るるの日記

なんでも書きます

古墳に変わる権威の象徴【氏寺建立】

2022-01-18 16:13:44 | 日記
推古天皇時代の文化は
宮の所在地の飛鳥文化とよぶ
日本初の仏教文化である

594年「仏教興隆の詔」が出され
仏教が政治の基本に据えられた

聖徳太子は「三経義疏(さんきょうぎしょ)」という、法華経・維摩経・勝鬘経の3つの経典の注釈書を著した

大王家や諸豪族は、古墳に変わって競って氏寺を建立し、権威を示し、政治的結集の場とした

★飛鳥寺(法興寺)
蘇我馬子発願
588年建立開始

★四天王寺
聖徳太子発願
593年建立

★斑鳩寺(法隆寺)
聖徳太子発願
607年建立

★広隆寺
秦河勝発願
603年建立

★百済大寺
大王が造営した初めての寺院
639年(舒明天皇)
蘇我氏の飛鳥寺に対抗して、舒明天皇は巨大な、王権の寺院をつくった
奈良県桜井市の吉備池廃寺

■当時の支配者すべてが、仏教の教理をよく理解していたはずはない。一般的に仏教は、祖先の冥福を祈ったり、病気の回復を願うための呪術の1つとして認識されていた

そして仏教が人々を惹き付けたのは、教理よりも、壮大な寺院建築や金ピカに輝く仏像であった



ヤマト政権時代の文明開化「中国の臣下にはならない」

2022-01-18 15:41:57 | 日記
■随の圧力
589年
中国で「隋」が400年ぶりに王朝を統一。律令制を整備し、周辺諸国への圧迫を強めた

朝鮮3国や日本では、随の圧力に対処するため、権力集中の必要に迫られた
蘇我馬子は次々と蘇我氏出身の妃が産んだ皇子を即位させ、権力の集中をはかった
用明天皇
崇峻天皇

■592年崇峻天皇暗殺大事件
馬子は、馬子の権勢を嫌った崇峻天皇を暗殺する大事件を起こす

ひんしゅくをかう、このような事件を収拾するため(ごまかす?)、馬子や諸豪族は、欽明天皇と蘇我竪塩姫との間に生まれ、敏達天皇の后となっていた額田部王女を、初めて女性天皇として即位させた。推古天皇である
(事件の目を初女帝誕生にむけさせたな)

■593年推古天皇の甥
厩戸王(聖徳太子)が政権に参画
ここに、大王推古・厩戸王・大臣蘇我馬子3者共治による権力の集中がはかられ、日本も激動の東アジアの国際政治にのりだして行く

3者は王権の周囲に諸豪族を結集させ権力を集中し、朝鮮諸国に対する国際的優位性を確立しようとした

■随と交流するためには文明国とならなければならない

世界帝国である随と交際するため、文明国としての最低限の政治・儀礼制度を制定
★冠位十二階
★憲法十七条
第一次遣隋使と、第二次遣隋使ての間に制定

■日本と中国は、5世紀に日本からの五人の王からの使いが途切れて以来交渉はなかった

日本は、随による中国統一という国際情勢をふまえ、随と新たな外交をして、対朝鮮(特に新羅)関係を打開したかった

■【随書】600年第一次遣隋使の記録では遣隋使は、随の文皇帝に非難され帰国した。とある
「倭国の政治・風俗に義理がない。と非難し、改めさせた」
遣隋使派遣は、対朝鮮関係の打開のために随と外交しようとしたもの。だが、随はそんな義理がないと遣隋使を非難した
日本は文明国としての最低限の政治・儀礼を制定
冠位十二階
十七条憲法
607年
第二次遣隋使派遣
日本国書
「日出づる処の天子、書を日没する処の天子に致す、、
とあるように、倭国の大王が天子を自称した。それに対し随の皇帝・煬帝は不快の念を示した
このとき、倭国の大王は、中国の皇帝から冊封(中国との君臣関係)を受けなかった
倭国の大王は、中国から自立した君主であることを、随から認定され、そのことによって中国から冊封を受けている朝鮮諸国に対する優位性を示した






ヤマト政権内の派閥は、現代の皇室派閥「上皇派と天皇派」に通じるか?

2022-01-18 14:32:18 | 日記
■皇族の派閥の本質はその取り巻きの派閥でもある。現在の上皇派・天皇派も、その取り巻きがいがみ合っているのだろうか?

★ヤマト政権は、継体天皇死後
※安閑天皇、宣化天皇、大伴金村派
※欽明天皇、蘇我稲目派
に分裂し争い二朝並立していた

★539年
両派妥協のうえ欽明天皇王権に統一
【大伴金村は物部尾輿に、朝鮮半島政策の失敗を非難され540年失脚】

この頃、国家体制整備が大々的に行われた。諸政策を推進したのが
【蘇我稲目】

★一方、蘇我氏と物部氏との抗争は激しくなる
538年百済から伝わった仏教の受容の可否をめぐって、崇仏派の蘇我稲目と廃仏派の物部尾輿は争った
587年
それぞれの子の世代
蘇我馬子は物部守屋を滅ぼした

■蘇我稲目とは葛城氏
蘇我氏は、大和南西部に基盤を持ち、5世紀に大王の外戚となっていた葛城氏から分立した氏族

大和国高市郡曽我に進出
大和国高市郡飛鳥に進出
稲目の代で蘇我氏として分立し、全国各地に進出

渡来系氏族を配下に置くことによって、三つの蔵を管理し、王権の財産を管掌した

欽明王権を支持することによって、権力を拡大

葛城氏の地位を継承し、娘二人を欽明天皇の妃とし、用明天皇、崇峻天皇、推古天皇をはじめ多くの皇子、皇女の外戚になることによって、その権力を強固なものにした

大臣という地位に初めてついた人

内外の政治を統括した人

崇仏派

ヤマト政権を裏切り、朝鮮諸国と結んだ九州北部連合体

2022-01-18 13:50:37 | 日記
■ヤマト政権支配の動揺

★王統断絶危機
5世紀に入ると、ヤマト政権は現在の日本のように、王統断絶という危機を迎えた。もしくは断絶したか?

