るるの日記

なんでも書きます

天皇の二面性

2022-01-18 20:37:49 | 日記
日本古代天皇制度の性格に関しては
※専制君主
※貴族共和制
※天皇と諸氏族の相互依存関係

という見方がある

専制君主、非専制君主という二者択一で捉えるのではなく、その両面を併せもったもの、という視点が必要

この二面性は、日本古代国家成立に基づくものであり、東アジア国際情勢に対しての【現実的な関わり】と、中国からもたらされた高度な統治【理念】の両方によってもたらされた

また、古代の天皇制度は「太陽神皇祖の子孫である」という伝承に、【支配することの正当性】を求め、王朝交替を回避してきた

天武天皇「マツリゴトの要は軍事なり」→強烈な天皇権力を発揮した天皇

2022-01-18 20:21:00 | 日記
■天武天皇は大臣を置かなかった
皇后、草壁皇子、大津皇子、高市皇子など皇親や血筋を重く用いた

氏族層は官僚になることが支配層として生き残る道だと悟り、皇族の主導する政治体制の下位に自らを位置づけた
このような政治体制を【皇親政治】という

■「政(まつりごと)の要は軍事なり」と詔した天武天皇は、武装化した軍国体制のもと、天皇権力を利用して国家を組織し、皇親や諸豪族をその中に編成することをめざした。そのために個人の能力と忠誠心を昇進条件とする官僚制が形成され始めた

■冠位制度は、皇親のための冠位と、その他のための冠位とに分かれており、皇親と諸臣を明確に区分し、皇親を諸臣の上位に置いた
すべての支配層に冠位を授与して、国家の官僚にしたかった

■686年、天武天皇は諸事業の完成を見ぬまま死去。皇后の鵜野皇女(持統天皇)があとを継いだ
★飛鳥浄御原令施工
★戸籍「庚寅年籍」完成
★五十戸を一里とし、国・評・里・戸の制度を確立。一戸から一人の兵士を徴発できるように編成
★本格的に班田収授始まる
★藤原京完成、遷都

■白村江の戦いの後、百済から大量の貴族や文化人が亡命したこともあって、漢詩文をつくることが流行した。一方、古来から口伝されてきた歌謡も漢詩の影響を受けて、五音や七音を基本とする長歌・短歌の形式が定まった。そして本格的な和歌が成立。初期の和歌の作者には王族が多く、集団性、呪術性、自然との融和性などを特徴とするが、芸術性は乏しい
柿本人麻呂が出現し、和歌の表記法が確立。人麻呂はこの時代の空気を高らかにうたった

天皇とは道教の最高神→それを知った天武大王が天武天皇と自称した

2022-01-18 19:24:28 | 日記
■671年正月、天智天皇長子
大友皇子、太政大臣に任命
■671年10月、天智天皇弟
大海人皇子出家
■671年12月天智天皇死去
■672年壬申の乱
天智天皇の弟で大王位継承者とされていた大海人皇子と、天智天皇の長子で671年に政権に参画した大友皇子との間に起こった大王位継承争いを発端としている

★吉野に退いていた大海人皇子は、東国に脱出し、美濃を本拠地とし、東国で徴兵した数万の兵と、大伴氏を中心とする大和の豪族の兵を配下におさめ、大津宮をめざし近江路を進軍

★大友皇子は、西国の兵を徴兵しようとしたが、白村江の戦いで疲弊し、近江朝廷への不満を強めていた西国の豪族からの動員は進まず、ついに大津近江宮は陥落し、大友皇子は自害し、乱は決着した

♦️【天智天皇が死去した後、大友皇子は近江朝廷の中心に立った。だが、、、ただ中心に立っただけだ。もともと地方豪族を母に持つ大友皇子は、大王に即位できない立場だった。大海人皇子が大友皇子を倒した原因は、大海人皇子の方の後継者問題や、鵜野皇女(持統天皇)の意向もからんで、複雑な要因が存在した】

■673年飛鳥浄御原宮にて
天武天皇即位
それまでの「大王」から「天皇」号が制定された

■天皇とは
中国の皇帝と対置し、中国皇帝の臣下である新羅国王よりも優位に立つ
「東夷の小帝国の君主」としての位置づけ

674年(天武天皇即位2年目)中国では、道教の最高神を表す「天皇」という語が君主の称号として用いられた
それを知った天武大王が天皇と自称した

井の中の蛙大会を知らず【日本が、白村江の戦いにおいて唐・新羅連合軍に大敗】

2022-01-18 18:32:40 | 日記
■655年朝鮮半島
高句麗と百済が連合して、新羅に侵攻。新羅は唐に救援を求める

660年唐は百済に出兵。百済の王は降伏し百済滅亡
しかし、各地に残る百済の人々は、百済復興に立ちあがり、日本には、日本に滞在している百済王子の送還と援軍派遣を要請してきた

