るるの日記

なんでも書きます

古墳時代後期は、古墳の美を求めるようになる

2022-01-17 17:01:33 | 日記
■新しい埋葬儀礼
★横穴系へ
古墳時代後期になると、古墳内部の埋葬施設が変化する。竪穴系から、朝鮮半島の影響をうけた横穴系の埋葬施設が一般化する

★副葬品にも変化が生じる
従来の鏡、武器、武具、馬具に
新しく須恵器、土師器など土器が加わる

★人物・動物埴輪は、ますますさかんになった
人物・動物埴輪の意味は、その古墳に葬られた首長が、マツリゴト執行する様子を表現し、また亡き首長から新しい首長に、首長権を継承するための儀礼を表現したものだ

★古墳内部は、地域色が顕著となっていく

■大規模な古墳は、ヤマト政権の大王だけとなる

★近畿地方中央部以外では、大規模な古墳はあまり見られなくなる。これは日本各地の豪族が同盟して、連合政権をつくる形から、大王を中心とする近畿地方の勢力に、各地の豪族が服属する形へと、ヤマト政権の性格が変化したからである

★小型古墳は著しく増加した。これはそれまで古墳を造営することなど考えられなかった階層の人々も古墳を造るようになったからだ
各地の支配者である首長たちだけで構成されていた連合政権に、新たに有力農民層をも組み込み、支配体制を強化した

■装飾古墳
古墳の墓室の内部や、石棺に
絵画や彫刻などの装飾を施したもの
石棺に、直線と弧線を組み合わせた直弧文と呼ばれる呪術的な文様や、鏡など、魔除けの図文を彫刻

★石棺の内外面や、石室内部に立て巡らされた板石に、直弧文や鏡、武具の図文を彫刻し、赤、青、白などの色を加えた

★石室内部の壁面に彩色壁画を描いた華麗なる装飾古墳

★魔除けの図文以外に、舟や馬などの絵が加わる。舟や馬は死者の来世への乗り物

★福岡県王塚古墳では、5色の彩色で見事な壁画が描かれている

★方位をつかさどる神、四神(福岡県竹原古墳)、月を象徴するヒキガエル(福岡県珍敷塚古墳)
中国、高句麗の壁画古墳と共通する図文

■藤ノ木古墳
★奈良県斑鳩町
法隆寺西方

★6世紀後半の直径40数メートルの円墳


★横穴式石室内に、家形石棺
2人の成年男子が合葬

★豪華で多様な副装品
※工芸的に最高レベルの金銅製馬具
※豪華な倭風の太刀
※金銅製装身具(冠沓)
※鏡
※鉄製武器
※鉄製農工具
※土器


★大王家の皇子クラスの人物

★古代国家成立前の、最高支配者クラスが、東アジアで最高水準の工芸品を手に入れ、朝鮮風の装身具を身につけながらも、伝統的な倭風の太刀を持ち、鏡や農工具など、伝統的な風俗を保持していた
当時の日本の支配者クラスが積極的に外来文化を受け入れながらも、なお伝統的な価値観を大切にしていた
外来文化の受容に際し、受け入れる側の主体性が保たれていた



日本人が常に渡来人を受け入れ、新しい文化を受容する能力を持っていたからこそ今がある

2022-01-17 15:42:03 | 日記
■渡来人のおかげ
ヤマト政権は、新技術や文化を伝えてくれる渡来人を歓迎し受け入れ、技術者集団に組織し、各地に居住していただいた。おかげでそれらの技術や文化は広く日本各地に広がった

漢字の使用も始まり、名前や地名を書き表すことができるようになった
ヤマト政権の様々な記録の作成は、史部(ふひとべ)と呼ばれた渡来人があたった

古事記・日本書紀にも、渡来人の説話があり、いずれも応神天皇の時のこととして、記されているが
こうした渡来人の渡来が 5世紀前半に始まることは、須恵器の初めて現れた年代からも疑い無い
6世紀には儒教、医易、暦などの学術、仏教(北方仏教)が百済からもたらされた

■4世紀後半、アジア遊牧騎馬民族が、朝鮮半島を経由して、日本に侵入し、統一国家を樹立したと東洋考古学者の江上波夫先生は提起した

4世紀前半の古墳文化は
馬具など、まったく持たない農耕民族的である
なのに
4世紀後半の古墳文化は
多数の馬具や金銅製の装身具などを伴う、騎馬民族的・王貴族的なものに大きく変化するからだ
弥生時代以来の農民文化の上に
騎馬民族が日本に渡来して立てた王朝こそが、天皇を中心とするヤマト朝廷にほかならないとする

だが、

古墳時代の前半と、後半の変化は約100年の間に、次第次第に進展してきたもの、変化の背景に騎馬民族の渡来・征服などを想定するよりも、
4世紀後半以来の高句麗の南下に伴う朝鮮半島南部の戦乱に、日本も関わり、その結果の文化の大きな変化が生じたと考える方が現実的であろう

