るるの日記

なんでも書きます

北条氏「朝廷の人事には二度と干渉したくありません」と宣言→朱子学を学んだ後醍醐天皇が即位

2022-01-24 17:37:21 | 日記
■御家人の幕府への反感
北条氏本家による得宗専制政治は、御家人たちに疎外感を抱かせた
御家人は将軍と主従関係を結んだのであり、北条氏と結んだわけではないのだ、、、

■朝廷では、上皇による院政が行われていたが、皇位継承と上皇の認定には幕府が深く関与していた
北条氏(泰時)の後押しによって即位した【後嵯峨天皇】は★後深草天皇に譲位し院政をしいた。ついで後深草天皇の弟★亀山天皇を皇位につけた

〈四条天皇が死去したあと朝廷は、順徳天皇の皇子を皇位につけようとしたが、後鳥羽と順徳父子を忌避する幕府は強硬に反対。後嵯峨天皇を即位させた〉
後嵯峨上皇は院政の後継者は指名せず死去
皇統は分裂
★後深草上皇の流れをくむ
【持明院統】
★亀山上皇の流れをくむ
【大覚寺統】
両統は皇位継承と、天皇家領荘園の相続をめぐって争った

★荘園相続問題
持明院統は長講堂領180箇所
大覚寺統は八条院領220箇所
を獲得
互いにさらに多くの他の荘園の領有をめざした

★皇位継承問題
幕府は両統が交互に即位する
【両統迭立】をすすめ
1317年には皇位継承には両統が話し合って決定するように申し入れた
幕府はこのとき、「今後、皇位継承には干渉しない」と朝廷に宣言した
〈幕府は両統の調整役につとめたが、このとき朝廷をコントロールするために積極的に調整役をつとめたのか、本当はめんどくさい、朝廷とは関わりを持ちたくなかったのか、幕府の本当の意図は明らかではない〉
和談の後に大覚寺統の後醍醐天皇が即位
朱子学を学んだ後醍醐天皇は、政治に強い意欲を示し、天皇親政を開始した

鎌倉時代の文学・「世捨て人」から真逆の「愛国家」まで

2022-01-24 16:52:16 | 日記

■世捨て人
★西行
〈山家集(歌集)〉
武士の家に生まれたが、世の無常を感じて妻子を捨てて出家。平安時代末期の動乱の諸国を遍歴しつち歌を詠んだ

★鴨長明
〈方丈記〉
京都日野山に小さな庵を結んで隠居。動乱期に起こった事件を書き記しながら人生の無常を説いた

■天台座主
★慈円
〈愚管抄〉
衰退していく貴族の運命を観察し、貴族出身者として強い危機感を持って著した
これは神武天皇から順徳天皇までの歴史書で、慈円は歴史を貫く原理を探り、【道理】による歴史解釈を試みている
道理とは諸行無常を強調する末法思想に基づいている

■貴族文学「和歌」
★後鳥羽上皇は、藤原定家、藤原家隆に命じて〈新古今和歌集〉を選ばせた

★源実朝
歌集〈金槐和歌集〉
藤原定家に師事

■歴史書
★鎌倉幕府編纂
〈吾妻鏡〉
幕府の歴史を日記体で記している
北条氏の強い影響下に成立していて、北条氏権勢を正当化するための脚色もみられるが、現在の歴史研究には必要不可欠な史料

■随筆
★卜部(吉田)兼好
〈徒然草〉
兼好は下級官吏として朝廷に仕え、後に出家。鋭い観察眼をもって朝廷・幕府のありさまを見続けた成果の書

■軍記物語
〈平家物語〉
「諸行無常・盛者必衰」の理念のもと、平家一門の栄枯盛衰を描いた傑作である。初めから琵琶に合わせて語ることを予想してつくられていて、琵琶法師の語る平曲として語り伝えられ、文字の読めない民衆にも広く親しまれることになった

