■随の圧力
589年
中国で「隋」が400年ぶりに王朝を統一。律令制を整備し、周辺諸国への圧迫を強めた
朝鮮3国や日本では、随の圧力に対処するため、権力集中の必要に迫られた
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蘇我馬子は次々と蘇我氏出身の妃が産んだ皇子を即位させ、権力の集中をはかった
用明天皇
崇峻天皇
■592年崇峻天皇暗殺大事件
馬子は、馬子の権勢を嫌った崇峻天皇を暗殺する大事件を起こす
ひんしゅくをかう、このような事件を収拾するため(ごまかす?)、馬子や諸豪族は、欽明天皇と蘇我竪塩姫との間に生まれ、敏達天皇の后となっていた額田部王女を、初めて女性天皇として即位させた。推古天皇である
(事件の目を初女帝誕生にむけさせたな)
■593年推古天皇の甥
厩戸王(聖徳太子)が政権に参画
ここに、大王推古・厩戸王・大臣蘇我馬子3者共治による権力の集中がはかられ、日本も激動の東アジアの国際政治にのりだして行く
3者は王権の周囲に諸豪族を結集させ権力を集中し、朝鮮諸国に対する国際的優位性を確立しようとした
■随と交流するためには文明国とならなければならない
世界帝国である随と交際するため、文明国としての最低限の政治・儀礼制度を制定
★冠位十二階
★憲法十七条
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第一次遣隋使と、第二次遣隋使ての間に制定
■日本と中国は、5世紀に日本からの五人の王からの使いが途切れて以来交渉はなかった
日本は、随による中国統一という国際情勢をふまえ、随と新たな外交をして、対朝鮮(特に新羅)関係を打開したかった
■【随書】600年第一次遣隋使の記録では遣隋使は、随の文皇帝に非難され帰国した。とある
「倭国の政治・風俗に義理がない。と非難し、改めさせた」
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遣隋使派遣は、対朝鮮関係の打開のために随と外交しようとしたもの。だが、随はそんな義理がないと遣隋使を非難した
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日本は文明国としての最低限の政治・儀礼を制定
冠位十二階
十七条憲法
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607年
第二次遣隋使派遣
日本国書
「日出づる処の天子、書を日没する処の天子に致す、、」
とあるように、倭国の大王が天子を自称した。それに対し随の皇帝・煬帝は不快の念を示した
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このとき、倭国の大王は、中国の皇帝から冊封(中国との君臣関係)を受けなかった
倭国の大王は、中国から自立した君主であることを、随から認定され、そのことによって中国から冊封を受けている朝鮮諸国に対する優位性を示した