るるの日記

なんでも書きます

虎の威を借る有力農民と国司

2022-01-21 17:11:01 | 日記
■地方政治乱れる
★天皇とそのミウチで政治が行われていた時代は、律令制が変質し始めていたので【延喜の荘園整理令】を出し、勢力ある貴族が百姓と結んで土地を私有化するといった、【法に背く荘園停止】を命じた。しかし「諸国の国務の妨げならないものは認める」という特例があり、かえって荘園の私有化が活発した

■政府の方針転換
★これまでは中央政府の監督のもと、地方に中央から派遣された国司が行政にあたり、【実際の税の徴収や文書作成は地方豪族である郡司が行っていた】
★国司に税の徴収を請け負わせ、一国内の統治をゆだねる、【国司請負方針】とした。地方政治の運営において国司の果たす役割は大きくなり、地方支配を直接担っていた郡司の役割は衰えていった
赴任した国司は受領(ずりょう)と呼ばれ、強欲な者が多く、任地で郡司や農民から暴政を訴えられる場合がしばしばあった
【信濃守・藤原のぶただ
京へ帰る際に谷底へ落ちたが、はい登る途中に生えていた平茸をとることを忘れなかった

■国司(受領)のなり方
徴税請負人の受領は、課税率をある程度自由に決めることができたため、私腹をこやし巨利を上げる受領が現れ、受領の地位は利権視され、なりたい者が多かった
私財を出して朝廷や寺社などを助け、その代償として国司などの官職を得た
地方支配に当たっていた受領は、やがて地方に赴任せずに、代わりに目代を派遣して国司としての収入を得ることが多くなった

■国司(受領)の巨利の上げ方
受領は有力農民に一定期間、田の耕作を請け負わせる
受領は課税率を、ある程度自由に決めることができるので、課税率をそれまでより低く設定し、農民には、かつての納税額に相当する税負担を課し巨利を上げた
有力農民のなかには受領と結んで勢力を拡大し、ますます大規模経営を行った
律令的支配の原則は崩れ、国司と結んだ有力農民の経営する土地を基礎に、国司が課税額を決め支配体制ができていった
11世紀後半に入ると受領は京に住み、摂関家などに仕えつつ、国司選任を繰り返しながら富を蓄えていった

■国司(受領)は荘園をも狙い巨利を上げる

荘園のはじまりは8世紀
貴族や大寺院が地方に所有する建物群と、その周囲の墾田とを合わせて私有地とした
荘園は、国家から租税の免除を認められていなかったこともあり経営が不安定だった。また国家に依存していた面もあったので衰退
地方の農民は中央の権力者に荘園を寄進した。その荘園領主の権威を背景に租税の免除を承認してもらう荘園が登場し、しだいに増加した
地方支配が国司にゆだねられ、国司によって租税の免除が認められる荘園も生まれた

■私腹を増やし巨利を上げた国司と、私腹をこやして巨利を上げた有力農民は、税の徴収をめぐって対立は深まった
有力農民は、「税免除の荘園の田に隣接した田も免除となる」と言って国司からの圧迫から逃れようとした
有力農民は、荘園を中央の権力者に寄進し、その権力者を領主と仰ぐ荘園とすることが広く行われた
国司を無視
盛んになった荘園の寄進によって、権力者はたくさんの税免除の荘園領主となる。荘園には領主の権威を利用して国司や役人が立ち入るのを認めなくした
荘園は国家から離れた。荘園領主はいるが、実質的には地方の有力農民の、土地や人民の私的支配が始まった
有力農民は一定の地域を支配したり、地方の行政機関に進出したり成長した
一方で国司から圧力を加えられないように、寄進した荘園領主から荘官に任じられ、所領の私的支配を一歩押し進めた

■荘園を寄進された領主は【領家】と呼ばれ、その荘園がさらに上級の大貴族や天皇家などに寄進された時、その上級領主は【本家】と呼ばれた。領家、本家のうち実質的支配権を持つ者は【本所】と呼ばれた
本所からは【預所】が任命され、現地を支配する荘官を指揮監督した


■国司は荘園を整理しようとして、荘園領主との対立を深めるようになったが、一方で任期終了近くになると、荘園拡大を認めて利権を得る国司もいた。国司は身分が低かったことから、国司退任後の保身のために荘園を国免荘として認めた
諸国でも国司の任の初めには荘園の整理が行われ、任の終わりには荘園の認可が下される現象が繰り返された







陰陽道に左右された日々

2022-01-21 14:39:19 | 日記
貴族の一般生活
■住居
寝殿造形式の邸宅】
※120メートル四方の敷地
※白木造り
※屋根は桧皮葺
※一部を除いて壁はなく、屏風などで仕切って使用
※中心に寝殿
※その北・東・西などに対屋を配しこれらを廊下で連結
※寝殿の前には池付きの庭園。東西の対屋から池に向かって廊下のびる

■衣服
正装→束帯
簡略化→衣冠
略装→直衣(のうし)・狩衣(かりぎぬ)

正装→女房装束(十二ひとえ)
略装→小桂(こうちぎ)

