るるの日記

なんでも書きます

日本の対外的孤立主義は国境より外は穢れた地という外国観から生まれた

2022-01-20 16:42:05 | 日記
9世紀前半から、近世初期までつづく日本の国境に関する観念がしだいに生まてくる

9世紀後半に成立した「儀式書」には、大晦日に行われる【その年の穢れを除く陰陽道の行事の祭文】

四方の境
東方は陸奥
西方は遠値嘉
(おじか・長崎県五島列島)
南方は土佐
北方は佐渡

11世紀前半の「新猿楽記」
※「東は俘囚の地(陸奥)」から「西は貴賀(きかい)の島(九州南部の島)」までの地域で活躍する商人の姿が描かれている

9世紀半ば以降、日本が対外的孤立主義をとるようになり、また貴族社会で穢れの観念が発達すると、これら国境より外の地域を「穢れた地」とする外国観がみられるようになった

人事を握る摂政・関白には、莫大な口利き料が集まった

2022-01-20 16:03:03 | 日記
■天皇の代行補佐する摂関
9世紀から11世紀半ばころ
摂関政治が行われた
摂関政治とは、摂政・関白が天皇の権限の一部または大部分を自分のものとして国政を運営する体制
※天皇が幼少、病弱な場合は摂政が天皇の権限をほぼ代行
※天皇が成長すると関白になって職務を補佐した

■摂関の背景
夫婦は妻方の家の庇護を受け、生まれた子どもは妻の父が養育・後見するという貴族社会の慣習だったため、摂関となるためには天皇の外祖父であるという条件が重視されていた
天皇の祖父でない人物が摂関となっても権力を十分ふるうことはできない
逆に藤原道長が後一条天皇の摂政をわずか1年余りで辞しているのは、外戚としての地位が確立していれば、必ずしも摂関の地位にこだわらなくてもよかったことを示している

■摂関政治の運営
天皇及びこれを代行・補佐する摂関と、太政官が中心となって政治は運営された

※重要な政務
天皇・摂関が、太政官による合議を参考に決裁

※それ以外
太政官が処理

※位階の授与や官職の任命には、摂関は大きな権限を持っていた
公卿、皇后、東宮、太上天皇なども人事権があった

ということは

利権の大きい地位を希望する者からの貢献物などで莫大な富が集中し
皇族や摂関をはじめとする上流貴族には、富や権力は集中していった

■摂関を出す家柄を摂関家というが、その地位は藤原忠平の子孫に独占され、さらに道長以後はその子孫に限定された
摂関家で最高の地位についたも者が、藤原氏の氏長者となったが、その地位をめぐって摂関家は争った
最終的に道長が勝利
道長とその子頼道の約50年間、摂関家は全盛期を迎えた


藤原冬嗣の先見・貴族のトップになるためには、教養や政務能力を身につけるよりも「天皇の母方のミウチとなり、天皇の父方のミウチを排除する」

2022-01-20 15:16:03 | 日記
■藤原氏は、鎌足や不比等が律令国家の建設に大きな役割を果たしたので、他の氏族より早くから律令制的な官僚貴族としての道を歩んでいた。国政最高機関である太政官に、多くの藤原氏公卿を送り込み、8世紀末には藤原式家が藤原百川・藤原種継らを出して有力となった

他の氏族などは、律令制以前からの氏としての職務に対する意識を強く持ち固執していた

■9世紀初め嵯峨天皇時代、藤原式家は平城太上天皇の変(藤原薬子の変)を起こし衰える
天皇の権力が強まり【天皇との個人的な結びつき】が、貴族の朝廷の位置を左右した

★個人的な天皇との結びつきの要素
※教養がある(菅原道真)
※政務能力がある(坂上田村麻呂)
※天皇の父方のミウチ(嵯峨源氏)
※天皇の母方のミウチ(桓武天皇の母の渡来系和氏)

■藤原氏・天皇外戚(天皇母方のミウチ)としての地位の確立→教養・政務能力あるタイプ・父方のミウチの衰え

1
藤原冬嗣は、有能な官吏として嵯峨天皇の信任を得た【政務能力】

2
娘・順子を正良親王(仁明天皇)の妃とした【天皇母方のミウチ】

3
嵯峨天皇が死去
【藤原冬嗣は、いくら教養があっても政務能力があっても、次、次とつづく天皇のミウチでなければ衰える、ということを先見していた】

4
嵯峨天皇死去直後
冬嗣の子・良房は、皇太子に立てられていた恒貞親王を廃し、仁明と順子(冬嗣娘・良房妹)の子である【道康親王を皇太子とした】
その過程で恒貞親王に使えていた橘はやなり、伴こわみねは処罰された

5
良房は、娘を道康親王の妃とする
道康親王が即位して文徳天皇
両者の子惟人親王を皇太子に
惟人親王9歳で清和天皇として即位
【ここで良房は天皇の外祖父として摂政の役割をはたすことになる】

