♦️鎌倉文化の3つの特色
■文化の庶民化
鎌倉時代の文化は庶民化した
公家や僧侶が弱体化し、彼らによって独占されていた文化は武士や農民にも解放されたからだ
地方武士が京都や鎌倉へ番役のために往来し、商人・宗教者・芸能の人々が各地に訪れたことで、中央の文化を地方へ普及させた
★難解な教養を必要としない新仏教
★文字が読めない者にも親しみやすい、語りの文学としての軍記物語
★物語を図解した絵巻物
■武家文化が生まれた
この頃の公家は「旧例を守る。伝統に従う」という態度に終始していた。新しいこと=良くないことであり、文化もまさにその通りで、平安時代のような華々しい創作活動は影をひそめてしまった
古き良き時代を懐古し、古典の研究、朝廷の儀式、先例の研究ばかり行われた
一方、武家は実際性に富む文化を生むようになった。素朴・剛健を属性とする彼らは、力強く生き生きとした文化をもたらした
■宋や元など大陸文化がもたらされた
♦️鎌倉仏教
源平の争乱・あいつぐ天変地異は、精神的自我に目覚めつつあった武士や農民に重苦しい不安を抱かせた。彼らの心には「末法到来」の意識が植えつけられた
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末法思想に対し天台宗、真言宗の旧仏教は無力だった。仏教界の腐敗堕落ははなはだしく、大寺院は僧兵を蓄え、俗権力を争ってやまなかった。より根本的問題として旧仏教は鎮護国家や貴族たちの現世利益のために仏に祈るものであり、広く民衆の心を救済するという問題意識を持たなかった
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人々は腐敗堕落した大寺院を末法到来と見て、末法の世からの脱却を求め、新しい救いの教えを渇望した
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こうした切実な願いにこたえるために、【鎌倉六宗】といわれる新仏教が登場する
これらはみな旧仏教から生まれ、末法の世からの救済を目的としていた
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禅の二宗以外の四宗は、救われるために困難な修行は必要ない(易行)と説き、多くの経典の中から唯一つの教えを選び(選択制)それだけにすがる(専修)という特徴を持っていた
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精神の救いを平易に説くこの新仏教に、武士も庶民も競って帰依していった
♦️鎌倉時代の旧仏教
鎌倉時代の天台宗、真言宗による仏教界は、俗世とパラレル関係(平行)であった
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僧の頂点に立つのは皇族・摂関家の出身者で、彼らの周囲には上級貴族の子弟が、そのまた周囲には中級貴族の子弟が、高位の僧として奉仕していた
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彼らは不便な山中を嫌って、里に院家を設けた。生活は貴族とかわらず豪華なものだった。院家には多くの荘園が付随し豪華な生活の基盤となった
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こうした僧侶の宗教活動は、国家の安寧を祈ること、高貴な人々の息災を祈ること。民衆の生活には興味をもたなかった
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「仏の前での平等」などの概念は生まれておらず「人々をどうしたら救済できるか」と真剣に考えた鎌倉新仏教の教祖たちの試みは極めて高く評価される
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旧仏教宗派は「元軍は自らの祈祷の成果である」として、朝廷・幕府に莫大な恩賞を要求した。民衆に対しては宗教者というより、土地の領主であり、民衆から容赦なく税をとりたてた。新仏教に対しても激しい反発を示し弾圧を加えた
ただし一部の僧侶のなかからは、宗派の改革をめざす動きもうまれてきた
天台宗、真言宗は僧侶がトップに就任する際には、朝廷が認可を与えた。仏教の最高指導者の地位が朝廷によって保障されるのである
禅宗は、朝廷の関与はなく、幕府が僧の人事を管理した。幕府が禅宗を重んじたのは、朝廷に対抗して幕府の仏教を持とうとしたからである