■学問
〈朱子学(宋学)〉
南宋のシュキによって大成された儒学の一派。思索を重んじ名分(身分に応じて守るべき本分)をただそうとする学派
国家意識に目覚め、国家とは何かを再考する人々にとり、朱子学はたいへん魅力的であった
後醍醐天皇の倒幕運動の基礎



末法到来は鎌倉旧仏教の僧侶に顕れている「僧侶を甘やかしすぎ!」

2022-01-24 16:01:11 | 日記
♦️鎌倉文化の3つの特色
■文化の庶民化
鎌倉時代の文化は庶民化した
公家や僧侶が弱体化し、彼らによって独占されていた文化は武士や農民にも解放されたからだ

地方武士が京都や鎌倉へ番役のために往来し、商人・宗教者・芸能の人々が各地に訪れたことで、中央の文化を地方へ普及させた

★難解な教養を必要としない新仏教
★文字が読めない者にも親しみやすい、語りの文学としての軍記物語
★物語を図解した絵巻物

■武家文化が生まれた
この頃の公家は「旧例を守る。伝統に従う」という態度に終始していた。新しいこと=良くないことであり、文化もまさにその通りで、平安時代のような華々しい創作活動は影をひそめてしまった
古き良き時代を懐古し、古典の研究、朝廷の儀式、先例の研究ばかり行われた

一方、武家は実際性に富む文化を生むようになった。素朴・剛健を属性とする彼らは、力強く生き生きとした文化をもたらした

■宋や元など大陸文化がもたらされた

♦️鎌倉仏教
源平の争乱・あいつぐ天変地異は、精神的自我に目覚めつつあった武士や農民に重苦しい不安を抱かせた。彼らの心には「末法到来」の意識が植えつけられた
末法思想に対し天台宗、真言宗の旧仏教は無力だった。仏教界の腐敗堕落ははなはだしく、大寺院は僧兵を蓄え、俗権力を争ってやまなかった。より根本的問題として旧仏教は鎮護国家や貴族たちの現世利益のために仏に祈るものであり、広く民衆の心を救済するという問題意識を持たなかった
人々は腐敗堕落した大寺院を末法到来と見て、末法の世からの脱却を求め、新しい救いの教えを渇望した
こうした切実な願いにこたえるために、【鎌倉六宗】といわれる新仏教が登場する
これらはみな旧仏教から生まれ、末法の世からの救済を目的としていた
禅の二宗以外の四宗は、救われるために困難な修行は必要ない(易行)と説き、多くの経典の中から唯一つの教えを選び(選択制)それだけにすがる(専修)という特徴を持っていた
精神の救いを平易に説くこの新仏教に、武士も庶民も競って帰依していった

♦️鎌倉時代の旧仏教
鎌倉時代の天台宗、真言宗による仏教界は、俗世とパラレル関係(平行)であった
僧の頂点に立つのは皇族・摂関家の出身者で、彼らの周囲には上級貴族の子弟が、そのまた周囲には中級貴族の子弟が、高位の僧として奉仕していた
彼らは不便な山中を嫌って、里に院家を設けた。生活は貴族とかわらず豪華なものだった。院家には多くの荘園が付随し豪華な生活の基盤となった
こうした僧侶の宗教活動は、国家の安寧を祈ること、高貴な人々の息災を祈ること。民衆の生活には興味をもたなかった
「仏の前での平等」などの概念は生まれておらず「人々をどうしたら救済できるか」と真剣に考えた鎌倉新仏教の教祖たちの試みは極めて高く評価される
旧仏教宗派は「元軍は自らの祈祷の成果である」として、朝廷・幕府に莫大な恩賞を要求した。民衆に対しては宗教者というより、土地の領主であり、民衆から容赦なく税をとりたてた。新仏教に対しても激しい反発を示し弾圧を加えた
ただし一部の僧侶のなかからは、宗派の改革をめざす動きもうまれてきた

天台宗、真言宗は僧侶がトップに就任する際には、朝廷が認可を与えた。仏教の最高指導者の地位が朝廷によって保障されるのである
禅宗は、朝廷の関与はなく、幕府が僧の人事を管理した。幕府が禅宗を重んじたのは、朝廷に対抗して幕府の仏教を持とうとしたからである


