るるの日記

なんでも書きます

蒙古襲来【日本が占領されなかったのは、やはり神風のおかげだとしか思えない】

2022-01-23 19:33:55 | 日記
♦️10世紀頃から中国大陸北方の
遊牧狩猟民族の活動が活発になった
新たな製鉄技術の獲得が主要因の1つだ

■モンゴル帝国とは
★モンゴル民族はオノン河、ケルン河2つの河の上流にいた遊牧狩猟民族で、その一部族長の子として生れたテムジンは、諸部族を統一し1206年にオノン河のほとりで帝位について【チンギス・ハーン】と称した
チンギス・ハーンの指揮のもと、モンゴル部族は急速に勢力を拡大
※中央アジア
※北西インド
※東ロシア
にまたがる広大なモンゴル帝国が出現した
★【オコダイ】がチンギス・ハーンを継ぐ
※カラコルムを都とした
※1234年
〈東方〉金を滅ぼし高麗に出兵
〈西方〉ポーランド・ドイツ連合軍を敗る
⭐️5代目【フビライ】はチンギス・ハーン孫
都を北京に遷す

1271年、国号を「元」とする
フビライは、中国大陸支配に強い意欲を示し、南宋の討滅を進め、カンボジアやビルマなどを支配下に置き、高麗をおさえ、ついに日本征服を計画する

■日本はモンゴルからの国書を3度黙殺した

★その3年前の1268年フビライは国書を日本に送り、朝貢を求めていた。幕府は返書を送らぬことに決し、西国の守護たちには「蒙古の凶心への用心」を指令した

★北条時宗は18歳で執権となり、元への対応を指揮することになった。1269年フビライは再び国書を届けた。朝廷は返書を送ることを提案するが、時宗は断固としてこれを拒絶

★1271年、元の使者が九州に到来し、貢を強く迫った。時宗はまたも元の国書を黙殺。筑前、備前の防御を厳重にした

■文永の役

1274年10月、元は元兵2万と高麗兵1万を、兵船900隻に乗せ、朝鮮南端から出発
対馬に上陸し、守護代の宗資国を敗死させ、壱岐・松浦を襲い、博多湾に侵入した

幕府は九州の御家人たちを動員して、これを迎え撃った。一騎討ち戦法を主とする日本軍は苦戦し、大宰府近くの水城まで退却。元軍は日没とともに船を引き返したが、その夜、暴風雨が起こり、多くの兵船が沈没。大損害をこうむった元軍は退却していった
【文永の役】

■時宗、モンゴルの使者5人を斬る

1275年、フビライは使者を長門へ送った。時宗は使者一行5人を鎌倉で斬り捨て、抗戦の意志を内外に示し、九州北部の要地を御家人に警備させる異国警固番役を設け、博多湾沿いには防塁を構築、長門・周防・安芸の御家人には長門警固番役を課し、山陽・山陰・南海3道諸国には異国防衛にあたる指令が出された
幕府の命令の及ばない貴族や寺社などの荘園に住む住人も守護の指揮下に配置され、貴族や寺社に納める年貢は兵粮米として徴収された

■弘安の役

1281年、南宋を滅ぼしたフビライは、2度目の日本遠征軍を送った

★東路軍兵4万
5月朝鮮の合浦を船出、対馬・壱岐を侵し、6月に博多湾に攻め込んだ。日本の武士たちは奮戦して敵の上陸を阻止。東路軍はいったん肥前の鷹島に退いて、江南軍の到着を待って

★江南軍兵10万
7月に日本近海に姿を現し、東路軍と合流し、総攻撃の態勢を整えた
まさにそのとき、大型の暴風雨が元の大船団を襲った。4000隻の大半が沈み、兵たちは溺死した
元軍は4分の3を失い、無事に帰ったのは3万人に足りなかった

日本軍は台風がおさまるのを待って鷹島を攻撃し、多くの捕虜を得た
この事件を【弘安の役】と呼ぶ

■モンゴル軍の士気は低かった

モンゴル軍の中には、モンゴルに降伏した高麗人、モンゴルに滅ぼされた南宋の人々が多く含まれていた。彼らの士気は当然高くなく、指揮官も人種が違うので内部抗争が絶えなかった。このことが戦闘に大きな影響を与えた

