愛や』『大島くづし』などでせうか。」
古關氏が擧げた名前を考へると、みんな日本旋律のものである。
「私は日本旋律のものが好きなんです。鄙びた唄を作り度いと思ってゐます。そのうちに新しさを探求してゆき度いと思ってゐるのです。」
山田耕筰氏の『馬賣り』や『鐘が鳴ります』などといふ作品は古關氏が随喜しておかざる作品ださうである。
「さっきお話があった新しさを探求してゆくに就いて、どんな方法でやってゐますか、その邊のことに就いての苦心談を聽かせて下さい。」
「いや別にーー」
「併し苦心が必ずあると思ひますが、往来を歩き乍ら、素晴しいヒントを得たとか。」
「そういふ經驗はありませんね。」
「それでは書齊に閉ぢ籠って、これから作曲するのだぞ、といふ意識を持って、いつでも仕事を運んでゆくのですか。」
「大體さうですね。」
「では、今迄に作曲した作品のうちで、一番苦心をしたものはどんなものですか。」
「早大の應援歌『紺碧の空』でせう。あの作曲を依囑されて張り切ってゐたのですがどうしても曲想が浮ばない。學生が來てまだ出來ないか、まだ出來ないか、と毎日催促され乍ら、とうとう、日本靑年會館での發表會の前日になって了ったのです。せっぱ詰ってペンを持ったら案外すらゝと出て來て、出來上ったのがあの曲です。あの曲は書き流したまゝ、一小節も加筆しませんでした。昭和六年の春のことでした。『若き血に燃ゆるもの‥‥』といふ歌がありましたが、あの若き血に燃ゆるものの感激を如何にしてキャッチするかを、非常に苦心しました。」
秋、本誌が町に村に頒布される頃、神宮球場ではあの六大學野球戰の熱狂的シーンが展開されてゐることであらう。やがて早慶戰の日も近づき、本年も亦、古關氏の名曲『紺碧の空』が若き日の感激をそのまゝに高唱されることだらう。
「コロムビアでそれ迄私は童謠ばかり作曲してゐたのでしたが、あの歌を作曲してから一時、會社では私に行進曲風なものだの、校歌のやうなものだのばかり廻してよこすやうになりました。」
それが厭らしくドモリ乍ら、古關氏はさう言って、かすかな笑ひを浮べた。
「現在はコツコツ獨りで古典音樂を勉強してゐます。」
「現在の作曲家及び曲の批評、それに伴って古關さんの抱負というやうなものを聽かせて下さい。」
「抱負は澤山あります。大きな希望を澤山持つてゐますが、一寸話せません。」
古關氏は寡言實行の人らしい。
「是非、それを聽かせて下さい。」
僕はしきりにせびってゐたのだが、そこへ音丸さんが洗ひ髪をふさふささせ乍らやって來てしまった。古關氏は稽古に行かなければならないのだ。僕はそれを待ち構へてゐる人々のために、遠慮せねばならない。
上の文と写真は、昭和十一年十月一日發行の西條八十主宰の雑誌 『蝋人形』 第七巻 第十號 に掲載されたものである。