■藤原氏は、鎌足や不比等が律令国家の建設に大きな役割を果たしたので、他の氏族より早くから律令制的な官僚貴族としての道を歩んでいた。国政最高機関である太政官に、多くの藤原氏公卿を送り込み、8世紀末には藤原式家が藤原百川・藤原種継らを出して有力となった
他の氏族などは、律令制以前からの氏としての職務に対する意識を強く持ち固執していた
■9世紀初め嵯峨天皇時代、藤原式家は平城太上天皇の変(藤原薬子の変)を起こし衰える
天皇の権力が強まり【天皇との個人的な結びつき】が、貴族の朝廷の位置を左右した
★個人的な天皇との結びつきの要素
※教養がある(菅原道真)
※政務能力がある(坂上田村麻呂)
※天皇の父方のミウチ(嵯峨源氏)
※天皇の母方のミウチ(桓武天皇の母の渡来系和氏)
■藤原氏・天皇外戚(天皇母方のミウチ)としての地位の確立→教養・政務能力あるタイプ・父方のミウチの衰え
1
藤原冬嗣は、有能な官吏として嵯峨天皇の信任を得た【政務能力】
2
娘・順子を正良親王(仁明天皇)の妃とした【天皇母方のミウチ】
3
嵯峨天皇が死去
【藤原冬嗣は、いくら教養があっても政務能力があっても、次、次とつづく天皇のミウチでなければ衰える、ということを先見していた】
4
嵯峨天皇死去直後
冬嗣の子・良房は、皇太子に立てられていた恒貞親王を廃し、仁明と順子(冬嗣娘・良房妹)の子である【道康親王を皇太子とした】
その過程で恒貞親王に使えていた橘はやなり、伴こわみねは処罰された
5
良房は、娘を道康親王の妃とする
道康親王が即位して文徳天皇
両者の子惟人親王を皇太子に
惟人親王9歳で清和天皇として即位
【ここで良房は天皇の外祖父として摂政の役割をはたすことになる】
同じ時期、優れた政務能力によって昇進を遂げていた大納言・伴善男を応天門放火事件の犯人として失脚させた
【これは、藤原氏による政務能力のある貴族の抑圧である】
6
摂政の地位は良房の養子・基経に受け継がれる
良房は関白となる(成人した天皇を助ける立場)
7
891年
基経死去
宇多天皇は、基経長男・時平とともに、学者の菅原道真を抜擢
道真は右大臣にまで昇った
道真が娘を、宇多天皇の皇子の妃としたことで道真は警戒され、時平の陰謀によって大宰府に左遷され、その地で死去
【これは藤原氏による教養のある貴族の抑圧である】
8
時平の弟・忠平が朱雀天皇の摂関をつとめる
9
醍醐天皇・村上天皇は、公平な人事が行われ、「古今和歌集」編纂など学芸が興隆
摂関が置かれなかった
しかし
政府の上層部を占めたのは
★天皇の母方のミウチとしての不動のものとした藤原北家
★天皇の父方のミウチである賜姓源氏
★文人や有能な官僚は、せいぜい参議どまり
10
969年
醍醐天皇の子・左大臣の源高明が藤原氏の陰謀によって大宰府に左遷される事件が起きた
【これは父方のミウチの抑圧である。こうして、ここに貴族社会のなかで藤原氏の地位は完全に確立され
以後、摂関・関白は、ほぼ常置される時代がつづく】