♦️10世紀頃から中国大陸北方の
遊牧狩猟民族の活動が活発になった
新たな製鉄技術の獲得が主要因の1つだ
■モンゴル帝国とは
★モンゴル民族はオノン河、ケルン河2つの河の上流にいた遊牧狩猟民族で、その一部族長の子として生れたテムジンは、諸部族を統一し1206年にオノン河のほとりで帝位について【チンギス・ハーン】と称した
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チンギス・ハーンの指揮のもと、モンゴル部族は急速に勢力を拡大
※中央アジア
※北西インド
※東ロシア
にまたがる広大なモンゴル帝国が出現した
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★【オコダイ】がチンギス・ハーンを継ぐ
※カラコルムを都とした
※1234年
〈東方〉金を滅ぼし高麗に出兵
〈西方〉ポーランド・ドイツ連合軍を敗る
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⭐️5代目【フビライ】はチンギス・ハーン孫
都を北京に遷す
1271年、国号を「元」とする
フビライは、中国大陸支配に強い意欲を示し、南宋の討滅を進め、カンボジアやビルマなどを支配下に置き、高麗をおさえ、ついに日本征服を計画する
■日本はモンゴルからの国書を3度黙殺した
★その3年前の1268年フビライは国書を日本に送り、朝貢を求めていた。幕府は返書を送らぬことに決し、西国の守護たちには「蒙古の凶心への用心」を指令した
★北条時宗は18歳で執権となり、元への対応を指揮することになった。1269年フビライは再び国書を届けた。朝廷は返書を送ることを提案するが、時宗は断固としてこれを拒絶
★1271年、元の使者が九州に到来し、貢を強く迫った。時宗はまたも元の国書を黙殺。筑前、備前の防御を厳重にした
■文永の役
1274年10月、元は元兵2万と高麗兵1万を、兵船900隻に乗せ、朝鮮南端から出発
対馬に上陸し、守護代の宗資国を敗死させ、壱岐・松浦を襲い、博多湾に侵入した
幕府は九州の御家人たちを動員して、これを迎え撃った。一騎討ち戦法を主とする日本軍は苦戦し、大宰府近くの水城まで退却。元軍は日没とともに船を引き返したが、その夜、暴風雨が起こり、多くの兵船が沈没。大損害をこうむった元軍は退却していった
【文永の役】
■時宗、モンゴルの使者5人を斬る
1275年、フビライは使者を長門へ送った。時宗は使者一行5人を鎌倉で斬り捨て、抗戦の意志を内外に示し、九州北部の要地を御家人に警備させる異国警固番役を設け、博多湾沿いには防塁を構築、長門・周防・安芸の御家人には長門警固番役を課し、山陽・山陰・南海3道諸国には異国防衛にあたる指令が出された
幕府の命令の及ばない貴族や寺社などの荘園に住む住人も守護の指揮下に配置され、貴族や寺社に納める年貢は兵粮米として徴収された
■弘安の役
1281年、南宋を滅ぼしたフビライは、2度目の日本遠征軍を送った
★東路軍兵4万
5月朝鮮の合浦を船出、対馬・壱岐を侵し、6月に博多湾に攻め込んだ。日本の武士たちは奮戦して敵の上陸を阻止。東路軍はいったん肥前の鷹島に退いて、江南軍の到着を待って
★江南軍兵10万
7月に日本近海に姿を現し、東路軍と合流し、総攻撃の態勢を整えた
まさにそのとき、大型の暴風雨が元の大船団を襲った。4000隻の大半が沈み、兵たちは溺死した
元軍は4分の3を失い、無事に帰ったのは3万人に足りなかった
日本軍は台風がおさまるのを待って鷹島を攻撃し、多くの捕虜を得た
この事件を【弘安の役】と呼ぶ
■モンゴル軍の士気は低かった
モンゴル軍の中には、モンゴルに降伏した高麗人、モンゴルに滅ぼされた南宋の人々が多く含まれていた。彼らの士気は当然高くなく、指揮官も人種が違うので内部抗争が絶えなかった。このことが戦闘に大きな影響を与えた
■神風は「神国日本」の根拠となっていた
来襲にともなう暴風雨は、古くから神風(しんぷう)とされ、「日本は神国」という根拠になっていた。神風は〈弘安の役〉のときは、大型の台風であったという認識でほぼ一致。問題なのは〈文永の役〉で、暴風雨はなかったとする説も提起されており、まだ決着を見ない