■三条実美は幕末、尊攘派の筆頭として活動し、明治維新後は太政大臣として宰相の地位にあった
実美の父・実万(さねつむ)は
朝廷と幕府の連絡役として
孝明天皇のもとで仕えた俊才
幕府に攘夷決行を迫り、天皇が日米修好通商条約の勅許を拒絶するように仕組んだ、攘夷派公家の巨魁だった
このような実万の四男として
1837年2月8日京都梨木町生まれ
生後間もなく洛東新田村の
農民・楠六左衛門に預けられた
脆弱な公家風を嫌った父が息子を剛健にするためと、主たる理由は経済的事情である
三条氏は、藤原北家の流れの家系
家格は摂関家に次ぐ清華家
太政大臣、左大臣、右大臣などを多数出している
だが、近世は武家の世。公家たちの生活は貧窮を極めていた
■実美は5歳で生家へ戻る
実美の祖父が没し、食い扶持が減ったことと、実万の長男、三男が亡くなり、次男も病気がちで御家断絶の心配があったからだ
結局1854年に次男が病死
それから5年後実万も没し
実美が三条家の当主となる
■井伊直弼が桜田門外で暗殺されると、京都では再び尊皇攘夷論が沸騰。志士たちは実万の後継者である実美に期待し、その周辺に群がりはじめた。こうして23歳の実美は
志士勢力を背景に朝廷で大きな発言権を有するようになった
■実美は温厚で無類のお人好しで、主義主張を持たない意志薄弱なタイプだ。つまり時勢に流されて攘夷運動に巻き込まれていった
しかし【受動の人】たるところに、この男の存在価値があった
つづく、、