■神風は「神国日本」の根拠となっていた

来襲にともなう暴風雨は、古くから神風(しんぷう)とされ、「日本は神国」という根拠になっていた。神風は〈弘安の役〉のときは、大型の台風であったという認識でほぼ一致。問題なのは〈文永の役〉で、暴風雨はなかったとする説も提起されており、まだ決着を見ない


鎌倉武士「泣く子と【地頭】には勝てない」の意味

2022-01-23 17:35:18 | 日記
■鎌倉時代の武士の詳細

★まず所領拡大!
先祖伝来の地に土着し、所領拡大につとめた
※御家人→地頭となる
※非御家人→荘官となる
現地の管理者として所領を支配し、農作業を指導し、耕地開発を進めた

★地頭は、荘園・公領の領主や、所領近隣の武士との間で紛争を起こすことが多かった。幕府が裁判制度確立に努力したのも、こうした状況に対応するためだった
興味深いことは領主側が勝訴し、地頭側が敗訴している実例が多いことだ
幕府は決して御家人をえこひいきせず、両者を公平に扱い、判決を下している
当時の幕府は武士の利害だけを代弁するものでなく、より公的で高次な権力体になっていた
ただし、いかに幕府が地頭敗訴の裁定を下そうとも、現地に根をおろした地頭の行動を阻止することは不可能であった
※領主たちはやむを得ず、地頭に荘園の管理一切をまかせて、一定の年貢納入だけを請け負わせることがあった。地頭は一定の請料さえ領主に払えば、他の荘園の収益はすべて自己の収入とすることができた

※または、土地自体を折半し、地頭と領主が土地・住民を分けて完全な支配権を認めあう【下地中分】があった。
(下地とは土地そのもの)
(上地とは土地からの収益)

★住居
※農村支配に都合のよい高台や、交通の要塞に居館を構え、館の内部や周辺部には、年貢の課せられない地があり、武士の下人や所領内の農民が耕作していた

※館の門をくぐると、下人の住む小屋や馬小屋、中央に母屋がある。造りは寝殿造を簡素化した武家造。棟は1つ1つ離して建て、寝殿造のように廊下でつながない。正面に玄関、その左右に広い縁側。床は板敷きで、座る場所だけに畳を敷いた

★食
※食事は朝夕2回
※主食は玄米
ある史料によると「あわび、くらげ、梅干、塩、酢、ご飯」とある
この他に鳥、猪、鹿なども

★武芸の修練
武士は常に戦いに備えた日常だった
子どもの頃から「弓矢を射る」「馬に乗る」ことは厳しく教えられ、武芸の訓練を兼ねた遊びが行われた

★武士独自の道徳
武士の生活を送るうちに自然と生まれてきたもの(武士道という思想となるのは江戸時代以降)
〈基本理念〉
※主従関係の基礎【忠】
※一門の団結を維持する【孝】

「武士のならい」
「兵の道」
と呼ばれた

〈重んじた精神〉
武勇
礼節
廉恥
正直
倹約
寡欲


★武士は一族に所領を分け与える分割相続を原則にしていた

★分家は本家の統制のもとにおかれ、本家の命令に従った

★本家と分家の集団を【一門】【一家】
本家の長を【惣領】
惣領以外の子弟を【庶子】
と呼んだ

■惣領の役目
★戦時には一門を率いて戦う
(幕府は一括して惣領に一門の軍役を課し、惣領が庶子たちに割り当てた。惣領制を基礎として鎌倉幕府は武士の統制を行った)
★平時には先祖・氏神の祭祀
★一門の意見の代弁者

北条時頼【「民衆を愛せよ」民衆の生活向上のために、政敵は殺す】

2022-01-23 16:13:09 | 日記
幕府を勝利に導いた北条義時は承久の乱の3年後の1224年にこの世を去った。翌年には大江広元、北条政子があいついで死去

■北条泰時
新しく執権となったのは
六波羅探題となっていた
北条泰時である(義時の子)

〈北条泰時の政治〉
★連署
執権の補佐役(泰時は自己の勢力強化のため叔父・時房を起用)

