るるの日記

なんでも書きます

足利一門の守護大名成立

2022-01-25 17:23:42 | 日記
室町幕府は全国の武士たちをまとめるために、各国に守護を派遣した。ほとんどは足利一門である

♦️幕府は守護の権限を拡大した

■守護が武士同士の争いに介入できるようにした
★武士同士で、土地をめぐって紛争が起きたとき、自分の所有権を主張して、稲を一方的に刈り取る実力行使〈刈田狼藉〉を取り締まる権限がが加わった
(所領争いには刈田狼藉という行為が付随した)

■司法の権限を行使できるようにした
★幕府の裁判判決を受け取った守護が、使者を現地に派遣し判決内容を強制的に執行できるようにした
〈使節遵行〉

■幕府は【軍事費用の調達】を目的として、守護に国内の荘園・公領の年貢の半分を徴発する権利を認めた〈半済令〉。しだいに年貢ばかりか土地自体を分割するようにもなった
守護は、半済令を盾に荘園・公領を侵略し、武士に年貢や土地を分け与えた
しだいに戦乱時という条件も外され、半済令は全国的に、永続的に行われた

♦️守護は新たに獲得した権限を利用し、国内の武士を自己の統制下に繰り入れていった
この任務に失敗した者は任を解かれ、新たな守護が送り込まれた

♦️兵乱が沈静化した足利義満の頃は、守護職は安定した
この時代の守護を守護大名と呼ぶ

★守護職は世襲された

★守護は守護代に領国を統治させ、自身は在京して幕府に出仕するようになった

★有力守護は、幕政の中枢に参画し幕府の運営にあたった

★経済的には、荘園領主が年貢の徴収を守護に請け負わせる守護請が盛んになった。荘園領主は荘園の経営にますます干渉できなくなり、守護は荘園の支配を強め、公領にも進出し、一国全体に及ぶ地域支配権を確立

♦️武士を守護の統制下に繰り入れる方法
★守護は、武士と明瞭な主従関係を設定し、多くの武士が守護の郎党と化した

★武士のなかには、将軍との直接の主従関係を重んじる者もいた

★自立を強く志す武士もいた

★地方に土着した武士である国人を、守護が家臣化するのは困難だった。国人たちは一揆を形成し守護の支配に抵抗した



室町幕府機構と財政収入

2022-01-25 14:58:51 | 日記
■室町幕府機構
★管領(かんれい)
将軍を補佐し、将軍の命令を諸国の守護に伝達

足利氏一門
※斯波氏
※細川氏
※畠山氏
3氏が交替で任命され三管領と呼ばれた


★侍所→京都の警備・裁判
※山名
※赤松
※京極
※一色
4氏から選ばれた

★政所→実務(幕府の財政や事務)
将軍の直臣の特定の家々で構成
飯尾
松田
斎藤

★奉公衆→将軍直轄軍(5部隊3000騎)
※家臣を率いて在京し、将軍の警備にあたる

※諸国に散在する将軍直轄地の代官に奉公衆を任じ、低率の年貢を上納させ、残りを彼らの得分とした

※古くからの足利氏の家臣
※守護の一族
※地方の有力武士
らから為る

■まず、有力守護の統制
★土岐康行
1390年、美濃・尾張・伊勢3国の守護・土岐康行を討伐し、土岐氏を美濃一国におしこめた

★山名氏
1391年、山陰の山名氏を討つ
山名氏はかつて直義派に属し、長年幕府と戦った。降伏した後も発展し、11ヶ国の守護職となる。義満は山名氏の内紛を利用し、山名氏清らを滅ぼした。山名氏は3ヶ国の守護に転落

★大内義弘
1399年、周防の大内義弘を討つ
義弘は堺と博多を掌握し、挑戦者などとの交易で利益をあげていた
義満は謀略により、義弘を追いつめ、堺にこもった義弘を攻め滅ぼした

■室町幕府の財政
※定期的な財源→年貢米
※不定期の課税
※貿易による莫大な利益
※関所での関銭

★守護と地頭にさまざまな名目で課税
★高利貸しを営む土倉や酒屋
土倉役、酒屋役が課せられた
★関所にて関銭
★禅宗寺院(幕府保護下で金融活動展開)にも課税
★日明貿易による莫大な利益
★国家的行事(内裏造営、皇位継承儀式など)の際は、全国に段銭が課税

■鎌倉管領
足利尊氏は、鎌倉幕府の基盤だった関東を重視した。足利義詮(尊氏嫡子)の弟基氏を鎌倉公方とし鎌倉府を開かせ、関東8国と伊豆、甲斐を加えた10国を支配させた

鎌倉公方は基氏の子孫が世襲

鎌倉府は第二の幕府で、京都の幕府に強い対抗意識を持ち、しばしば衝突

■関東管領
鎌倉公方を補佐する関東管領には
上杉氏が任命された



南北朝統一を実現させた足利義満→皇族・貴族から崇敬され「日本国王」として明と交渉し、死後は「太上天皇」の称号を贈られそうになった

2022-01-25 13:57:34 | 日記
■足利尊氏の孫・足利義満が将軍に就く頃に争乱は終息

長い間続いた南北朝争乱、幕府内部争乱、それに乗った武士の争乱も
【足利尊氏の孫・義満】が将軍に就く頃になると、終息の方向に向かい
足利政権は安定

★諸国の武士は、幕府が派遣した守護の指揮下に組み入れられていった

■武士が幕府の指揮下に入り、南北朝統一する

★南朝側は抵抗する術(武士)を失い、幕府との話し合いに応じざるを得なくなった
★南朝の後亀山天皇は、義満の呼びかけに応じて京都に帰り、北朝の後小松天皇に譲位する形で南北朝の合一が実現
幕府は南朝の皇族を次々に出家させ、子孫を絶った
南朝の人々は深くこれを恨み、南朝の子孫や遺臣の反乱は、応仁の乱頃まで繰り返し起きた

