るるの日記

なんでも書きます

鎌倉幕府の経済基盤は、朝廷と貴族の経済体制の上に築かれた権力体

2022-01-22 17:06:03 | 日記
■政治は幕府と朝廷、経済は幕府と貴族の二元的支配体制だった

鎌倉時代、この時代は朝廷と荘園領主である貴族や大寺社の力がまだ強く残っていたので、政治・経済の面で幕府と朝廷、幕府と荘園領主という二元的な支配がされていた

朝廷は国司を任命し形式上は全国の行政を統括
貴族・大寺社は荘園領主として、土地からの収益の多くを握っていた

■御家人の主人も二元的

御家人の中には将軍の他に主人を持つ者がいた
★政治的に朝廷の有力者と結びつこうとする者
★経済的利益を求めて、自己の荘園の本家である皇族、貴族を主人と仰ぐ者
などである

■幕府経済は関東く
幕府経済では、将軍頼朝の関東領国は多いときで9カ国を越えた。関東領地は頼朝が本家として支配した荘園や国衙領である。将軍の直轄地であり、平家の没官領500箇所と源氏の本領から成り立っていた。将軍は巨大領主であり、膨大な所領が幕府の経済基盤を成していた
鎌倉幕府は、貴族の荘園・朝廷の公領の経済の上に築かれた権力体である
幕府は荘園制を否定できない未熟な政権でもあった。ゆえに幕府と朝廷は共存し得たのだ
幕府と朝廷は農民などにとっては支配者としての共通した面を持つが、幕府は全国支配の実権を握りたかった。そのため守護・地頭と国司・荘園領主との間で次第に争いが多発していった

武士にとって一所懸命の地を守ってくれる源頼朝への御恩を、戦時には命をかけて戦うという奉公で返す封建関係

2022-01-22 16:43:56 | 日記
源平の戦いが始まると、関東地方の武士たちは、源頼朝を「自らの権益を守ってくれる者」と認識し競って
従者になった

頼朝の勢力が拡大するにつれ、彼に服属する武士は全国に広がっていく。将軍と直接の、または非常に強固な主従関係を結んだ武士は【御家人】と呼ばれた
主人に従う従者→家人
将軍に従う従者→御家人

頼朝は御家人に対し、地頭に任命することによって、先祖伝来の所領を保障した。本領安堵という
武士にとって「一所懸命の地(1つの所に命を懸ける地)」と言われるほど大切だった本領所領を認めてもらうことは、何ものにもかえ難い【御恩】であった
御恩にはもう1つ、新恩給与があった。これは抜群の功績があったときに新たな領地を与えられることだ

御恩を受けた御家人は、従者として【奉公】を果たす義務があった。彼らは戦時には将軍のために命をかけて戦った。家の存続と繁栄を願い、自らを捨てて苛烈に戦ったのである

また、平時における奉公は番役だ。一定期間京都に滞在して朝廷の警護にあたる京都番役、鎌倉を警護する鎌倉番役である。御家人は従者を率いて遠方から京都、鎌倉へやって来た。費用はすべて自腹であった

このように、土地の給与を通じて主人と従者が結びつく関係を封建関係といい、封建関係によって支配が行われる政治・社会を封建制度とよぶ
これまでの貴族社会にはなかった。鎌倉幕府は封建制度に基づく日本の最初の政権である

源頼朝は源平争乱に参加する暇などなかった「新政権樹立準備中」

2022-01-22 16:07:32 | 日記
【源平争乱中、源頼朝は関東を動かず、新政権の樹立につとめた】

♦️なぜ根拠地を鎌倉にしたか
※南は海、三方は丘陵に囲まれた東海道の要衝の地だから

※源頼義が氏神の守り神、岩清水八幡宮を勧請して鶴岡八幡宮を建立した源氏ゆかりの地だから

♦️鎌倉の行政機関
■侍所→頼朝と主従関係を結んだ武士【御家人】の統制

三浦一族の和田義盛

■政所→一般の政務や財政事務

朝廷の下級官吏だった大江広元

■問注所→裁判をする

朝廷の下級官吏だった三善康信

♦️部下の所領保障(給与保障)

