るるの日記

なんでも書きます

藤原氏【三条実美・受動たる人の尊皇攘夷運動】

2021-10-08 13:50:51 | 日記
■三条実美は幕末、尊攘派の筆頭として活動し、明治維新後は太政大臣として宰相の地位にあった

実美の父・実万(さねつむ)は
朝廷と幕府の連絡役として
孝明天皇のもとで仕えた俊才
幕府に攘夷決行を迫り、天皇が日米修好通商条約の勅許を拒絶するように仕組んだ、攘夷派公家の巨魁だった

このような実万の四男として
1837年2月8日京都梨木町生まれ
生後間もなく洛東新田村の
農民・楠六左衛門に預けられた
脆弱な公家風を嫌った父が息子を剛健にするためと、主たる理由は経済的事情である

三条氏は、藤原北家の流れの家系
家格は摂関家に次ぐ清華家
太政大臣、左大臣、右大臣などを多数出している
だが、近世は武家の世。公家たちの生活は貧窮を極めていた

■実美は5歳で生家へ戻る
実美の祖父が没し、食い扶持が減ったことと、実万の長男、三男が亡くなり、次男も病気がちで御家断絶の心配があったからだ

結局1854年に次男が病死
それから5年後実万も没し
実美が三条家の当主となる

■井伊直弼が桜田門外で暗殺されると、京都では再び尊皇攘夷論が沸騰。志士たちは実万の後継者である実美に期待し、その周辺に群がりはじめた。こうして23歳の実美は
志士勢力を背景に朝廷で大きな発言権を有するようになった

■実美は温厚で無類のお人好しで、主義主張を持たない意志薄弱なタイプだ。つまり時勢に流されて攘夷運動に巻き込まれていった
しかし【受動の人】たるところに、この男の存在価値があった

つづく、、

藤原氏【九条兼実・政界からの追放と家族の死と出家】人間いつかは皆死ぬ

2021-10-08 13:02:19 | 日記
■1195年11月
反・兼実派に朗報
8月に兼実の娘任子が皇女を生んだのに対して、かねて源通親が後鳥羽天皇のもとに仕えさせていた、通親養女の在子に、天皇のお手がつき、11月、在子が皇子を生んだ
のちの土御門天皇だ
天皇の外祖父の地位は源通親の手に落ちる

翌年冬、クーデターは起きた
兼実は政界を追われ
娘任子も、今後鳥羽天皇の皇子でも生んだら厄介だと後宮から追放された。兼実48歳の冬のことである

■兼実は政界を追放された後の日々、世の無常を悟り、法然を通して日ごと仏道に帰依していく
そして1202年、法然を師として出家

1188年長男良通を22歳で亡くし
出家前年1201年に正室を
1206年二男良経を亡くした
そして翌年の4月、兼実が死去
もろもろの衝撃に耐えきれなかったのだろう

九条家は良経の子道家が継ぎ、歴史に長く名を残した




藤原氏【九条兼実の盟友源頼朝の思惑「兼実は邪魔者・利用価値無し」】冷淡無情

2021-10-08 12:32:51 | 日記
■九条兼実は、後白河法皇が崩御して以後、クーデターによって政界を追われるまで、5年に近い歳月をかけて朝廷政治を牛耳ってきた

以前から法皇に批判的であった兼実は、法皇に関わる者に冷淡だった。源頼朝には法皇在世中には許可が下りなかった征夷大将軍の位を与えた。源通親や法皇の愛妾・丹後局が後白河の忌日を国忌として設けるように求めたのに対しては拒否した

■だが、兼実の政治生命は1196年突如断たれた。丹後局側がクーデターを起こして兼実を追放したのである

〈背景〉
かねてから兼実は、娘・任子を後鳥羽天皇の後宮に入れようと願いでていて、1190年正月任子は入内し中宮に立つ。兼実は任子が皇子を生むことを、弟の天台座主慈円に祈らせていた。兼実は先祖の藤原氏をならい、天皇の外祖父となって朝政をふるうことを夢みていた

