るるの日記

なんでも書きます

貨幣経済に対する神様の罰→凶作・噴火・餓死・打ち壊し一揆

2022-01-30 16:38:04 | 日記
乱れる因果

■豪農と小百姓の格差が起きる

農村では、享保の改革以後の年貢増政策により、小百姓は貧困になった
有力農民は、年貢を納められない百姓に、その百姓の田畑を抵当にして貸付けをし、借金を返済できない百姓からの田畑を、質流れという形で集め、その田畑を小作人に貸して、小作料をとりたてる地主になり豪農といわれた
田畑を手離した百姓は小作人となるほか、年季奉公や日雇稼ぎに従事
豪農は2~3町歩に及ぶ田畑を、奉公人を使って耕作し、商品生産と流通の中心的な担い手となった

■豪農と小百姓や小作人と対立

★小作人は豪農に小作料値下げ要求
★小百姓は村役人でもある豪農の不正追及
★村の民主的運営要求
世襲的村役人の家に代わり、小百姓たちの支持を受けた者が村役人となる。なかには選挙制が生まれるケースも現れた

■農民と領主(幕府)との対立

年貢増で農民の生活や生産が大きく損なうときは、村単位で領主に要求をかかげ、直接行動をおこした
百姓一揆は江戸時代3000件以上

★村の代表者が領主に直訴した
【代表越訴型一揆】
伝説的な一揆代表者は義民とされた
※下総→佐倉惣五郎
※上野→磔茂左衛門

★村を越えた広い地域の百姓団結した【惣百姓一揆】

★藩領地全域に及ぶ
【全藩一揆】

■農民と商人との対立

★藩の政策に協力した商人、村役人の家を打ち壊した

★特権商人による商売独占に反対して、一般商人と百姓が結集して国訴運動が起きた

■幕藩の一揆に対する処罰後、火山噴火、凶作による飢饉が発生。ますます激しい一揆、打ち壊しが起きる

【享保の飢饉】
1732年、西日本一帯で、天候不順ななか、イナゴやウンカが大量発生して大凶作となり全国的な飢饉となった
米価は高騰し民衆の暮らしは大打撃1733年、江戸では米を買い占めて米価を高騰させた高間伝兵衛という米問屋が打ち壊された

【天明の飢饉】
1782年、東北の冷害から始まった飢饉は、翌年の浅間山の大噴火も加わって、多数の餓死者出す大飢饉となった。津軽藩では餓死者が十数万人にも達した。住民が死に絶えた村も出たほどである
村々の荒廃と食糧不足から数多くの百姓一揆が発生し、都市では激しい打ち壊しが起こった

■都市の経済活動は、幕府からの公認もあり商人の仲間組織だけで商売を独占していた。この特権商人は、商品流通や金融などの面で、幕藩では左右できないほど自立的で強固なものになった。特権商人の網は全国に及んだ

特権商人は町屋敷を買い集め、町内に住む家持人が減少。住民は地借、店借、商家奉行人らが多くなった

町内の裏長屋や場末の地域には、農村から出稼ぎなどで流れてきた人々、行商などの小売、職人、日雇稼ぎなど貧しい民衆が多数住んだ
これら都市民衆は【其日稼ぎ】と呼ばれた

(問屋・仲買・小売商人とが取引する【卸売市場】が各地で発達)
堂島→米市場
雑喉場→魚市場
天満→青物市場
日本橋→魚市場
神田→青物市場


幕府・大名→財政難 農工商→富を蓄える

2022-01-30 15:03:01 | 日記
商人は富裕化し、大名にも貸付を行っていいた。藩財政を握る商人も現れ、農村にも貨幣経済が浸透し、米以外の商品作物生産や家内工業が広がり富が蓄積されていた

そんななか
1716年、将軍家継が8歳で死去
家康以来の宗家が途絶え
紀伊藩主【徳川吉宗(家康ひ孫)】が8代将軍についた。吉宗は「家康時代の復古」を掲げて幕政改革につとめた【享保の改革】

■人事
柳沢吉保、間部詮房、新井白石らによる側近政治に、幕政から排除された譜代大名らは不満を強めていた
吉宗は有能な人材を登用し、将軍が先頭に立って改革にとりくんだ