★常陸国の佐竹氏など
下野国の足利氏
上野国の新田氏など
を討伐、あるいは降伏させながら、関東の荘園や公領を支配し保障した

★1183年、義仲に苦しむ後白河法皇と交渉したとき、東海道・東山道諸国の支配権を承認させた

※1185年、後白河法皇が義経に頼朝追討を命じたとき、軍勢を京に送って強く抗議し追討令を撤回させたとともに
★諸国に守護・荘園や公領に地頭を任命する権利を得た
★田1段当たり5升の兵糧米を徴収する権利を得た
★諸国の在庁官人を支配する権利
を得た

♦️地方の行政機関
■守護
各国に1人ずつ
主に東国出身の有力御家人が任命された
〈職務〉
※治安維持のための警察権の行使
※戦時には御家人を統率して戦闘に参加
※地方行政は朝廷の国司代理の在庁官人が司っていたが、守護は在庁官人への命令権を行使した
在庁官人には武士が多く、彼らの中には幕府の御家人になる者もあった
東国では最も有力な在庁官人=国内で最も有力な武士という図式が定着していた。こうして国衙(国司のいるの役所)の支配を進めていった

■地頭
各国の荘園や公領に置かれ、御家人が任命された
〈職務〉
年貢を徴収して荘園領主や国衙に納入
土地の管理
治安維持

♦️朝廷との関係
■幕府に好意的な九条兼実
頼朝は九条兼実を後援し、兼実は摂政の地位についた
兼実は、後白河法皇の専制に対抗し、また幕府に好意的で鎌倉と京都の協調につとめた

■1190年、頼朝は上京をとげて右近衛大将となる
1192年、征夷大将軍に任じられた
ここに鎌倉幕府は名実ともにせいりつするに至る。(幕府とは将軍の居館)
(征夷大将軍職は江戸時代末まで長く武士の第一人者の指標となった)




源氏同志を争わせる後白河法皇

2022-01-22 14:29:31 | 日記
■源頼朝は挙兵し駿河国で戦ったあと、鎌倉へ戻り東国経営に集中する

源頼朝は源義朝の子で伊豆に流されていた。以仁王の令旨を叔父・源行家から伝えられ、1180年8月妻政子の父北条時政らと挙兵。代々源氏に仕えていた東国の武士が続々と馳せ参じ、10月、頼朝は源氏の根拠地であった鎌倉に入った

平清盛は孫の平維盛を大将にして頼朝追討の大軍を東国に派遣したが、平氏軍は駿河国の富士川で源氏の軍に大敗して京都に逃げ帰った(水鳥の飛び立つ音を、源氏の夜襲と間違えて敗走したといわれる)
頼朝は配下の武士たちの要望を入れて、これを追いかけることをせず、鎌倉に帰って東国の経営に専念した

■平清盛死去と大飢饉が同年に起き、平氏に打撃を与えた

東国平定に失敗した平氏は、以仁王に加担した大寺院を焼討ちし、近江・河内の源氏一族を討伐し、畿内の支配をかため諸国の動乱に対処しようとしたが、1181年2月清盛の死と、同年の大飢饉が平氏に深刻くな打撃を与えた

■源義仲挙兵→上京するが後白河法皇に嫌われる→頼朝軍に殺される

頼朝の従弟・源義仲は頼朝より1ヶ月後、信濃国で挙兵。徐々に近隣の武士をしたがえ、1181年6月北陸道に進出。北陸道諸国には反平氏の気運が高まっており、義仲の勢力は急激に大きくなった

1183年平氏は軍勢を北陸に派遣したが、義仲は加賀と越中の国境・倶利伽羅峠で迎え討ち、これを撃破した。義仲は敗走する平氏軍を追って加賀国篠原でも勝利し、そのまま京都に攻め上った
同年7月、平氏一門はついに京都から追い落とされた

都での義仲は政治的配慮に乏しく、後白河法皇の反感をかい、反平氏勢力の掌握に失敗

義仲が平氏を討つために中国地方に滞在する間に、後白河法皇は頼朝の上京を促した
頼朝は弟の源範頼、源義経を大将として東国の軍勢を派遣した。義仲は防戦したが1184年1月近江国粟津で戦死

