るるの日記

なんでも書きます

弥生時代・農業が広まると人口が増え、領地拡大するため戦争が始まる【人は助け合いから、利己的な欲望が生まれる】

2022-01-14 18:03:20 | 日記
■貧富の差なく、平和な縄文時代

食料獲得技術に支えられ
縄文人の暮らしも安定し
定住生活ができるようになった

縄文人は、数単位の家族が集まって集落を作り助け合って生活した。4~6軒世帯からなる20~30人の共同生活だ
リーダーはいたが、身分の上下関係や貧富の差はなかった

結婚相手は別集落出身の人で、集落と集落は、結婚や交易を通じて結びついていった

★人々は、いつも自然の脅威と向き合っていたため、あらゆる自然物や自然現象の中に霊威を認めていた
呪術の力で病気や災難を取り除き、霊に祈りを捧げ、獲物の増加を祈る
呪術的遺物に、土偶・石棒がある

■1万年続いた縄文時代が終わりに近づいた紀元前5世紀初め頃、九州北部から水田稲作農耕は始まり
紀元前5世紀頃には西日本に、水稲耕作を基礎とする農耕文化が成立
弥生文化である

弥生文化とは、農耕社会を形成していた朝鮮半島南部から、稲や金属器をたずさえてやってきた渡来人が、縄文人とともに生み出した文化である

稲作農耕とともに、村を守る文化も朝鮮半島からもたされた
※環濠集落(防衛機能を持つ集落)
※武器

★なぜ日本に渡来人がやって来たか?

中国大陸が戦国時代になり、戦乱の余波が朝鮮半島に及び、日本にまで人の移動をそくした結果である

■戦争は、日本では弥生時代から始まった。成熟した農耕社会になるとともに、本格的な戦争が活発になった
【戦争の原因】
農業の発展に伴って増加する人口を支えるために、農地拡大、水利権の確保、余剰生産物の収奪などが、戦争発展の原因

防備をめぐらせた強力な集落は、周辺の集落を統合し、政治的なまとまりを形成した小国が各地にできていった
小国には王がいて、王が地域統合のための戦争を指揮した

王たちは、中国や朝鮮半島の書物を手に入れるため、また大国である漢の後ろ楯を得ることで、倭における立場を高めようとして、中国に朝貢した

■日本の小国の分立状況は、中国の歴史書から、うかがうことができる

【漢書】
「楽浪海中に倭人あり。分かれて百余国となる。歳時をもって献見す」
(日本に関する最古の記述)
★楽浪→現在の平壌
紀元前108年、朝鮮半島北部には衛氏朝鮮が栄えていたが、漢の武帝が滅ぼし4郡を設置。その1つが楽浪。
楽浪郡を窓口として、倭が漢と交渉を持っていた

【後漢書】
「建武中元2(57年)、倭の奴国の王の使者が、後漢の都〈洛陽〉に赴き、光武帝から印綬を授かった」

「107年、別の倭の王が、生口160人を、安帝に献上した」

奴国→福岡平野にあった
〈証拠〉
志賀島からは、光武帝が奴国の王に授けた金印が見つかっている
金印には、「漢委奴国王」の文字が刻まれている。「漢の委(わ)の奴(な)の国王」と読む
つまみは、へび形
金印1辺の平均長さ2.347Cm。これは、後漢の一寸にあたり、中国雲南省の古墓から「てん王之印」と彫った蛇形のつまみのある金印が出土
よって本物である





丸木舟で九州~沖縄間を点在する小島を往来したり、遠洋漁業へも出ていたた縄文人の航海技術。どうやって身につけたの?

2022-01-14 16:53:27 | 日記
縄文人の基本生業
■狩猟
弓矢、落とし穴(東京多摩丘陵一帯から約1万の落とし穴が発見されている)や罠を設置

■漁猟

※入江に恵まれ漁猟が発達

※現在でも漁業の一大中心地である三陸沖では、マダイ、カツオ、マグロなどの遠洋漁業が、縄文時代から発達していた

※航海の手段として【丸木舟】が各地で発見されている

◎鹿児島から沖縄にかけ、点々と点在する小島に、九州と同じ土器の遺跡が存在することから、高度な外洋航海の技術を身につけ、舟で往来していた

※海岸地域には【貝塚】が残され、当時の生活全般の情報の宝庫である(貝の石灰のおかげで、遺物が残った)
堆積した貝の層を分類し、層それぞれに含まれる貝や魚、渡り鳥の種類、それらが捨てられた季節を特定。
当時の人々の活動の季節的なサイクル、1年のうちに人々がどれくらい食べかすを廃棄したかを明らかにした
ゴミの意味は現在と同じではない。貝塚の中に死者を埋葬することもあり、人々は廃棄という行為を大切にしてきた