507年
【大伴金村】は越前から、応神天皇5世孫と称する男大迹王(おおどのおう)を迎えて即位させ【継体天皇】この危機を乗り切ろうとした、、
しかし、継体天皇は容易には大和に入れず

★筑紫国造・磐井が、ヤマト政権を裏切り朝鮮諸国と結ぶ

527年
ヤマト政権は朝鮮半島のカヤを復興するため、対新羅出兵をしようとした。だがそれに反対した筑紫国造・磐井が九州北部勢力を率いて反乱を起こす

磐井はなぜ反対したか、、?
それは磐井が、筑紫という地域性を生かし、新羅や朝鮮諸国と通じていたからと、九州北部は弥生時代以来独立性が高かったからだ
なので、ヤマト政権が動揺した時期に、九州北部連合による、独自の外交が復活していた

この反乱は、翌年ヤマト政権大将軍〈物部あらかひ〉により、磐井が伐られ鎮圧した。それ以降磐井の勢力圏に分布した石人・石馬文化は、九州古墳文化から姿を消した




ヤマト政権は、実働部隊【伴造(とものみやっこ)】の働きのおかげで成り立っていた

2022-01-18 13:04:06 | 日記
■5世紀中頃から後半にかけて
ヤマト政権の勢力範囲は
東国から九州にまで及んだ
〈証拠〉
※倭王・武(雄略天皇)が、宋の皇帝に奉った上表文から

※千葉県・稲荷台古墳出土の鉄剣
埼玉県・稲荷山古墳出土の鉄剣
熊本県・江田船山古墳出土の鉄刀
に刻まれた銘文「ワカタケル大王」は、倭王・武=雄略天皇である
よってヤマト政権支配圏を知ることができる

■ヤマト政権
大王を中心として、大和・河内やその周辺を基盤とする豪族連合体によって占められていた

■大王家
大和盆地の三輪山を地盤として勢力をのばし、5世紀には大王家の血縁による大王位継承を確立した

■支配体制
氏姓(しせい)制度

■氏
豪族の支配者層集団〈多くの家によって構成〉

※氏上(支配者層集団トップ地位)が中心となり、それに直系・傍系の血縁者や非血縁者の家などが所属

※氏上は、ヤマト政権の構成員となり、それぞれの氏の特有な職や地位を通じて、政治に参与した

※大王は、氏に【姓】をつけ統制

★氏の名
※本拠地の地名を冠したもの
葛城(かずらぎ)
平群(へぐり)
巨勢(こせ)
蘇我
以上4名は大臣に任じられた

※職掌に基づく→伴造(とものみやっこ)的豪族
大伴(おおとも)
物部
土師(はじ)
中臣
膳(かしわで)

■姓
地位や職掌に基づき、ヤマト政権から賜る

【臣(おみ)】
ヤマト政権を構成する有力豪族〈葛城・蘇我・吉備・出雲など〉

【連(むらじ)】
特定の職掌や地位で、ヤマト政権を支える有力豪族
〈大伴・物部・中臣など〉

【君(きみ)】
地方の有力豪族

【直(あたえ)】
国造に任じられた地方豪族

【造(みやっこ)】
伴造の首長

【首(おびと)】
伴造豪族、渡来系豪族、県主に選ばれた地方豪族

【史(ふひと)】
渡来系豪族

■豪族の経済基盤
私有地(田荘たどころ)
私有民(曲部かきべ)
を持ち、経済的・軍事的基盤とした

曲部は、豪族の名を付して「蘇我部」「大伴部」などと呼ばれた

奴(やっこ)と呼ばれる奴隷も所有し、労役に使用

■一番大事なのは伴造(とものみやっこ)だ!
なぜなら、ヤマト政権の政務や祭祀、さまざまな職務は【伴造(とものみやっこ)】という豪族や、その配下の【伴】という集団によって行われたからである

■高い技術、知識を持つ百済からの渡来人は【品部】とし、伴造の統率下で、さまざまな物資や専門的労働力を献上させた
韓鍛冶部(からかぬちべ)
錦織部(にしごりべ)
陶作部(すえつくりべ)
玉造部(たまつくりべ)
忌部(いんべ)
史部(ふひとべ)

■ヤマト政権の地方支配体制
★ヤマト政権直轄民設定
地方豪族領域内の農民の一部を
【名代・子代の部】とし、ヤマト政権直轄民とし王族や宮の名を付した

長谷部
春日部
額田部
刑部(さかきべ)

★大王家の直轄領設定
【屯倉(みやけ)】を各地に設定
経営は、ヤマト政権から監督者を派遣し、屯倉周辺の農民を【田部】として労働させ、耕作が行われた

★ヤマト政権に服属した地方豪族のうち、重要視された者たちは県(あがた)とされ、その首長が県主と称された
5世紀末~7世紀初
国造(くにみやっこ)制を設定
これまで地方を統治していた、優秀な豪族が任命された

国造は統治権を認められるかわりに、ヤマト政権に対して
※子を出仕させ
※地方特産品、馬、兵士を貢上し
※ヤマト政権の遠征に参加しなければならなかった