■貧富の差なく、平和な縄文時代
食料獲得技術に支えられ
縄文人の暮らしも安定し
定住生活ができるようになった
縄文人は、数単位の家族が集まって集落を作り助け合って生活した。4~6軒世帯からなる20~30人の共同生活だ
リーダーはいたが、身分の上下関係や貧富の差はなかった
結婚相手は別集落出身の人で、集落と集落は、結婚や交易を通じて結びついていった
★人々は、いつも自然の脅威と向き合っていたため、あらゆる自然物や自然現象の中に霊威を認めていた
呪術の力で病気や災難を取り除き、霊に祈りを捧げ、獲物の増加を祈る
呪術的遺物に、土偶・石棒がある
■1万年続いた縄文時代が終わりに近づいた紀元前5世紀初め頃、九州北部から水田稲作農耕は始まり
紀元前5世紀頃には西日本に、水稲耕作を基礎とする農耕文化が成立
弥生文化である
弥生文化とは、農耕社会を形成していた朝鮮半島南部から、稲や金属器をたずさえてやってきた渡来人が、縄文人とともに生み出した文化である
稲作農耕とともに、村を守る文化も朝鮮半島からもたされた
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※環濠集落(防衛機能を持つ集落)
※武器
★なぜ日本に渡来人がやって来たか?
中国大陸が戦国時代になり、戦乱の余波が朝鮮半島に及び、日本にまで人の移動をそくした結果である
■戦争は、日本では弥生時代から始まった。成熟した農耕社会になるとともに、本格的な戦争が活発になった
【戦争の原因】
農業の発展に伴って増加する人口を支えるために、農地拡大、水利権の確保、余剰生産物の収奪などが、戦争発展の原因
防備をめぐらせた強力な集落は、周辺の集落を統合し、政治的なまとまりを形成した小国が各地にできていった
小国には王がいて、王が地域統合のための戦争を指揮した
王たちは、中国や朝鮮半島の書物を手に入れるため、また大国である漢の後ろ楯を得ることで、倭における立場を高めようとして、中国に朝貢した
■日本の小国の分立状況は、中国の歴史書から、うかがうことができる
【漢書】
「楽浪海中に倭人あり。分かれて百余国となる。歳時をもって献見す」
(日本に関する最古の記述)
★楽浪→現在の平壌
紀元前108年、朝鮮半島北部には衛氏朝鮮が栄えていたが、漢の武帝が滅ぼし4郡を設置。その1つが楽浪。
楽浪郡を窓口として、倭が漢と交渉を持っていた
【後漢書】
「建武中元2(57年)、倭の奴国の王の使者が、後漢の都〈洛陽〉に赴き、光武帝から印綬を授かった」
「107年、別の倭の王が、生口160人を、安帝に献上した」
奴国→福岡平野にあった
〈証拠〉
志賀島からは、光武帝が奴国の王に授けた金印が見つかっている
金印には、「漢委奴国王」の文字が刻まれている。「漢の委(わ)の奴(な)の国王」と読む
つまみは、へび形
金印1辺の平均長さ2.347Cm。これは、後漢の一寸にあたり、中国雲南省の古墓から「てん王之印」と彫った蛇形のつまみのある金印が出土
よって本物である