★評定衆
政務や裁決のために議論する、政務に精通した15、6人の御家人

★御成敗式目
51ヶ条からなる武家の法律で、将軍個人の判断を排し、御成敗式目という明確な規範に則して政治・裁判を行うぞ!という幕府の意思表明
適用されるのは幕府の勢力範囲

それまで武士は自らが育んできた「慣習」や「道徳」を重んじて生活し、また紛争を処理する規範としてきた。この慣習や道徳を「道理」と呼んだ
道理は地域によって異なり、整合性をもたなかった
武士の土地支配が進展して、所領問題が全国各地で頻発するようになると、漠然とした道理だけでは紛争を解決することは困難に
幕府は明確な判断基準を定める必要に迫られた

■北条時頼
泰時の孫、時頼は執権政治を発展させるとともに、政務の実権を北条本家の得宗家に集中していった

★1246年、北条一族の名越家勢力を幕府から一掃(執権の座の奪う計画をたてていたから)

★評定衆数名も名越派として処罰

★1247年、北条氏とならぶ有力御家人・三浦泰村が滅ぼされ、三浦一族を自害に追い込む

★北条氏討伐の陰謀に加担したとし将軍・藤原頼嗣が廃され、新たな将軍として念願の後嵯峨上皇の皇子・宗尊親王を京都から迎えた
以後、幕府の終焉まで、将軍は代々親王によって受け継がれた
宮将軍である

★政敵を倒して政局を安定させた北条時頼。そのあとは民衆の生活向上をめざして統治に全力を傾けた
彼が目標として揚げたスローガンは【撫民】「民衆を愛せよ」であった
朝廷でも【徳政】「徳のある政治」を目標に、幕府と朝廷は手を携えて統治の実現に努力したのである


鎌倉幕府は承久の乱勝利で所領は拡大し、朝廷への影響力も大きくなったが、なぜか天皇廃止や天皇の地位には就かないんだよなー

2022-01-23 15:08:12 | 日記
■幕府に朝廷や貴族の土地を侵され、このまま黙ってはおけん後鳥羽上皇!

武士勢力は全国各地で伸びていった
貴族の経済的基盤である荘園が地頭により侵され、朝廷や貴族の反感は強まり「幕府を倒そう」という動きを生起させた
成人した後鳥羽上皇は強力な指導力を発揮する。専制を動向し、権力を集中していった。貴族の合議制は退けられ、政務は後鳥羽上皇と何人かの上皇の寵臣によって執り行われた。乳母の藤原兼子など上皇の近親者も政治に口を出した
【鎌倉時代初期は女性が政治に大きな力をもった
※鳥羽上皇の内親王・八条院
※後白河法皇の寵妃・丹後局
※源頼朝の妻・北条政子
※後鳥羽上皇の乳母・藤原兼子
慈円は「日本は女人入眼の国」と評し、幕府も朝廷も女性が政治を動かしている、というのである】

■後鳥羽上皇の経済基盤強化による軍事力作り

上皇は分散していた広大な天領を手中に収めて経済的基盤を強化し、これらを恩賞として、朝廷の軍事力を編成。畿内・畿内近国の武士や幕府の有力御家人までもが上皇に臣従し、北面武士や西面武士に任じられた

■後鳥羽上皇の友人源実朝

上皇は将軍・源実朝を推していた
破格の官位を与え、母と后の実家・坊門家の女性を実朝の妻とし、上皇側近の源仲章を学問の師として鎌倉に送った。(上皇は実朝を通じ鎌倉幕府に影響力を与えようとしたのである)
ところが実朝は暗殺され、源仲章も殺され、朝廷と北条氏代表とする幕府との関係は急速に不安定になっていった

■「幕府が勝つ」と見抜いた武士

1221年5月、ついに後鳥羽上皇は、北条義時追討の院宣を諸国の武士に発した。承久の乱の始りである
しかし、蓋を開けてみると武士の大多数は幕府のもとに続々と結集していった

北条義時は大江広元の意見に従って短期決戦策をとる。長男・泰時を大将とし東海・東山・北陸の3道から大軍を京都に進ませた
朝廷軍はこれを迎え討ち戦ったが、敗れ去った

■戦後処理
★後鳥羽上皇の嫡孫・仲恭天皇を退け、上皇の兄の子・後堀河天皇を即位させた
★後鳥羽上皇を隠岐島に、順徳上皇を佐渡島に、土御門上皇を土佐に流した
★計画の中心であった武士や貴族は斬罪
★上皇方の貴族、武士の所領はすべて幕府に没収され、関東御領に組み込まれた(3000箇所)
上皇の所領は畿内、西国に多く分布し、そのためこの地域にも新たに地頭が置かれ、幕府勢力は広く全国に及んだ