御家人は破綻するが、農民や商人は成長した鎌倉幕府社会

2022-01-24 14:43:01 | 日記
■鎌倉時代の生産基盤は農村

農村には、農業に従事する農民、武士、商人、手工業者、宗教者など様々な人間が、農村で日々の生活を営んでいた

■上層農民が、領主(貴族)の荘園の耕作を請け負った

農村には、貴族などが領主となる荘園という土地があり、その荘園の農業経営にあたったのは、【名主】と呼ばれる上層農民だ。彼らは荘園領主から「~名」と人名が付された土地の耕作を請け負っている。また荘官に任じられ農村の支配的地位を占める者もあった

名主は荘園内に屋敷を設け、屋敷内には下人など下層農民を居住させ(隷属させ)、屋敷近くの佃(年貢免除の土地)は下層農民によって直接経営し、残りの土地は請作にして、作人に耕作させた(作人・名主と下層農民の中間に位置する農民、人格的には自立した存在)

■鎌倉時代の農業は、めざましい発展があった

★二毛作→麦や荏胡麻(灯油の原料)を裏作した
★米の品質改良→早稲・晩稲・中稲
★肥料→草を土中に埋めて腐らせた刈敷、草木を焼いた草木灰
★耕作→牛馬
★農具→荘園の鍛冶職人が農具を安い値で供給
★灌漑用水→水車

■農業生産力は向上し、農民たちに経済的余力の蓄積をもたらし、農村に新しい秩序を生んだ
★作人→名田を買い独立→小作労働を放棄して名主の影響力から脱却
★下人→作人へ→隷属的境遇から解放
★地頭・荘園領主→これらを許容→農民の地位の上昇を保障することによって、より多く確実に生産物を徴収できるから

名主や作人は税を納めた
年貢→週刊誌された米の30~40%
公事→特産品
夫役→労働奉仕

■農村の変化は、地頭や領主への農民の激しい抵抗を生み出す

農民たちは団結し結合を果たし、一味同心し、領主に年貢の減免を請願したり、法をおかす代官の罷免を求めた。朝廷や幕府に出向き訴訟を起こす主体ともなった。山野に逃亡して耕作を拒否するストライキを実施した

■悪党
蒙古襲来の頃から、畿内・近国において新しい武士たちが武力を行使して年貢納入を拒絶したり、反領主的行動をとるようになった。こうした武士を悪党と呼んだ
彼らは通常の武士団にも負けない規模を有し、立派な具足に身をつつみ、ときには数千の人夫を率いて近隣の荘園に入り、物資を略奪し、さまざまな反幕府、反領主的活動を展開。やがて全国に広がっていき、農民の抵抗運動とともに荘園領主や幕府を悩ますようになった

■農民の手工業も発達
手工業は農民の副業
農民が手工業で作った品は、領主に特産品として納めたり、市で必要品と交換した

【桑、麻、苧(からむし)、楮(こうぞ)、漆(うるし)、茜(あかね)、藍、荏胡麻、茶】

などの作物を栽培し

【生糸、絹布、麻布、真綿、紙】

などを作った

★楮(こうぞ)
樹皮は和紙の原料となる

★苧(からむし)
茎の皮の繊維を糸にして、縮(ちぢみ)、晒(さらし)などの布を織る

★漆
樹皮からしぼった汁を器などの塗料とした

★茜
根から暗赤色の染料をとった

★藍
葉から藍色の染料をとった

★荏胡麻
種子から油をとり、灯油に用いた

★その他、むしろ、桶、杓子などを作った

■農民は農業生産力が向上し、手工業の原料作物の収穫が増加し、手工業の大量生産が可能になり、手工業品は商品として確立するにいたった
作り手である農民は、農業によらずとも、手工業品を生産して生計を立てることが可能となり、専門の手工業者として独立して賃仕事をする職人が増えてきた
商業活動も活発になって、交通の用地で月に3度くらいの定期市が開かれた
京都では小売店も作られた
同業組合である座は、朝廷や領主に税を納め、見返りとして商品生産や販売の独占権を得た

