るるの日記

なんでも書きます

室町文化★南北朝文化★北山文化★東山文化→応仁の乱により京都は荒廃したので、人と文化は地方に移住した

2022-01-26 18:49:10 | 日記
室町時代は、公家を圧倒した武家が文化の担い手だ。幕府保護によって進出した禅宗の影響を受けた武家文化ができた
武家文化は、京都に幕府が置かれたので、伝統的な公家文化とも融合したし、足利義満は日明貿易を推進したので唐物が日本に流入した
今日の日本伝統文化の多くはこの時代に形を整えた
【能・狂言・茶の湯・生花など】

■南北朝文化
動乱が続く緊張感のなか歴史意識が高まり、歴史書や軍記物語がつくられた

〈歴史書〉
★増鏡
源平の争乱から150年間の歴史を公家の立場から記した

★神皇正統記
北畠親房
伊勢神道の理論を背景に、神代から後村上天皇即位までの歴史を記し、南朝の立場から高位継承の道理を説いた

★梅松論
持明院・大覚寺両統の分裂から足利氏の政権獲得までの過程を武家の立場から記した

〈軍記物語〉
★太平記
作者は複数の僧侶
南北朝の動乱の全体像を記した
※後醍醐天皇の討幕計画から鎌倉幕府の滅亡
※建武の新政から南北朝の対立
※管領細川頼之が、幼少の足利義満を補佐するために讃岐から上京するまでの50年
を描いた

〈和歌〉
★新葉和歌集
後醍醐天皇皇子・宗良親王
内乱の中、各地を転戦した南朝歌人の歌を集めて歌集を編んだ

〈流行〉
★連歌
和歌を上の句と、下の句に分け
連衆と呼ばれる人々が次々に前の句に句をつけていき、五十句・百句にまとめた共同作品

文学というよりは、即興の機知と意外性を楽しむ芸事だったが、二条良基が連歌の芸術性を追及し、和歌と対等の地位を築いた

★能楽
猿楽・田楽から発達

★喫茶
栄西が宋から伝えた
※茶寄合
※闘茶は茶の異同を飲み分ける賭事

★婆娑羅(バサラ)
※過度の贅沢や派手好み
※奇抜な衣装や道具を身にまとい人目を驚かす
※畿内の新興武士に流行
※婆娑羅大名「佐々木高氏」

〈仏教〉
★臨済宗の夢窓疎石
※足利尊氏のあつい帰依を受けた
※尊氏・直義兄弟に元寇の変以来の戦死者を弔うため、国ごとに安国寺・利生塔と呼ばれる一寺一塔を建立させた


■北山文化
室町時代の文化は、3代将軍義満の時代に花開いた
将軍にして初めて太政大臣にのぼり
公家と武家の頂点に立った義満にふさわしい武家文化と公家文化の融合した文化だ

〈建築様式〉
★金閣
※北山に壮麗な山荘をつくった
そこに建てられた金閣(北山殿の仏殿)の建築様式は、さまざまな文化を折衷したもの

※3層の楼閣建築
1層は寝殿造
2層は和様
3層は禅宗様

〈仏教(文化)〉
★臨済宗
足利義満も祖父と同じく臨済宗をあつく保護し、禅僧たちによって中国文化の影響の強い文化が生れた

★五山・十刹の制を確立
・南禅寺を五山の上とする

・京都五山→天竜寺・相国寺・建仁寺・東福寺・万寿寺

・鎌倉五山→建長寺・円覚寺・寿福寺・浄智寺・浄妙寺

・十刹→宮寺→全国各地

〈(仏教文化)水墨画〉
禅の精神的境地を具体化した多くの画僧が登場

★五百羅漢図
明兆

★瓢鮎図
叙拙

★寒山拾得図、水色らん光図
周分

〈(仏教文化)宋の研究・漢詩文〉
絶海中津
義堂周信

〈能〉
神事芸能から出発した猿楽や田楽は、歌舞・物まね・曲芸・演劇などさまざまなジャンルの芸能を含んでいたが、能はそのうちの演劇・歌舞を中心に発達し、猿楽能・田楽能が各地で演じられた。さまざまな種類の能面もつくられた
能楽師は寺社の保護を受けて座を結成し、能を演じる芸術集団が形成された
大和猿楽四座が代表的(観世座・宝生座・今春座・金剛座
観世座から出た観阿弥・世阿弥父子は、将軍良光・義持らの保護を受けて洗練された芸の美を追及し、芸術性の高い猿楽能を完成した

