■地方政治乱れる
★天皇とそのミウチで政治が行われていた時代は、律令制が変質し始めていたので【延喜の荘園整理令】を出し、勢力ある貴族が百姓と結んで土地を私有化するといった、【法に背く荘園停止】を命じた。しかし「諸国の国務の妨げならないものは認める」という特例があり、かえって荘園の私有化が活発した
■政府の方針転換
★これまでは中央政府の監督のもと、地方に中央から派遣された国司が行政にあたり、【実際の税の徴収や文書作成は地方豪族である郡司が行っていた】
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★国司に税の徴収を請け負わせ、一国内の統治をゆだねる、【国司請負方針】とした。地方政治の運営において国司の果たす役割は大きくなり、地方支配を直接担っていた郡司の役割は衰えていった
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赴任した国司は受領(ずりょう)と呼ばれ、強欲な者が多く、任地で郡司や農民から暴政を訴えられる場合がしばしばあった
【信濃守・藤原のぶただ
京へ帰る際に谷底へ落ちたが、はい登る途中に生えていた平茸をとることを忘れなかった】
■国司(受領)のなり方
徴税請負人の受領は、課税率をある程度自由に決めることができたため、私腹をこやし巨利を上げる受領が現れ、受領の地位は利権視され、なりたい者が多かった
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私財を出して朝廷や寺社などを助け、その代償として国司などの官職を得た
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地方支配に当たっていた受領は、やがて地方に赴任せずに、代わりに目代を派遣して国司としての収入を得ることが多くなった
■国司(受領)の巨利の上げ方
受領は有力農民に一定期間、田の耕作を請け負わせる
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受領は課税率を、ある程度自由に決めることができるので、課税率をそれまでより低く設定し、農民には、かつての納税額に相当する税負担を課し巨利を上げた
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有力農民のなかには受領と結んで勢力を拡大し、ますます大規模経営を行った
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律令的支配の原則は崩れ、国司と結んだ有力農民の経営する土地を基礎に、国司が課税額を決め支配体制ができていった
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11世紀後半に入ると受領は京に住み、摂関家などに仕えつつ、国司選任を繰り返しながら富を蓄えていった
■国司(受領)は荘園をも狙い巨利を上げる
荘園のはじまりは8世紀
貴族や大寺院が地方に所有する建物群と、その周囲の墾田とを合わせて私有地とした
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荘園は、国家から租税の免除を認められていなかったこともあり経営が不安定だった。また国家に依存していた面もあったので衰退
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地方の農民は中央の権力者に荘園を寄進した。その荘園領主の権威を背景に租税の免除を承認してもらう荘園が登場し、しだいに増加した
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地方支配が国司にゆだねられ、国司によって租税の免除が認められる荘園も生まれた
■私腹を増やし巨利を上げた国司と、私腹をこやして巨利を上げた有力農民は、税の徴収をめぐって対立は深まった
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有力農民は、「税免除の荘園の田に隣接した田も免除となる」と言って国司からの圧迫から逃れようとした
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有力農民は、荘園を中央の権力者に寄進し、その権力者を領主と仰ぐ荘園とすることが広く行われた
国司を無視
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盛んになった荘園の寄進によって、権力者はたくさんの税免除の荘園領主となる。荘園には領主の権威を利用して国司や役人が立ち入るのを認めなくした
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荘園は国家から離れた。荘園領主はいるが、実質的には地方の有力農民の、土地や人民の私的支配が始まった
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有力農民は一定の地域を支配したり、地方の行政機関に進出したり成長した
一方で国司から圧力を加えられないように、寄進した荘園領主から荘官に任じられ、所領の私的支配を一歩押し進めた
■荘園を寄進された領主は【領家】と呼ばれ、その荘園がさらに上級の大貴族や天皇家などに寄進された時、その上級領主は【本家】と呼ばれた。領家、本家のうち実質的支配権を持つ者は【本所】と呼ばれた
本所からは【預所】が任命され、現地を支配する荘官を指揮監督した
■国司は荘園を整理しようとして、荘園領主との対立を深めるようになったが、一方で任期終了近くになると、荘園拡大を認めて利権を得る国司もいた。国司は身分が低かったことから、国司退任後の保身のために荘園を国免荘として認めた
諸国でも国司の任の初めには荘園の整理が行われ、任の終わりには荘園の認可が下される現象が繰り返された