同じ時期、優れた政務能力によって昇進を遂げていた大納言・伴善男を応天門放火事件の犯人として失脚させた
【これは、藤原氏による政務能力のある貴族の抑圧である】

6
摂政の地位は良房の養子・基経に受け継がれる
良房は関白となる(成人した天皇を助ける立場)

7
891年
基経死去
宇多天皇は、基経長男・時平とともに、学者の菅原道真を抜擢

道真は右大臣にまで昇った
道真が娘を、宇多天皇の皇子の妃としたことで道真は警戒され、時平の陰謀によって大宰府に左遷され、その地で死去
【これは藤原氏による教養のある貴族の抑圧である】

8
時平の弟・忠平が朱雀天皇の摂関をつとめる

9
醍醐天皇・村上天皇は、公平な人事が行われ、「古今和歌集」編纂など学芸が興隆
摂関が置かれなかった

しかし
政府の上層部を占めたのは
★天皇の母方のミウチとしての不動のものとした藤原北家
★天皇の父方のミウチである賜姓源氏
★文人や有能な官僚は、せいぜい参議どまり

10
969年
醍醐天皇の子・左大臣の源高明が藤原氏の陰謀によって大宰府に左遷される事件が起きた

【これは父方のミウチの抑圧である。こうして、ここに貴族社会のなかで藤原氏の地位は完全に確立され
以後、摂関・関白は、ほぼ常置される時代がつづく】








密教芸術

2022-01-20 13:37:48 | 日記
■悪国家仏教から密教へ
奈良時代後半は、仏教が政治に深く介入し、過度な仏教中心政策がとられ弊害が起きた

桓武天皇は遷都に伴って大寺院を平安京に移転することを認めず、最澄や空海らによってもたらされた国家仏教とは異なる新しい仏教を支持したので、平安京に遷都してから9世紀までの仏教は、最澄や空海らによって密教がさかんになった

【最澄】762~822
近江で生まれ
比叡山で修学し小堂を営んだ

804年唐へ
法華経を中心とする天台の教えを受けて、多くの経典を持って帰国
平安京東北の比叡山に延暦寺を建て天台宗を開いた

それまでの東大寺戒壇の受戒に対し、新しく大乗戒壇の創設をめざしたが、南都の諸宗から激しい反対を受けた
最澄は「顕戒論」を著して反論し、各地で布教を行いながら、戒壇創設をはたらきかけた

生前は実現しなかったが、最澄死去直後に大乗戒壇は公認され、のちに延暦寺が日本仏教界の中心としての地位を築く元となった

最澄ののち、唐で新しい密教を学んできた弟子の円仁、円珍らによって本格的に密教を取り入れた
天台宗の密教は台密

やがて円仁と円珍は対立
円仁→延暦寺によって山門派と呼ばれた
円珍→園城寺(三井寺)によって寺門派と呼ばれた

【空海】774~835
讃岐生まれ
大学に入り官職をめざす
儒教・仏教・道教の三教における、仏教の優位を論じた「三教指帰」を著して仏教に身を投じた

804年
最澄と同時期に唐へ
長安で密教の奥義を極め2年後に帰国。紀伊の高野山に金剛峯寺を建て真言宗を開いた

真言は「大日如来の真実の言葉」で、その秘奥なことを指して密教と呼ばれる
釈迦の教えを経典から学び、修学して悟りを開こうとする顕教に対して、秘密の呪法の伝授・習得により悟りを開こうとするものである

密教の根本道場としては金剛峯寺のほか、嵯峨天皇から賜った平安京の教王護国寺(東寺)がある
真言宗の密教は東密

■やはり、密教も天皇・貴族の信仰となる

天台・真言両宗ともに密教として加持祈祷をよく行い、国家・社会の安泰を祈った。それに頼って幸福を追及しようとする現世利益の面から、天皇や貴族たちの帰依を多く集めることになった

■密教+山信仰=修験道

神仏習合はさらに広まった
密教は山岳の地に伽藍を営み山中を修行の場としていたから、在来の山岳信仰とも結びついて修験道の源流となった

修験道は山岳に登って修行することにより呪力を体得する実践的な信仰であり、吉野の大峰山や北陸の白山などの山々がその舞台となった。とくに熊野三山は摂関時代・院政期に多くの天皇・法皇・上皇・摂関家をはじめとする貴族たちの参詣を得るほどの信仰を集めた

■密教芸術
神秘的な密教芸術が新たに発展した

★建築
寺院が山間に建てられるようになり、それまでの形式にとらわれず、地形に応じて伽藍配置の密教寺院がつくられた。桧皮葺の屋根も用いられた(ひわだぶき・日本古来の屋根葺手法で桧の樹皮を使う)

★彫刻
※密教に応じて如意輪観音や不動明王などの仏像が多くつくられた
※木彫りの一木造
※ふくよかで神秘的な表現
※衣文に翻波式(衣のひだ)
※神仏習合を反映した神像彫刻

★絵画
※曼陀羅
大日如来の知徳と慈悲を示す金剛界と胎蔵界の仏教世界を整然とした構図で図化した

★書
能書家【のち三筆と称される】
嵯峨天皇・空海・橘はやなり



私は如意輪観音が大好きです