■東山文化
北山文化が生活文化にとりこまれた、新しい文化
禅の精神に基づく簡素さ
連歌の世界から発達した幽玄・侘の美意識を精神的基調としていた
唐物よりも和物に対する関心が高まってきた

〈建築様式〉
★銀閣
東山山荘の仏殿として建てられた
二層の楼閣建築
下層は書院造
上層は禅宗様式

★庭園
禅世界で統一
枯山水→岩石と砂利を組み合わせた人工的な自然をつくった
作庭に従事したのは、河原者と呼ばれる賎民身分の人々だった。東山山荘の庭をつくった善阿弥はその代表的人物

〈水墨画〉
雪舟
 ★四季山水図巻
★秋冬山水図
★天橋立図

〈大和絵〉
土佐光信(土佐派)
★清水寺縁起

狩野正信・元信父子(狩野派)
水墨画に大和絵の手法を取り入れた
★周茂叔愛連図(狩野正信)
★大仙院花鳥図(狩野元信)

〈彫刻〉
能面の制作

〈工芸〉
後藤祐乗
刀剣装飾に優れた作品

〈漆工芸〉
蒔絵

〈茶の湯〉
村田珠光
枯淡美を追及する連歌の精神を学び、侘茶を創出

〈生花〉
立花の名手
立阿弥や池坊専慶
仏前に供える花から、座敷の床の間を飾る立花様式が定まった

■文化の地方普及
応仁の乱により京都は荒廃したので、公家なとの文化人が地方の大名を頼り、続々と地方へ下った。各地の有力武士のもとに身を寄せながら蹴鞠や和歌などを教え、その授業料によって生計を立てていた。地方武士たちも中央文化に強い憧れを持っていたため積極的に彼らを迎え入れた






日本は明の属国として、日本から明に貢ぐ、明からは返礼を賜るという形式で貿易を行い、莫大な利益を得た

2022-01-26 15:47:00 | 日記
■元との私的貿易

日本と元の間には正式な国交はなかったが、私貿易は盛んだった
1342年から、足利尊氏は後醍醐天皇の冥福を祈るために天竜寺造営を目的として、数回の天竜船を元に派遣した

■貿易船が増加すると日本人海賊が猛威をふるった

この頃【倭寇】と呼ばれた日本人を中心とする海賊集団が猛威をふるっていた。倭寇の根拠地は対馬、壱岐、肥前松浦などで、規模は2~3隻から数百隻に及ぶものまで様々であった
倭寇は朝鮮半島、中国大陸沿岸を荒し回り、人々を捕虜にし、略奪を行った。主な侵略対象は朝鮮半島で、記録に明示されているものだけで400件の襲撃があった当事九州は戦乱の最中にあり取締りの成果はあがらなかった

■日本は明に属国とされたおかげで、莫大な利益を得た

1368年中国では明が建国された
明国は中華を中心とする国際秩序の構築をめざし、近隣諸国に明国との通行開始を呼びかけた
日本にも使者が来航。合わせて倭寇の禁止が求められた
国内戦乱を終息させた足利義満は、倭寇の鎮圧を九州探題に命じ、1401年、明と正式な国交を開いた

明は日本を属国とみなし、朝貢(外国人が朝廷に貢物を捧げる)の形式をとるように要求。義満は「日本国王臣源」と名のり、返礼の回賜を受けとる、という形式の朝貢貿易が始まった
明へ渡る船には、明から交付された勘合という証票の持参を義務づけられ1404年から1547年まで17回の勘合船が派遣された。明の船は日本に来航しなかった

勘合貿易は朝貢という形式をとったため、滞在費・運搬費などはすべて主人である明の負担であり、日本側の利益は莫大であった

■将軍から商人と結んだ守護大名に貿易の実権が移る。そして勘合貿易断絶

貿易には幕府、有力守護、寺社も参加した。応仁の乱後は貿易の実権は【堺商人と結んだ細川氏】
【博多商人と結んだ大内氏】
の手に移り、両者は激しく争った
寧波(にんぽー)で衝突し、大内氏側は細川氏の船を焼いて、結果大内氏に利をもたらし、貿易は大内氏が独占した
寧波の乱
1523年、大内氏の正式な勘合を持参した船と、細川氏のすでに無効になった勘合を持つ船が寧波に到着
細川方は明の役人に賄賂を送り、厚遇を得た。これに怒った大内側は細川方の使いや明の役人を殺し、細川船を焼き、海上を逃げ去った
明は大内氏に厳しい罰を加えなかった