■幕府の朝廷への監視強化
幕府は争乱の再発を恐れ、厳しく朝廷を監視した
大将・北条泰時、副大将・時房兄弟は戦後処理を済ませた後も京都に残って六波羅の居館に住み、京都市中の警備にあたった。彼らは六波羅探題と呼ばれた。のち六波羅探題は要職となり、北条氏一門の有力者が任命され、尾張国以西の御家人を統括し、幕府と連絡を取りながら西国の行政・司法を握った

朝廷は独自の軍事行動がとれなくなり、武力が必要になったときは、幕府の援助が不可欠であった

乱の結果、朝廷と幕府の二元的な支配の様は変化し、幕府が優位に立った。幕府は高位継承や朝廷のあり方にも干渉するようになり、幕府と良好な関係を築いた上皇・貴族が朝廷内で重んじられた



鎌倉源氏将軍3代はみなさん「立派にできましたよ」、、

2022-01-23 13:29:48 | 日記
■源頼朝死後、次々と出る杭は討たれた

1199年正月、源頼朝は53歳で世を去った。前年末、相模川の橋供養(橋ができあがった時にする供養)にのぞんた帰りに落馬したことが原因とされる

嫡子・源頼家があとを受け継いだ
けれど御家人たちは、18歳の新しい鎌倉殿が巨大な権力を持つことを歓迎しなかった
若年の新将軍の専制をおさえるため、北条時政・大江広元・三善康信ら幕府のお偉いさんは、頼家から裁判の判決権を取り上げ、頼家の活動を制限し、御家人の代表である宿老13人の話し合いによる政治を開始した
13人の合議制である
合議の中心に位置したのは
頼家の母・北条政子の実家北条氏だ
1203年、頼家が重病に倒れる
北条時政は、政子とはかり、頼家の子・一幡(いちまん)と弟・千幡を後継者に立てた。将軍の権限を2分割させようとしたのである
一幡の外祖父・比企能員は反発し時政を討とうと計画したが、逆に北条氏に殺され、比企一族は一幡もろとも滅ぼされた
頼家は伊豆の修善寺におしこめられ、千幡が将軍となって【源実朝】を名乗った。12歳だった
北条時政と大江広元は政所別当になり、将軍の補佐を名目として政治の実権を握った
この時政の地位は執権とよばれ、以後代々北条氏に伝えられていく
1204年、時政は幽閉中の頼家を殺害
1205年、時政は実朝を退け、娘婿の平賀朝雅を将軍につけようとしたが、政子らの反対にあい、平賀朝雅は殺され、時政は引退させられた
時政のあとを【北条義時】が継いだ
義時は和田義盛とその一族を滅ぼした。なぜなら義盛のその勢力はあなどれなかったからだ
義盛の本家・三浦氏は義時につき、北条氏は勝利した
北条氏は執権の地位を不動のものとした

■政務も趣味も頑張った源実朝

実朝は次第に政務に励むようになる
従来、実朝は北条氏の操り人形であったと言われてきたが、そうではない。彼は積極的に政務にとりくんでいたのだ。しかし北条氏の強い影響下にはあった

政務に励み、一方で趣味にも励んだ
公家文化に親しみ、和歌や蹴鞠を愛好した。妻も貴族から迎えた
また、禅僧栄西や宋人らと交わった

1219年正月、実朝は頼家の遺児・公卿によって、鶴岡八幡宮で暗殺された。結局公卿も殺され源氏将軍の正統は3代27年で断絶した。公卿は誰かに操作されていたのだ。源氏将軍の断絶のために、、、

■北条義時は親王を将軍に立てたいと朝廷に願ったが、後鳥羽上皇はこれを許さなかった
頼朝の遠縁・摂関家の藤原頼経が将軍として鎌倉に迎えられた
これを摂家将軍または藤原将軍という。新将軍はまだ2歳だった