■源氏の勝利
平氏は勢力を回復し、福原へ。後白河法皇は平氏追討の院宣を頼朝に与え、源氏軍はただちに平氏の拠点一の谷を攻撃
1184年2月源平の命運をかけた戦いは、義経の活躍によって源氏側が勝利した
のちに頼朝は各地に有力な武士を派遣し、平氏や義仲の残っている勢力を討ちはらわせた

■平氏一門滅亡
1185年2月、義経は讃岐国屋島の平氏を急襲、さらに壇之浦に追いつめた。義経との海戦に破れた平氏一門は3月、安徳天皇とともに海中に没した

■後白河法皇、頼朝を嫌う
後白河法皇は頼朝勢力増大を恐れ、軍事に優れた義経を重く用い、頼朝の対抗者にしようと試みた。頼朝は後白河法皇の動向を警戒し、凱旋する義経を鎌倉に入れず京都に追い返した

■後白河法皇頼は頼朝追討の命令を下すも武士は動かず。義経は殺され、頼朝は義経を殺した藤原氏を滅亡させる

後白河法皇は義経とその叔父・行家に九州・四国の武士の指揮権を与えた上で、頼朝追討の命令を下した。しかし武士たちは頼朝を重んじて後白河法皇の命令を聞かず、義経は孤立し奥州平泉の豪族・藤原秀衡のもとに落ち延びた。秀衡の死後その子泰衡は義経を殺害して頼朝との協調をはかったが、頼朝は自ら大軍を率いて奥州に進み、藤原氏一族を滅ぼした
1189年のことである
これによって、武家の棟梁としての頼朝の地位を脅かす者は誰もいなくなった

なぜ平清盛は怨まれることが解らなかったの?何かの病気?取り憑かれていた?

2022-01-22 13:12:35 | 日記
■平清盛の権力が高まってからの清盛の動き

★後白河上皇のため蓮華王院を造営
※本堂(三十三間堂)→千一体の千手觀音像安置
※宝蔵→古今東西の宝物を納めた
★異例の昇進で太政大臣となり、一族も高位高官にのぼる
★武士団の一部を、現地支配人である地頭に任命し、畿内や西国の武士を家人した
★平氏一門も盗賊の追討使に任じられたり、受領に任じられたりして東国にも勢力を伸ばした
★娘・徳子(建礼門院)を高倉天皇の中宮に入れ、その子・安徳天皇が即位すると外戚となって権威を誇った

★経済的基盤として数多くの知行国、500余りの荘園を所有

★六波羅に邸宅を構えた

★日宋貿易に力を入れ、利潤を得た
※摂津の大輪田の泊を修築し、瀬戸内海から九州の博多にいたる国々や良港を獲得をし、瀬戸内海航路の安全を確保し、宋商人の畿内への招来につとめ貿易を推進

■そして強い怨みをかわれた清盛
平氏の官職独占は、そこから排除された旧勢力から強い反感を受けるようになった

★清盛の妻の姉妹で、後白河上皇の妃となっていた建春門院が亡くなると、清盛は後白河上皇やその近臣との対立が深まる

★1177年、上皇の近臣・藤原成親、西光、俊寛らが京都郊外の鹿ヶ谷で平氏打倒のはかりごとをめぐらすが、失敗

★1179年後、白河上皇を中心に反平氏の動きが表面化したことから、清盛はついに後白河上皇を幽閉、多数の貴族の官職を奪い処罰
反対勢力がいなくなったため全国の半分近くの知行国を獲得するなど、国家機構のほとんどを手中に収めた
こうした権力独占で、かえって反対勢力が結集することとなる

■1180年、清盛が孫の安徳天皇を即位させると、後白河上皇の第二皇子以仁王と源頼政は、園城寺や興福寺を見方にして平氏打倒の兵をあげた

清盛はただちに攻撃を加えた
頼政は戦死、以仁王も討たれた
しかし、以仁王が討たれた後も決起を呼びかける以仁王の令旨は諸国に伝えられた

これに呼応した武士たちが次々と立ち上がった。彼らは自己の所領の支配権を強化、拡大しようとしておらり、その障害となる平氏政権を否定したのだ(初めから源氏、特に源頼朝に味方したわけではない)
内乱は全国に広がり、5年にわたって戦いが続けられた
源頼朝が、内乱に終息をもたらしたのは、彼こそが在地領主層の要望に最もよく応えたからである