1551年、大内氏が滅亡
勘合貿易も断絶した




室町時代の商工業の種類は衣食住のみ

2022-01-26 14:41:52 | 日記
■地方特の手工業特産品

★酒
京都(柳酒)
河内(天野酒)
大和(菩提山)
摂津

★刀剣
備前の長船
美濃の関

★絹織物
加賀
丹後

★美濃紙
美濃

★杉原紙
播磨

★鳥子紙
越前

★陶器
美濃
尾張

★鍬
出雲

★釜
能登
筑前

★鍋
河内

★西陣織
京都
古代以来の伝統的な技術と中国から伝来した新たな技術が融合して高級絹織物が生産され、西陣織の基礎が築かれた

西陣とは現在の堀川以西
一条通り以北の地域で応仁の乱の際、ここに西軍の陣が置かれた

京都機織業は律令時代の織部司から始まる。中世に入ると織部司に変わって御陵織手などいくつかの織手集団が新たに出現
その中から成長を遂げたのが、西陣の地を拠点に活動した大舎人座(おおとねりざ)
この人が西陣機織業の基礎を築いた

■製塩業
★揚浜法
塩田に人力で海水をくみあげて、自然乾燥によって濃い海水をつくり、これを煮詰めて塩を取り出す

★入浜塩田
砂浜を堤で囲み、潮の満干を利用して海水を導入する

■林業
★2人引きの大きなノコギリが普及し、製材技術は飛躍的に向上

★木材産地
丹波
伊賀
南大和
土佐
安芸
木曽(檜は高級材)

■販売業
★定期市
応仁の乱後は月に6回開いた
市場には商品を売る販売座席があり、販売座席を持つ商人は、市場の領主に市場税を納め販売を行った

★見世棚
常設の小売店

★行商人
女性の活躍が目立った
炭や薪売り
鵜飼の鮎売り
魚売り
扇売り
布売り
豆腐売り

■権力者と結びついた商人
※供御人→朝廷と結びついた商人
※神人→大寺社と結びついた商人
朝廷や寺社に製品や営業税を納めることによって、関所銭の免除や市場での独占的な販売が認められた

★鋳物師
蔵人所供御人
廻船などによって全国に商圏を広げた

★油神人
石清水八幡宮を本所とすることで、10ヶ国以上で油の販売と、その原料である荏胡麻購入の独占権を与えられていた

★麹売神人
北野神社

★綿神人
祇園社






強い連帯意識で結ばれた村社会は「しがらみ」が大事

2022-01-26 13:40:16 | 日記
■村社会

鎌倉時代後期、屋敷が耕地から分離して集合し、次第に集落が形づくるようになった
集落を基礎に住民は、地縁的な結びつきを強め、荘園や郷(公領)の内部に自然発生的に村が形成され始めた
農民たちが自らの手でつくりだしたこのような自律的・自治的な村を惣(惣村)という
次第により大きな強い結合体を結成し、共同行動をとるようになった

荘園が複雑に入り組んだ地方では、領国を異にする複数の惣村が、荘園の枠を越えて連合し組織を結成した

強い連帯意識で結ばれた惣村の住民は、不法をはたらく代官などの免職、水害や日照りによる年貢の減免などを求めてしばしば一揆を結んだ

要求が認められないときには、荘園領主のもとに大挙しておしかける強訴や、全員が耕作放棄して逃げる逃散などの実力行使に出ることもあった

■村の構成員
★古くからの有力農民・名主層
★小農民
★惣百姓
村の正規構成員と認められた村民
神社の祭祀組織の宮座中心に参加し
村民の結合を高めた


■村の運営
★寄合という会議の決定にしたがって
※おとな
一定の通過儀礼を経た年長者

※沙汰人
荘園の下級荘官

※番頭
荘園の下級荘官

などの指導者によって運営された

※若衆→若年者
自衛・警察など村の戦力

★年貢は村が一まとめにして請け負った
個々の村民への年貢の割当ては村が主体となって行った

★村は農業生産に必要な山や野原などの共同利用地を確保し、灌漑用水の管理も行った

★村は掟を定めたり、秩序を維持するため、村民自身が警察権を行使した。特に「盗み」に対する村の制裁は厳しく、死刑まで含む重い刑罰を課していた
掟の違反者には罰金や追放などさまざまなランクの罰則が設けられていた