★譜代大名からなる老中・若年寄を重視する
★新たな側近【御側御用取次】を設け、老中と側近を巧みに使った

★旗本・【大岡忠相】
★東海道川崎宿名主・【田中丘隅】
★政治の師・荻生徂徠
★儒学の師・室鳩巣

■幕府財政の再建

★勘定奉行の整備と強化
地方で農村支配に優れた実績を上げた者を、勘定方役人に取り立てた

★人口、田畑の耕地面積調査をし、数値の把握につとめた

★厳しい倹約令を出し、支出の減少をはかる

★収入の増加策を打ち出す
※上げ米
1722年、幕府が諸大名に対して「米をください」と命じた。代わりに1年間の江戸在府期間を半年に縮減した
1年で18万7千石
1731年廃止

※新田開発
日本橋に高札を立てて町人に新田開発を奨励。商人資本の力を借りて新田開発を進めようとした

※年貢の増税
一定期間同じ年貢率を続けた
年貢量の安定
年平均140万石
1727年→160万石
1744年→180万石

※商品作物の奨励
畑地からも年貢増税
〈栽培した作物〉
菜種
甘藷(さつまいも)
さとうきび
櫨(はぜの木)→ロウソクができる
朝鮮人参

■司法制度の整備・法典の編纂
法に基づく合理的な政治をしたかった

【この時代は都市や商業の発展により、金銭トラブルが増加したため、幕府の奉行所は政務に支障が出たので、幕府は金銭トラブル訴訟を受理せず、当事者で解決させようとしたが、激しい反発がおきた。幕府は仲介人を間に立たせ当事者同士の話しあいで紛争を調停させた】

★これまでの裁判の判例を集め、裁判や刑罰の基準とするため、1742年【公事方御定書を制定】制定

★1744年、江戸幕府初からの法令を集大成した【御触書寛保集成】を編纂

★質入された田畑が、借金返済できず質流れとなり、百姓分解が進行してきたことに対処して
1721年流地禁止令を出す
徳政令とみなした百姓は、流地の返還を地主に迫り騒動を起こした
1723年法令撤回




幕藩体制の参考思想「儒学・朱子学」、幕藩体制に嫌われた「陽明学」

2022-01-30 13:38:00 | 日記
幕藩体制の安定とともに、儒学の意義が増大した
儒学は社会における人々の役割を説き、上下の身分秩序を重んじ、忠孝、礼儀を尊ぶ考え方だったからだ

★朱子学【林家】
朱子学思想は、封建社会を維持するための教学として、幕府や藩に歓迎された
家康に登用された林羅山の孫、林鳳岡は、綱吉によって湯島聖堂の大学頭に任じられ、それ以後、林家が中心となり、幕府の文教政策を進めた

★陽明学
明の王陽明が始めた
朱子学を学んでいた【中江藤樹】や、門人の【熊沢蕃山】が取り入れた
陽明学は、現実を批判して知行合一(知は実践をともなう)の立場で矛盾を改めようとする革新性を持つ

熊沢蕃山は著書で幕政批判したとして咎めを受け、会津藩や熊本藩でも、その革新性ゆえに弾圧された

★古学
孔子・孟子の古典に立ち帰ろうという思想
兵学者・【山鹿素行】は朱子学を批判し、古代の聖賢に立ち帰ることを主張
幕府に嫌われ、山鹿素行は流された

農林水産など各産業の発展は、豪商を衰退させた「風が吹いたら桶屋が儲かる」

2022-01-30 13:12:14 | 日記
■農業生産が進展する
領主拡大不可能→耕地拡大へ
世の中平和になると、幕藩領主の領地拡大は不可能になった

領主は大飢饉もあったことから、農業を勧めて、生産基盤を確保する政策に転換した
今まで開発不能であった大地(湿地、沖積地、湖沼、干潟)を、領主は大量の人夫を動員して耕地に変えた
用水路を導入し、水の届かなかった地域を水田に変えていった
大小さまざまな開発は耕地拡大につながった