■斉明天皇(皇極天皇)と中大兄皇子は、百済を復興して朝鮮半島における日本の優位性復活をもくろみ
百済救援の大軍を派遣することに決めた
661年中大兄皇子は斉明天皇とともに筑紫へ。斉明天皇の死後は中大兄皇子は大王の位につかないまま戦争指導を行った
662年大軍を渡海
663年白村江の戦いにおいて、
唐・新羅連合軍に大敗

■664年中大兄皇子は国政改革を断行。
★豪族を再編成するとともに、豪族の領有民と豪族との融和につとめた

★国土防衛に専念
※対馬・壹岐・九州北部に防人や烽を置く
※筑紫に水城を築く
※筑紫太宰周辺、瀬戸内海沿岸から大和にかけて朝鮮式山城を築造

★遷都
都を飛鳥から近江の大津宮に遷し
【668年、中大兄皇子が即位し
天智天皇誕生❗️(クーデターから23年経過し、禊は終わったか?)】

670年、最初の全国的な戸籍作成
【庚午年籍(こうごねんじゃく)】
全国の、上は豪族から下は奴婢(奴隷)までを登録して姓を定めた
徴税、徴兵は行いやすくなったが
地方豪族の不満は高まった
なぜなら
公地公民(土地・人民はすべて天智天皇のもの)という考えが徹底していなくて、豪族は損をしたから
壬申の乱で近江朝廷が敗北する一因となった


中国の人々はなぜ頭がいいのか?人口が多いから?

2022-01-18 17:41:14 | 日記
618年
中国では随が滅び
唐が起こった
律令制による中央集権的な国家体制の充実をはかり、周辺諸国を圧迫

朝鮮半島諸国では、あいかわらず
権力集中が政治の目標だった

日本においてクーデターと、それに続く政治改革は、これら東アジアの国際情勢に対応したものだった

■蘇我氏だけの権力を集中させたい蘇我入鹿

蘇我入鹿は、父をしのぐ実権を掌握し、聖徳太子の子山背大兄王一族を滅ぼした。入鹿は蘇我系の天皇のもとで蘇我氏だけが権力をふるう権力集中をめざしていた

■唐から帰国した、最新の統治技術を学んだ者は、国家体制を整備し、国家体制に諸豪族を編成し、官僚制的な中央集権国家を建設し、権力集中をはかろうとする

■645年乙巳の変
中臣鎌足、中大兄皇子は蘇我入鹿を殺した。入鹿父も自害
蘇我氏本宗家は滅亡

皇極天皇はクーデターのショックで退位。弟・孝徳天皇に譲位した

■日本書紀より
【孝徳天皇代の新しい政治改革
大化の改新】
中大兄皇子、中臣鎌足がめざした中央集権国家の建設は後に半世紀の長い道のりを経て初めて完成されたのです

★人事
【左大臣】
阿倍内麻呂

【右大臣】
石川麻呂

【内臣(うちつおみ)】
中臣鎌足

【国博士】
唐から帰国した
僧侶の旻(みん)
高向玄理(たかむこのげんり)

★東国調査
東国に使者を派遣し、国造の支配の実体、人口、田地を調査

★人口調査のための男女の法制定
生れた子どもを父方、母方のいずれに所属させるかを明確にした

★難波遷都
東アジアの動乱に関与するため、大和の外港である、難波に拠点を置いた

★646年改新の詔四ヶ条
1条
王族や豪族が、土地・人民を所有することを禁止し、豪族には食封(給与)を支給する
しかし当時、このような宣言をしたとは考えにくい。諸豪族の領有はかなり後まで認められているからだ

2条
京師
畿内
という地方行政組織を定め、中央集権的な政治体制をつくる
目標として定めた

3条
戸籍・計帳をつくり
班田収授法を行う
戸籍は実際670年につくられた
目標として定めた

4条
新しい税制を定める
田→調
戸別→調→戸数に応じて徴収
仕丁(人夫)
釆女(女官)

★646年葬儀・結婚・交通などの習俗の改正
共同体的な習慣を否定

★品部(職業など)廃止
新たに設ける冠位・官職を授ける

★新しい冠位制度制定
7色13階
すべて官僚制に組み込む