■植物食料採取


激変する自然環境への対応によって縄文文化は生まれ、美を追求する欲望が生れた

2022-01-14 16:18:47 | 日記
更新世(氷河時代)末
気候は温暖化し、海面は上昇し
日本は大陸と切り離され、日本列島となった🗾
気候の変化は、動物・植物に大きな変化を与えた。自然環境の変化に対応して人々の生活方法も大きく変わり、縄文文化が成立(今から1万2千年前に始まり、1万年に及んだ)
縄文時代の開始は
技術革新(いくつかの重要な道具の出現)に特徴づけられる
★土器
森林変化により、植物を食料とする比重が高まり、その調理の必要性から考案された(煮炊き、あくぬき)

表面に縄を転がしてつけた縄文と呼ばれる不眠症様を持つものが多い
北海道から琉球諸島まで広がり、時代と地域により、形態と文様の変化は著しい
※中期には文様はもっとも装飾的となり、立体的で複雑な文様がつけられた
※後期、晩期には、磨消縄文(縄文と無文の部分を帯状に組み合わせたもの)による洗練された文様が流行した

★弓矢
動きの素早い動物に対応するため使用された

★磨製石器

氷河時代の日本人の暮らし

2022-01-14 14:12:47 | 日記
■更新世(氷河時代)の日本には人が住んでいた
★証拠
1946年
関東ローム層(関東地方の黒土の下の、更新世末期に堆積した赤土〈火山灰〉の厚い層)から、打製石器が発見された【群馬県岩宿】
人類の文化は、使用された道具・材質によって
※石器時代
※青銅器時代
※鉄器時代
に区分

■石器時代
※旧石器時代【更新世に属する】
打ち欠いただけの打製石器を用いた

※新石器時代【縄文・弥生時代】
石器を磨いて仕上げる磨製石器を用いた

■氷河時代の暮らし
縄文時代に比べれば、土地に残された生活の痕跡は断然少ない。これは1ヶ所に定住する期間が短く、頻繁に移動を行っていたからだ

※小集団が、河川流域で食料を求めながら移動を繰り返した
小集団がいくつか集まり、部族的な集団が形成
石器材料が遠隔地にまで行き渡るような、交換・分配の仕組みが存在し、
石器材料の石を遠隔地から入手し、小集団に分配できた
★証拠
【黒曜石は、永の別れ和田峠、伊豆諸島の神津島など、限られた場所でしか産出しないが、それら黒曜石は旧石器時代を通じて関東地方、中部地方に広く分布】



氷河時代日本に象と人類(北方アジア人・南方アジア人)がやって来て縄文人となる→弥生人が渡来し縄文人と混血を重ねる=日本人

2022-01-14 12:32:08 | 日記
■1万年前境は
★更新世〈最も新しい時代〉
★完新世〈現世〉
に分けられる

■更新世は氷河時代
★大量の水が氷として陸上に固定され
海面低下した(現在に比べ100メートル余り下降)
★日本列島は樺太を通じてアジア大陸と陸続きとなり、南方からはナウマン象、北方からはマンモスがやって来た。人類もやって来た。

〈証拠〉
この時代の気候が非常に寒冷であったことは、遺跡に残された泥炭層から、亜寒帯や冷温帯の針葉樹(カラマツ・アカエゾマツ・チョウセンゴヨウなど)が発見されたことに示される

■完新世は後氷河時代
気候は急に温暖化
植物と動物は変化
それに対応し、人類の生活も大きく変化

■日本人の形成
日本人はアジア人で、2つに分かれる
★南方アジア人(古アジア人)
寒冷適応を起こさず、古い形態を保つ
★北方アジア人(新アジア人)
氷期の高緯度地方の、極端に寒冷な気候に適応して出現
体温を保持するため体の体積が大きくなり(胴長)、体温を逃さないように皮膚面積は小さい(短い手足)。顔面の凹凸は少なく、水分の多い目を凍らせないように暑い一重まぶた

【形質人類学から】
日本人の基層は南方アジア人
なぜなら、
縄文人は低身長
顔は幅広く、高さが低く、凹凸あり
これらの特徴は南方アジア人に属する

【遺伝学では】
縄文人はアジア北方と関係が深い
縄文人の骨から抽出した
ミトコンドリアDNAから
縄文人は、現代の日本本土の日本人、沖縄の住民、アイヌ、朝鮮半島住民、モンゴル人と近縁な関係があり、東南アジア人や南太平洋の人々とはあまり関係は無かった

寒冷適応をとげた北方アジア人の特徴が日本の人骨に現れてくるのは、弥生時代から古墳時代からで、この時期、朝鮮半島から相当数の人々が日本へ渡来し、稲作、新しい技術、分化をもたらした
北方アジア人は、弥生時代に九州北部や山口県西部に移住し、在地の縄文人と混血を重ねながら全国へ広がっていった

■現代日本人の遺伝子を分析すると
日本人は
★アイヌ、沖縄の人々
★それ以外の人々
の2つのグループに分けられる

日本列島の北と南の人々が
中間の本土の日本人をはさんで類似するということは、北と南の端で縄文人の特徴が保持されてきたからだ