るるの日記

なんでも書きます

藤原氏【近衛前久】藤原氏の自分を認め尊重してくれる武将を求めての流浪

2021-10-08 09:57:52 | 日記
■天正10年6月2日
織田信長が本能寺で倒された
明智光秀が本能寺を攻めると同時に、信長の嫡男信忠のこもる二条城をも襲撃した。明智軍の鉄砲隊が
近衛前久邸から二条城を撃った、、
という噂が拡がった

豊臣秀吉は怒り
「お前は、明智光秀と同心か!」
前久を詰問した
前久は断固否定せず、またもや
秀吉を恐れて京を出奔してしまった
落ち着く先は浜松。徳川家康に助けを求めた

■前久は、彼の気の弱さというよりも、徳川家康は自分を認め尊重するかもしれない。。という血が騒いだのだ
だが、家康が秀吉にとりなし
天正11年9月また京へ戻った

■天正12年3月
小牧の戦。秀吉と家康が対峙
両者に義理ある前久はどちらにつくか、どうしたらよいかわからず
またまたまた出奔

なぜか沈黙して静止ができない性格らしい。その流動性こそ、近衛前久の特徴だった

■天正14年
前久の長女が入内
後陽成天皇の女御となる
後水尾天皇をはじめとして多くの皇子皇女をもうけたが、先祖藤原氏が朝廷でふるった外祖父としての政治権力は、当然、前久はふるえなかった。豊臣・徳川政権は朝廷と公暁を監視しつづけながらの、強力な政治体制の世となっていたからである

1612年5月8日
77歳でこの世を去る




藤原氏【近衛前久・信長ばかりか島津義久にまでバカにされ、下手に出ることを達観する】

2021-10-08 09:13:24 | 日記
■前久は信長に叱られて「殺されるかもしれない」と怯え京を出奔し、摂津、丹波を流浪していたが、やはり都恋しく、信長に殺されてもいいという覚悟で天正3年6月に京へ戻った

■信長は前久に仕事をさせた
信長は「貴種」をバカにしていたが、それを利用する方法を熟知していた。そして薩摩を降伏させる使者として前久を薩摩へ派遣した

前久は薩摩に下った
だが、島津義久もしたたか者である
「薩摩が信長殿の傘下に入らねばならない理由も負い目も少しもない。帰ってそのように報告せよ」
と、とりつくしまもなかった
ここでも藤原氏の睨みなど、糠に釘ほどに効かなかった。前久は肩を落として帰京せざるをえなかった

■信長は前久を叱らなかった
だが、「公暁だ、藤原だ、近衛だと威張ったとて、一体どれだけの力があるのだ。それをしっかり身に染みたか?」無言の冷笑で前久を迎えた

■前久は口惜しかった
「強い者には下から出よう」
前久はそう達観した

天正5年7月
関白近衛前久は、嫡子・信基の元服式を、二条城の織田信長の新御所で行い、加冠役(元服する人に冠をかぶせる役)も信長に頼んでいた
前例のない事であった
藤原北家の嫡流である近衛家の元服なら、代々、式場は宮中に決まっていたし、加冠役は藤原氏一族の有力者がつとめる習わしであったのだ

信長は一応辞退したが、重ねての依頼に満更でもない様子で引き受けたのである。その上祝儀もはずんだ

前久の狙いは、信長に殿上人筆頭の加冠役になる満足感を与えるとともに、祝儀の金だった



藤原氏【近衛前久・信長に叱られて出奔・なんで藤原氏の俺が、、無念千万】

2021-10-08 08:35:16 | 日記
■近衛前久は織田信長に申し入れた
「足利将軍を大切になさるのは結構だが、その前に天皇家、ならびに我ら殿上人(でんじょうびと)をもっと敬っていただきたい」

前久のこの申し入れに、信長はキレた。信長は前久に「やい近衛!おまえが皇室の守護などとは片腹痛いわ。おまえがこの京にいる限り、俺の皇室に対する尊敬の念など薄れるぞ!顔も見とうないわ!」
叱られて前久は京を出奔した

「このまま京にとどまっていれば、信長に殺される」そう怯え前久は、摂津へ出奔した

■前久は口惜しかった
殴り返せない、言い返せない無感
地に堕ちた貴種
世は下剋上
力のある下の者が恩や義理など糞くらえと、隙のある上を倒し下から競り上がってくる世情、、、
それが時代の流れ、、
理屈ではわかっていながら、やはり無念でならなかった




藤原氏【近衛前久・織田信長に貴種(高貴な家柄)を売ろうとしたが、貴種など信長には胸糞悪かった】

2021-10-08 08:10:57 | 日記
■近衛前久、、
1536年生まれ
藤原一門
なかなかの世渡り上手の曲者
戦国の世に生まれた前久は、歴代の藤原家の人々の中でもその特色を発揮した人物だった

■膨大な荘園から上がってくる年貢で、まったく金の苦労もなしに宮中と藤原一門の行事だけ関わっていればよかった先祖からの生活を、武力を備えた戦国大名に断たれた

戦国大名らは何様の荘園であろうと、領地であろうと知ったことかと、力で奪い己のものにしてしまう強者たちで、中でも織田信長は公暁にとってはかなり憎い男だ
憎いが、立ち向かえるだけの武力はない。対抗手段は頭脳の行使のみ

この「武力への対抗心」が
近衛前久の人生に対する野心であった。藤原家の生きざまとして有力武家の前に自己主張を見せた
自己主張の手段は有力武家に
「貴種(高貴な家柄)」を売り込む、、それしかない



織田信長、、信長は足利将軍義昭を奏じていた。見逃す手はない
信長に貴種を売りつけてやろうと目論んだが、しかし、信長は前久の自負ほどには貴種性を尊ばなかった

信長にとって、戴かねばならない貴種など必要とはしなかった。むしろ信長にとっては、金も力もないくせに氏姓だけを鼻にかけて、人をこきつかう公暁の狡賢さは蹴飛ばしたいほどの胸糞悪さだった