★田畑面積
江戸時代初め→約164万町歩
18世紀初め→297万町歩
人口も2倍近く増加

農業技術の進歩も加わり収穫量は増大した
農業技術書「農書」で技術は普及した

■漁法の改良と、漁場の開発で漁業は重要な産業となる

★網漁
摂津、和泉、紀伊など上方漁民によって、関東、三陸、四国、九州などに広められた

★地曳網
※上総九十九里浜→イワシ漁
※肥前五島→マグロ漁
※松前→ニシン漁

★釣漁
※土佐→カツオ
※瀬戸内海→タイ

★モリと網を駆使する勇壮な鯨漁
紀伊、土佐、肥前、長門

★蝦夷地
ニシン、昆布、俵物(いりこ、干しアワビ、ふかのひれ等を俵につめたもの)

■塩業
★入浜塩田
瀬戸内海沿岸で展開し、塩の量産が行われた

■林業
★材木問屋が進出
★尾張藩直轄山林→木曽杉
★秋田藩直轄山林→秋田杉
★マキ・炭の大量生産

■鉱山業
銅の採掘
★下野→足尾銅山
★伊予→別子銅山
★出羽→阿仁銅山

■鉄
★出雲→砂鉄のたたら精錬で玉鋼がつくられ、刀剣、農具、工具に加工された

■石炭
筑豊地方

■石油
越後

■水上交通と商人
時間はかかるが、大量の物資を安価に運ぶ

★大阪⇔江戸
初期は年貢米輸送のため
やがて各地の商品生産が展開

※菱垣廻船
江戸の問屋と提携し、定期運航

※樽廻船
小形で荷物の積込が早い
摂津で酒荷を中心
江戸の酒店組と提携
定期運航
やがて酒以外の商品も安く積む

★東北・北陸
※〈東廻り海運〉秋田⇔津軽⇔太平洋⇔江戸

※〈西廻り海運〉
秋田⇔日本海⇔下関⇔瀬戸内海⇔大阪
【北前船が活躍】
買い積み方式で蝦夷地にも進出し、商取引を行った

♦️廻船商人
遠隔地の価格差を利用して利益を上げていたが、商品流通の増加により、商品価格の地域差が見られなくなり、商人は巨利は得られなくなる
限られた特産品も、各地で多量生産されるようになり、商品の希少価値は少なくなり儲けは少なくなった
こうして豪商は衰退し、廻船業や商人にとどまることになった

♦️問屋
問屋商人も、大量の商品を多売することで利益を上げる商法に切り替えた。素早く対応したのが越後屋(三井)を代表する新興商人たちだ
かれらは仲間をつくり、営業権の独占をはかった
幕府は営業税納入を条件に仲間を公認し、営業の独占を許した
営業の独占権威を株という
その仲間を株仲間という

♦️両替商
金・銀・銭の交換は貨幣相場が変動したので面倒なうえ、東日本では主に金で取引、西日本では主に銀で取引していたので、東西の商取引は不便だった。これを利用して利益をあげたのが両替商

★普通の両替商
金銀銭の両替
秤量

★本両替
三井両替店、天王寺屋、鴻池

銀行に似た業務を合わせて行い、幕府や藩の財政を支え、また流通の促進に役立った
※両替
※公金の出納
※為替
※貸付








2代続いた短命将軍

2022-01-30 11:22:08 | 日記
■徳川家宣、新しい宮家を創設

富士山噴火から2年後
1709年、徳川綱吉死去
綱吉の甥・甲府藩主・徳川家宣(いえのぶ)が6代将軍となった
間部詮房
新井白石(儒学者)
を信任して政治の刷新をはかった

★生類憐れみの令廃止
★賄賂厳禁
★朝廷との協調関係増す
朝廷の太政大臣・近衛基ひろの娘は、徳川家宣の正室
それまで宮家は伏見・桂・有栖川の3家しかなく、天皇の子弟の多くが出家している状態だった。それを改善するため幕府は、費用を献じて特例として閑院宮家を設けた

しかし家宣は1712年病死した
治政3年9ヶ月の短命な将軍だった

■跡を継いだ、家宣の子
7代将軍家継は3歳2ヶ月
幕政は間部詮房、新井白石が握った

★幼児将軍を権威づけるため、家継と皇女八十宮の婚約を1715年発表
将軍5歳、皇女2歳だ

★将軍個人の人格ではなく、将軍の地位が格式と権威をもつように、儀式を重視した

しかし家継は1716年に8歳で死去