■1378年、京都の室町に「花の御所」と呼ばれる新邸を営み、これをもって室町幕府の名称が生まれる

★幕府は商業都市として繁栄していた京都への支配権を朝廷から奪っていった
★幕府は、警察権、裁判権などを朝廷の検非違使庁からとりあげ、京都市民の生活を守るのは幕府だと明らかにした
★1394年、市中商人への課税権を確立
★朝廷が保持していた機能を管轄下におき、全国的な統一政権として整えた
★足利義満は将軍として初めて太政大臣にのぼり、藤原氏以下の貴族を従えた
★義満の妻(日野氏出身)は天皇の准母(名目上の母)となり、義満の子・義嗣は親王と同等の格式を許された
★義満は天皇を越える権威を誇り、明との交渉では「日本国王」として振る舞っている
★義満死後に「太上天皇」の称号を朝廷から贈られそうになったが、さすがに幕府側は辞退した

我欲が原因の全国的な争乱で、我欲を浄化するのだ

2022-01-25 13:17:44 | 日記
■高師直(こうのもろなお)という男
★足利尊氏の執事・高師直は、畿内の武士層を吸収し、強力な将軍の親衛軍を組織し、北畠顕家・楠木正成の子・正行らを滅ぼしている

★高師直は、伝統的な権威や荘園制の枠組みを否定する男だ。秩序を重んじ、伝統的権威と協調を模索する直義とは正反対の立場である。合わない

★【室町幕府初め、武士たちは天皇に対して極めて冷めた思いを持っていた。高師直は「天皇とか院とか、面倒でしかたがない。もし必要なら木で作って、生きている天皇はどこぜへ流し捨ててしまえ」と放言した】

★武断的な武士は高師直を支持した
保守的な武士や文治を重んじる武士は足利直義を支持した

■幕府内部の分裂が全国的な争乱に発展し、長期化する

高師直と足利直義の対立は
足利尊氏と足利直義の対立でもある
1350年、両者の対立は全国的な争乱に発展
1351年、高師直が殺害され、
1352年、直義が敗れ死去
後も続く
★足利尊氏と嫡子・義詮(よしあきら)一派
★足利直義の養子・直冬(尊氏庶子)一派
★南朝勢力
3者が離合集散を繰り返した

■南北朝、足利尊氏派、足利直義派の争いが長期にわたった背景には、武士社会の変貌があった

領地相続は分家への分割相続から、本家内の単独相続へという動きが定着し、本家と分家のつながりを前提とする惣領制は崩壊
武士は血縁でなく、地縁を重んじて結び付くようになり、各地に新しい武士団が生まれた
★武士団の主導権争いでは、一方が北朝なら一方は南朝に、一方が尊氏派なら一方は直義派に属して戦った
★本家と分家が争う事態もおこった
★武士支配に対抗する農村共同体形成も進んだ
動乱は全国に拡大、長期化、武士支配に対抗する農村共同体形成も進んだ

戦力の無い南朝を一挙に滅ぼすことができなかった原因は、室町幕府の内部分裂にあった

2022-01-25 12:31:10 | 日記
■京都の朝廷と、吉野の朝廷は約60年間抗争を続けた。南北朝時代だ!
ただし真の意味の戦いはごく短期間にすぎない

〈南朝側〉
※北畠顕家は、京都への進出を阻止され戦死
※新田義貞は、越前で勢力圏づくりに失敗して戦死
※後醍醐天皇も吉野で死去
※以後は北畠親房主導のもとに、数少ない勢力圏を拠点として抵抗を続けた

■南朝は戦力を持てなかったが、それでも北朝が南朝を一挙に滅ぼせなかった根本的要因は北朝側にあった
北朝を支える幕府は、深刻な内部分裂に揺れていたのである
■1338年、足利尊氏は北朝から征夷大将軍に任じられ、室町幕府を興した。幕府内は明確に権限が分割され、尊氏・(弟)直義の二頭政治が展開された

★将軍・足利尊氏〈軍事の長〉
全国の武士との間に結んだ主従関係を統括し、武家の棟梁として君臨
※奉公として軍事活動を要求
※御恩として恩賞を供与
する権限を握った

★統治者・足利直義〈政事の長〉
行政・司法の機構を通じ政治を行った

■尊氏と直義は互いに補いあって幕府政治を推進していった

けれども一つの権力体の中で
権限が二分割された状態を維持させていくことは困難だった

彼らは「軍事優先か!政事優先か!」という難問で衝突し、兄弟間には次第に亀裂が生じた
二人の対立を決定的にしたのは、尊氏の執事である【高師直(こうのもろなお)】の存在だった