■1195年3月、頼朝は妻政子や長女大姫を連れて再度上洛したが、このときの頼朝は盟友兼実に冷たく、兼実の対立者である源通親や丹後局に好意的だった

頼朝には強い思惑があった
娘・大姫を後鳥羽天皇の後宮に入れるという思惑だ。だが、すでに娘を中宮にしている兼実は、頼朝にとってはライバル、邪魔者にならざるをえない
加えて強敵後白河亡きあとの兼実は、その利用価値が低下していた

後鳥羽の後宮で勢力を誇っているのは、天皇の乳母一族の源通親であり、この通親と結んでいるのが丹後局である

後宮に娘を入れようとしている頼朝にとって、誰を疎外し、誰と親密にすべきかは明白であった

藤原氏【九条兼実・後白河法皇御万歳】

2021-10-08 11:48:17 | 日記
1186年3月、ついに兼実は摂関の地位を手に入れた。しかし摂関家が相続するはずの膨大な荘園については、依然として基通が手放さず、後白河もまた、いかに鎌倉がこれに対して要求してきても応じず、ついに摂関家領は兼実の領有するところにはならなかった。
だが、ともかく兼実は幼い鳥羽天皇に代わって政治を行う地位についた、、といっても京都政界の実力者は、天皇ではなく法皇なのである
摂政就任から後白河法皇崩御までの6年間、兼実は孤立していた

1190年11月、兼実は頼朝と初めて対面したときに、万々語り合う中、「後白河法皇御万歳の後」を話し合っている

その「御万歳」の時が到来したのは1192年3月13日。66歳で後白河法皇が崩御した。それ以降5年に近い歳月を兼実は朝廷政治を牛耳っていった



藤原氏【九条兼実・「後白河法皇の愛物」基通に代わって兼実が摂政に】

2021-10-08 11:26:27 | 日記
■九条兼実
1149年~1207年
59年の生涯

父は摂関・藤原忠通
母は藤原仲光の娘・加賀
異母兄は摂関・近衛基実、藤原基房
同母弟・天台座主慈円

兼実は、父から九条の地を与えられ
五摂家の一つ九条家の祖となった

■日記【玉葉】
兼実が1164年(16歳)~1203年(55歳)に至るまでの40年にわたる日記【玉葉】は、激変の世の動きを伝える第一級の史料として高い価値を持つ
源平の争乱時代、兼実は決して時代の流れに身を投ぜず、静観者の立場に身を置き続けた。その身分によって入手した情報は豊富で正確なものが多い

■静観者として過ごした兼実は
政権への野心はあったが、浮き沈み常な乱世では、権力を持つことを避け
世が鎮まる時代に、望みをかけていた
そんな兼実に、源頼朝が近づいてきた

その頃、藤原摂関家の人間は
※異母兄・基房は義仲と結んだ結果、没落
※甥・基通は、法皇と手を結んでいた

そんな状況の中、兼実一人が頼朝の意にかなう人物として、頼朝の視野に入ってきたのである。兼実の方でも早くから頼朝に関心を抱いていた

■頼朝は
後白河法皇をとりまく
反頼朝派公暁たちを追放し
親頼朝派公暁たちを朝廷政治の中心に据えることを求め
現在の摂関・基通を罷免
兼実を摂関の地位に据えることも
厳しく求めた

藤原基通はかつて、清盛の娘婿として平家側の人間だったが、その容姿の美しさから後白河から愛され、平家没落が明らかになっていく頃からは、平家を見限って院に内通していた
二人の関係は
【院の愛物】【君臣合体の至極】であったという

後白河法皇は、頼朝の激しい威嚇の前に、この要求を嫌々ながらのみ、基通に代わって兼実を後鳥羽天皇の摂政にした