貨幣の流通がさかんになり、高利貸しの金融業者が現れた
金銭業者は問屋

〈遠隔地域間の代金決済方法〉
※商品売買の金銭を手形で代用する為替を使う
※為替の運用にあたったのは問(後の問屋)
※各地の港、大河川沿いの交通の要地に位置し、商品の中継ぎと委託販売、運送を業務としていた
荘園の物資を倉庫に納入、適当な時期に市に出し利益を上げた
利益が上がるから高利貸しに使用

★民間には頼母子、無尽と呼ばれる相互金銭システムができた



北条得宗家(本家)専制体制→平氏政権のやり方を繰り返してる

2022-01-24 12:43:23 | 日記
鎌倉幕府は2度にわたる蒙古襲来を退けた。幕府内部では北条氏の力がますます強くなり、北条本家【得宗】を中心とする専制体制が姿を現す

■〈北条本家(得宗)専制政治へ〉
合議は必ず私邸で、北条一門の秘密会議を開いて重要事項を決めるようになった。対モンゴル方策にしても時宗は、評定衆や有力御家人に相談することなく、一門や近臣の意見だけを聞いて独断的に決めていった
こうして北条家の本家〈得宗〉を中心とする専制体制が姿を現してくる
※要職には北条氏一門が多く就任
※諸国の守護職も有力御家人は任を解かれ、北条氏一門が任命された
※北条氏の家臣の地位も向上し、とくに得宗家の家臣は、御内人(御内人首座・平頼綱)と呼ばれた

★1284年11月北条時宗が33歳で死去
時宗の子・北条貞時は、ますます得宗家に権力を集中させ、時宗と時宗を支える一門による専制政治が確立した
1293年、貞時は北条本家の家臣首座・平頼綱をも誅殺し、政務を一手に握った。貞時は「将軍から御家人に土地の権利を与える【安堵を行う権利】を奪い、得宗専制を完成させた」

■御家人社会の深刻な破綻
蒙古襲来を退けたとはいえ、幕府は領土・金銭を得たわけではなく、御家人たちに恩賞を給与する余力はほとんどなく、命をかけて戦った多くの武士が何ら恩賞も与えられない結果となった
これは【奉公に対する恩賞という、封建社会の第一の原則は守られなかったということだ】
多大な負担を強いられながら報われなかった御家人は、経済的困窮にさいなまれながら、幕府への不信をつのらせていった
もともと鎌倉時代中期以降、御家人の生活は貧窮しつつあった
★戦いがなくなって所領の増加がないところに、分家への分割相続が代を重ね、所領は細分化されて収入は激減して
いた
兄弟共倒れを防ぐため、惣領が全所領を相続する単独相続がなされるようになったり(共倒れより惣領が生き残る方がまだまし)、大事な所領を質に入れたり、売却したりして生活の糧を得た

★また、在地の生産物に経済的基盤を置いてきた御家人たちは、急速に浸透していった貨幣経済に対処しきれなかった。大きな損失をこうむり貧窮する者が多く現れた

こうした情勢のもとに元軍の来襲があり、御家人たちは決定的な痛手をこうむったのである

■所領を失う御家人が増え、幕府は【徳政令】を発する〈御家人の所領に限定された法令〉
★所領の売却、質入れを禁止するとともに、
★地頭・御家人に売却した土地で、売却後20年未満の土地と、庶民に売却した土地すべてを無償で、売手である御家人に返却させた
しかし、御家人の没落の歯止めにはならなかった
1298年幕府は土地の売却、質入の禁止を撤回

■悪循環
困窮する御家人は日に日に不満をつのらせ、幕府はそれを押さえるためにさらに専制的・高圧的になっていく。そしてその事がますます御家人たちの反発を招き、幕府を動揺させる結果となった