■天正10年6月2日
織田信長が本能寺で倒された
明智光秀が本能寺を攻めると同時に、信長の嫡男信忠のこもる二条城をも襲撃した。明智軍の鉄砲隊が
近衛前久邸から二条城を撃った、、
という噂が拡がった
豊臣秀吉は怒り
「お前は、明智光秀と同心か!」
前久を詰問した
前久は断固否定せず、またもや
秀吉を恐れて京を出奔してしまった
落ち着く先は浜松。徳川家康に助けを求めた
■前久は、彼の気の弱さというよりも、徳川家康は自分を認め尊重するかもしれない。。という血が騒いだのだ
だが、家康が秀吉にとりなし
天正11年9月また京へ戻った
■天正12年3月
小牧の戦。秀吉と家康が対峙
両者に義理ある前久はどちらにつくか、どうしたらよいかわからず
またまたまた出奔
なぜか沈黙して静止ができない性格らしい。その流動性こそ、近衛前久の特徴だった
■天正14年
前久の長女が入内
後陽成天皇の女御となる
後水尾天皇をはじめとして多くの皇子皇女をもうけたが、先祖藤原氏が朝廷でふるった外祖父としての政治権力は、当然、前久はふるえなかった。豊臣・徳川政権は朝廷と公暁を監視しつづけながらの、強力な政治体制の世となっていたからである
1612年5月8日
77歳でこの世を去る