■多数の渡来人が日本に渡り、日本の社会や文化に大きな変化を及ぼした
その後日本が、中国を中心とする文明を短期的に受容し、7世紀後半には強力な中央集権的古代国家を打ち立てることができたのは、日本人が絶えず多くの渡来人を受け入れ、新しい先進的な文化を受容する能力を、常に保持していたからである


中国から朝鮮半島が独立し高句麗・百済・新羅・カヤが建国され、日本の鉄資源カヤを守るため日本は高句麗と戦う

2022-01-17 14:49:00 | 日記
■中国の支配力弱まり
諸民族は国家形成した
高句麗、百済、新羅、カヤ

★280年
晋が中国全土を統一

★4世紀初め
北方の民族が侵入し、晋は南へ移動
中国の北は、北方騎馬民族支配
南北分裂の南北朝時代へ
諸民族に対する支配力弱まり
諸民族は、中国の支配から離れ
国家形成へ
※高句麗
※百済
※新羅
※かや

■4世紀後半、日本は高句麗と戦う

高句麗は南進し新羅・百済・カヤを圧迫。日本はカヤから鉄資源を確保していたので、カヤを守るため高句麗と戦う

朝鮮半島における高句麗の騎馬軍団との戦いは、乗馬の風習のなかった日本人たちに、乗馬の技術を学ばせ、馬具が百済やカヤからもたらされ、技術者をよんで、馬具や馬の生産開始された
また、戦乱を逃れた多くの渡来人が、さまざまな技術や文化を日本に伝えた
5世紀
日本の古墳に、馬具が副葬されるようになる

■日本は、朝鮮半島をめぐる外交と軍事上の立場を有利にするため、中国の南朝に朝貢
【宋書・夷蛮伝倭国条】
「5世紀初めから、1世紀間
讃→応神か仁徳か履中天皇
珍→仁徳か反正天皇
済→允恭天皇
興→安康天皇
武→雄略天皇(確実)
5人の倭王が、宋に使者を遣わした」ことが記されている





古墳は封印されているから、発掘調査はしてはいけない、、のかもしれない

2022-01-17 14:03:56 | 日記
【古墳による封印】

3~7世紀後半

■古墳は2~3段の段築
各段には平坦面がある
各段の傾斜部には石が施されている
古墳周囲には壕をめぐらす

平坦面、古墳頂上、壕の外には円筒埴輪列。頂上には家形埴輪と
盾、矢筒、笠などの器材埴輪が
円筒埴輪とともに並べられた
古墳時代中期には人物埴輪、動物埴輪が加わる

■埴輪大別
円筒埴輪
壺形埴輪
朝顔形埴輪
様々な形の形象埴輪(家形・器材・人物・動物

家形埴輪は、古墳頂上に立てられ、死者の霊の依代である
器材埴輪は、家形埴輪をとりまくように並べられる
笠→そこが聖域であることを示し、武器→死者の霊を守る

■呪術的副葬品(首長は呪術者である)から、武具的副葬品へ(首長は武人である)
勾玉
管玉
銅鏡
腕輪形石製品
鉄製の武器や農工具

■大規模な古墳は奈良盆地と大阪平野に営まれた。他の地域とは隔絶した規模を持ち、各地の首長たちの連合主、ヤマト政権の盟主
大王の墓である

★奈良県天理市
柳本古墳群の中の渋谷向山古墳
景行天皇陵(310メートル)

★大阪府堺市
百舌鳥古墳群
大山陵古墳
仁徳天皇陵(486メートル)

古墳周りに2~3重の壕
外側に陪塚(従者の墓)
墓域80ヘクタール
築造には1日あたり2000人動員
延べ680万人の人員と、16年の歳月が必要だった

明治に、石棺を納めた竪穴式石室2ヵ所発見された。5世紀前半の古墳。被葬者は大王であることは間違いない。仁徳天皇陵と言われていますが、本当は誰かは不明






邪馬台国連合はヤマト政権。卑弥呼は天照大神。

2022-01-17 13:05:10 | 日記
■弥生時代は鉄器時代であるが、当時の製鉄遺跡は見つかっていない。なので、当時の日本が広域な政治連合を形成した原因は
【鉄資源入手ルート争いだ❗️】

■3世紀の日本は、朝鮮半島の「かや」の鉄を入手していた。日本に鉄や、先進的な書物を輸入するための中心的役割を果たしていたのは、当然、玄界灘沿岸地域の勢力だ
【証拠】
※弥生時代にもたらされた中国鏡の分布がこの地域に集中している
※弥生時代の鉄器出土品が多い

■九州から東の日本人たちが、鉄をスムーズに入手するために連合を結成し、玄界灘沿岸勢力と争い、玄界灘勢力から鉄の入手ルート支配権を奪った
この戦いの時期は、中国からもたらされた鏡の分布の中心が、九州北部から近畿に移動する2世紀末~3世紀始めだ

ゆえに、この政治連合は、魏志倭人伝に見られる邪馬台国連合なのである❗️

古墳の出現は、この戦いから数十年後で、古墳は広域な政治連合を永続・発展させるための象徴なのである❗️