■村民から侍身分へ
村民の有力者のなかには、守護大名などと主従関係を結んで侍身分を獲得し(地侍)、それを根拠に課税拒否する者も増え、荘園領主や地頭の支配は次第に困難になっていった

地侍の中には村から離脱して本格的な武士の道を歩む者もいたが、村にとどまって村民を指導しつづけた者は、近世の庄屋へとつながっていった

■農民勢力による一揆
一揆とは揆(みち)を1つにするという意味をもち、心を同じくする人々が対等の関係で参加する組織のこと

一揆で最も重視されたのは
「連帯と平等の精神」である
この精神を人々は「一味同心」と呼んだ

一揆をとり結ぶ際には
参加者全員が神社に集まって
一味同心を誓う起請文に連署
その起請文を焼いて灰にし
神前に供えた神水に混ぜて
回し飲みする一味神水という儀式を行う

★1428年・正長の徳政一揆
京都近郊の村民は、年貢の立替えなどを通し高利貸しから金を借りていたため、一揆で徳政(債権・債務破棄の政策)を要求し、高利貸しを襲った。実力による債務破棄、売却地の取り戻しなどの徳政実施行動(私徳政)が展開された

★1429年・播磨の土一揆
守護赤松氏の家臣の国外追放要求

★1441年・嘉吉の徳政一揆
数万の一揆が京都を占領
「代始めの徳政」を要求
天皇や将軍など支配者交代のとき、所有関係や貸借関係など、社会のさまざまな関係が精算され、他人の手にわたったものも元の持ち主に戻ってくるという思想が存在した
支配者の交代にかかわりなく、徳政のスローガンを掲げて、各地に蜂起するようになった
幕府は徳政を濫発するようになった

守護大名による応仁の乱〈将軍の家督相続争い〉の間に、守護領国では守護代・国人が力をつけてきた〈下剋上〉

2022-01-26 11:48:07 | 日記
■8代将軍・足利義政は、弟義視を後継者と定めた
翌年、義政の妻日野富子が義尚を生んだ
義視と義尚の家督相続争いが起きる

■そこへ幕府実権争い中の
細川勝元と山名持豊がそれぞれ
義視・義尚を支援。守護も次々に争いに介入

■守護大名は両軍に分かれる
★細川方〈東軍〉
畠山政長、斯波義敏、赤松政則
24ヶ国16万人

★山名方〈西軍〉
畠山義就、斯波義廉
20ヶ国11万人

■〈戦況〉
東軍は将軍邸を占拠して、義政・義尚・義視の身柄を確保した
大内政弘が周防・長門・豊前・筑前4ヶ国の大軍を率いて西軍に合流
戦況は一変
東軍は将軍邸の一角に追い込まれた
当初東軍にかつがれていた義視が将軍邸を抜け出し、西軍に走った。西軍は義視を将軍に立て、幕府としての陣容を整え、ここに東西二つの幕府が成立した
膠着状態に入るが、主戦場となった京都の町は荒廃し、争乱は地方へと広がった
両軍の大将細川勝元・山名持豊があいついで死去したことから和睦の気運が高まった
畠山義就・大内政弘が下国
戦い疲れた両軍の間に和睦が結ばれたが、争いは地域で続いた
幕府体制崩壊
荘園制解体

■在京して戦った守護大名の領国の状態

在国して戦った守護代や有力国人(国に古くから住み着いた武士)が力を伸ばし、領国の実権は次第に彼らに移っていった。国人は権益を守ろうとして国人一揆を結成した
こうして下の者の力が上の者の勢力をしのいでいく現象が起きた【下剋上】

★加賀の一向一揆
本願寺の蓮如の布教によって近畿、東海、北陸に広まった浄土真宗本願寺派の勢力を背景にし、加賀の門徒が国人と手を結び、守護富樫政親を倒した。以後一揆が実質的に支配する本願寺領国が織田信長に制圧されるまで1世紀にわたって続いた