室町時代は、公家を圧倒した武家が文化の担い手だ。幕府保護によって進出した禅宗の影響を受けた武家文化ができた
武家文化は、京都に幕府が置かれたので、伝統的な公家文化とも融合したし、足利義満は日明貿易を推進したので唐物が日本に流入した
今日の日本伝統文化の多くはこの時代に形を整えた
【能・狂言・茶の湯・生花など】
■南北朝文化
動乱が続く緊張感のなか歴史意識が高まり、歴史書や軍記物語がつくられた
〈歴史書〉
★増鏡
源平の争乱から150年間の歴史を公家の立場から記した
★神皇正統記
北畠親房
伊勢神道の理論を背景に、神代から後村上天皇即位までの歴史を記し、南朝の立場から高位継承の道理を説いた
★梅松論
持明院・大覚寺両統の分裂から足利氏の政権獲得までの過程を武家の立場から記した
〈軍記物語〉
★太平記
作者は複数の僧侶
南北朝の動乱の全体像を記した
※後醍醐天皇の討幕計画から鎌倉幕府の滅亡
※建武の新政から南北朝の対立
※管領細川頼之が、幼少の足利義満を補佐するために讃岐から上京するまでの50年
を描いた
〈和歌〉
★新葉和歌集
後醍醐天皇皇子・宗良親王
内乱の中、各地を転戦した南朝歌人の歌を集めて歌集を編んだ
〈流行〉
★連歌
和歌を上の句と、下の句に分け
連衆と呼ばれる人々が次々に前の句に句をつけていき、五十句・百句にまとめた共同作品
文学というよりは、即興の機知と意外性を楽しむ芸事だったが、二条良基が連歌の芸術性を追及し、和歌と対等の地位を築いた
★能楽
猿楽・田楽から発達
★喫茶
栄西が宋から伝えた
※茶寄合
※闘茶は茶の異同を飲み分ける賭事
★婆娑羅(バサラ)
※過度の贅沢や派手好み
※奇抜な衣装や道具を身にまとい人目を驚かす
※畿内の新興武士に流行
※婆娑羅大名「佐々木高氏」
〈仏教〉
★臨済宗の夢窓疎石
※足利尊氏のあつい帰依を受けた
※尊氏・直義兄弟に元寇の変以来の戦死者を弔うため、国ごとに安国寺・利生塔と呼ばれる一寺一塔を建立させた
■北山文化
室町時代の文化は、3代将軍義満の時代に花開いた
将軍にして初めて太政大臣にのぼり
公家と武家の頂点に立った義満にふさわしい武家文化と公家文化の融合した文化だ
〈建築様式〉
★金閣
※北山に壮麗な山荘をつくった
そこに建てられた金閣(北山殿の仏殿)の建築様式は、さまざまな文化を折衷したもの
※3層の楼閣建築
1層は寝殿造
2層は和様
3層は禅宗様
〈仏教(文化)〉
★臨済宗
足利義満も祖父と同じく臨済宗をあつく保護し、禅僧たちによって中国文化の影響の強い文化が生れた
★五山・十刹の制を確立
・南禅寺を五山の上とする
・京都五山→天竜寺・相国寺・建仁寺・東福寺・万寿寺
・鎌倉五山→建長寺・円覚寺・寿福寺・浄智寺・浄妙寺
・十刹→宮寺→全国各地
〈(仏教文化)水墨画〉
禅の精神的境地を具体化した多くの画僧が登場
★五百羅漢図
明兆
★瓢鮎図
叙拙
★寒山拾得図、水色らん光図
周分
〈(仏教文化)宋の研究・漢詩文〉
絶海中津
義堂周信
〈能〉
神事芸能から出発した猿楽や田楽は、歌舞・物まね・曲芸・演劇などさまざまなジャンルの芸能を含んでいたが、能はそのうちの演劇・歌舞を中心に発達し、猿楽能・田楽能が各地で演じられた。さまざまな種類の能面もつくられた
↓
能楽師は寺社の保護を受けて座を結成し、能を演じる芸術集団が形成された
大和猿楽四座が代表的(観世座・宝生座・今春座・金剛座)
↓
観世座から出た観阿弥・世阿弥父子は、将軍良光・義持らの保護を受けて洗練された芸の美を追及し、芸術性の高い猿楽能を完成した
■東山文化
北山文化が生活文化にとりこまれた、新しい文化
禅の精神に基づく簡素さ
連歌の世界から発達した幽玄・侘の美意識を精神的基調としていた
唐物よりも和物に対する関心が高まってきた
〈建築様式〉
★銀閣
東山山荘の仏殿として建てられた
二層の楼閣建築
下層は書院造
上層は禅宗様式
★庭園
禅世界で統一
枯山水→岩石と砂利を組み合わせた人工的な自然をつくった
↓
作庭に従事したのは、河原者と呼ばれる賎民身分の人々だった。東山山荘の庭をつくった善阿弥はその代表的人物
〈水墨画〉
雪舟
★四季山水図巻
★秋冬山水図
★天橋立図
〈大和絵〉
土佐光信(土佐派)
★清水寺縁起
狩野正信・元信父子(狩野派)
水墨画に大和絵の手法を取り入れた
★周茂叔愛連図(狩野正信)
★大仙院花鳥図(狩野元信)
〈彫刻〉
能面の制作
〈工芸〉
後藤祐乗
刀剣装飾に優れた作品
〈漆工芸〉
蒔絵
〈茶の湯〉
村田珠光
枯淡美を追及する連歌の精神を学び、侘茶を創出
〈生花〉
立花の名手
立阿弥や池坊専慶
仏前に供える花から、座敷の床の間を飾る立花様式が定まった
■文化の地方普及
応仁の乱により京都は荒廃したので、公家なとの文化人が地方の大名を頼り、続々と地方へ下った。各地の有力武士のもとに身を寄せながら蹴鞠や和歌などを教え、その授業料によって生計を立てていた。地方武士たちも中央文化に強い憧れを持っていたため積極的に彼らを迎え入れた