■食は1日2回だが、様々な宴席があった
★主食
強飯(こわいい)→米を蒸した
姫飯(ひめいい)→米を炊いた

★副食
仏教の影響で獣肉は避けた
魚・鳥肉・野菜

■神仏・陰陽道に彩られた生活
※先行きが見えた晩年は、出家する者が多い

※陰陽道に左右され、日や方角の吉凶に敏感になり、穢れを極端に避け、悪夢などの怪異があった場合「物忌(ものいみ)」と称して自宅にひきこもったり、外出は悪いとされた方角をさけ自宅からいったん別の場所に移る「方違(かたたがえ)」を行った
■貴族の守るべき朝の日課
朝起きたら、属星(その人の一生を支配する星)の名を7回唱える
鏡で自分の顔を見て健康状態を調べる
暦(日の吉凶を細かく記した暦)を見て日の吉凶を知る
楊枝で歯の掃除
西に向かって手を洗う
仏の名を唱え、日頃信仰している神社のことを念じる
昨日のことを暦の余白に記す
粥を食べ、頭髪をとき、手足の爪を切る(丑の日に手の爪、寅の日には足の爪を切る)

1000年前の感覚的浄土信仰「見る極楽浄土」

2022-01-21 12:21:34 | 日記
■現世利益を追及する仏教から、【浄土への往生を求めることで現世の苦しみから逃れる】ことを説く浄土教が流行するようになった

★浄土には弥勒浄土や薬師浄土などがある
9世紀には天台宗の円仁が
【念仏によって阿弥陀仏に帰依することにより、極楽浄土への往生を願う信仰】を中国からもたらしていた

★10世紀に入ると、既存の教団に属さない民間布教者【市聖(いちのひじり)】が現れた。市聖の空也は、京の市で、念仏の教えを熱心に説いて庶民や貴族の信仰を集めた

★天台宗出身の源信が「往生要集」を著し、地獄と極楽浄土の姿を克明に描き、【厭離穢土(おんりえど)、欣求浄土(ごんぐじょうど)〈穢れた現世を厭い、浄土への往生への願いを求める〉】を説き
浄土にいたるための念仏の方法を具体的に示した
のちの鎌倉仏教が示した称名念仏よりも、感覚的に浄土をイメージする念仏
浄土美術が発展

■11世紀では頻繁な災害や治安の悪化を背景に末法思想が流行し、死後の浄土への願望はますます強まっていった
阿弥陀仏に帰依して、極楽往生した人物の伝記「往生伝」もつくられた

■貴族の浄土信仰
貴族の考える浄土は、この世においてその美しさを味わおうとする美的欲求の強いもので「聞く念仏、見る極楽の教え」の教えであり、鎌倉時代の法然や親鸞らの浄土信仰とは大きく異なるが、優れた浄土教美術を生み出した

■平等院鳳凰堂
藤原道長の子・頼道が宇治の別荘に建てた
※本尊
仏師・定朝の作になる阿弥陀如来像
※鳳凰堂の扉や壁
極楽往生をとげる人物や、彼らを迎える阿弥陀仏の姿が描かれている(来迎図)

国文学・身分の高い女性のもとに才能豊かな女房が集まり、仮名文学は洗練された

2022-01-21 10:02:07 | 日記
■和歌は、漢詩文(漢字のみを使った詩文)が盛んだった9世紀前半にも、私的な宴会などではよまれていた
9世紀後半になると歌人が活躍
(小野小町など)

905年、「古今和歌集」成立
中心的編纂者・紀貫之
これ以後、和歌は宮廷行事のなかでも重要な位置を占め、歌合せなどが盛んに開催されるようになる
勅撰和歌集も相次いでつくられた

■物語では
竹取物語」かぐや姫の説話
「宇津保物語」貴族社会の様子
「落窪物語」継子物語→継母の虐待に耐えた子どもが幸せになり、継母が不幸になる
「伊勢物語」和歌にまつわる物語
「土佐日記」紀貫之が土佐守の任期を終え帰京するまでの日記
「枕草子」清少納言
「源氏物語」紫式部
「紫式部日記」藤原道綱の母

★紫式部日記の女性観
紫式部日記には、(中宮)彰子・(皇后)定子・斉院選子(内親王)らに仕えた女房(侍女)の容姿や性格や才能などを具体的にあげて批評した箇所がある

※和泉式部については
手紙のやりとりは巧みだが、歌というものが十分わかっていない

※清少納言については
漢文学の知識をひけらかして得意になっているのは鼻持ちならず、このような軽薄な人は将来ろくなことがない、、と痛烈
これは、紫式部と清少納言が、彰子と定子という対抗関係にあった妃に仕えた女房だったことが影響している
紫式部本人は、幼い頃から父の教えで学問を身につけてきたが、その知識をひけらかすことなく、目立たないように心がけている。としており当時の貴族女性の複雑微妙な関係が示されている
■10世紀以降になると、皇后など地位の高い女性のもとに才能豊かな女房(侍女)が集まり、文芸サロンを形成し、仮名文学は宮廷女性にとっていっそう洗練されることになった



中国の文字である漢字を日本語に表現する努力

2022-01-21 09:39:14 | 日記
中国の文字である漢字によって、日本語を表現しようとする努力は、漢字受容直後から始まった

★人名・地名など固有名詞を漢字の音を用いて表記
★漢字の音訓を用いて和歌などを書く万葉仮名
★万葉仮名で普通の書状を書く
★万葉仮名が崩され草書体に
★さらに簡素化され平仮名が成立
主に女性が書状や歌のやりとりに用いた
★片仮名は僧侶が漢文で書かれた経典などを訓読するために考案した
★11世紀には字形はほぼ一定に
★公的政治世界にいる男性貴族は、依然として漢字・漢文を正式なものとして用いた

このように、これらを用いて日本人の感覚を、より生き生きと表現することが可能となり、和歌を始めとする国文学が発達した