るるの日記

なんでも書きます

天皇と幕府と公家のバランスが大事な江戸時代

2022-01-28 18:39:40 | 日記
1615年幕府は【禁中並公家諸法度17条制定】し朝廷の基準を明示した

■皇親政治にならぬよう親王をおさえる
■摂家の役割の重視

■武家の官位を幕府の許可制にして
諸大名が直接に朝廷と結びつくことを防止

■幕府は、摂家に朝廷統制の主導権を与え
【武家伝奏】という職に就かせ、これを通じて朝廷を操作した

♦️武家伝奏♦️公家から2人選ばれ、幕府から役料(年500俵)を受けた
彼らは朝廷と幕府をつなぐ窓口となり、京都所司代と連絡をとりながら、幕府側の指示などを朝廷側に伝え、朝廷側の願書などを幕府側に提出した

武家伝奏の職務は多忙となったため
1663年、議奏を設置し4~5人の公家が武家伝奏を補佐した

幕府はこうして朝廷が権力をふるったり、他の大名に利用されることがないように、天皇や公家の生活や行動を規制し、京都に封じ込める体制をとった。そのため朝廷側の財政は必要最小限にとどめられたし、天皇の行幸は幕末まで認められなかった

♦️後水尾天皇は譲位し、娘に即位させる願いがあった

1629年、5月7日、後水尾天皇は譲位の意思を固め、武家伝奏を江戸に派遣して幕府に伝えた。譲位の理由は
★数年病んでいた天皇の身体の腫物治療に灸を用いたいが、灸は天皇在位中には行えない。だから譲位を望む
★譲位したあとは一宮興子内親王(徳川秀忠の娘和子が母)が即位することなる。「女帝の儀くりしかるまじき」と記した

しかし5月の譲位要望は、幕府に断られた。秀忠の結論は「女性天皇誕生には同意するものの、6歳の孫娘ではいかにも時期尚早である」ということだった

1629年11月8日、後水尾天皇は幕府の同意を求めずに突然譲位した。公家たちには知らされておらず、武家伝奏の中院通村だけがこの日の譲位の相談を受けていた

12月27日、やっと徳川秀忠・家光からの返答が京都に届いた。天皇の意に沿うことが言明されていた。譲位は承認された。859年ぶりの女性天皇・明正天皇の誕生となった

幕府は役割を果たさなかった武家伝奏の中院通村を交代させ、さらに摂家に厳重な朝廷統制を命じた
ここに朝廷統制の基本的な枠組みは確立し、幕末まで維持された





幕府と藩の【金・軍事・職】

2022-01-28 17:27:57 | 日記
■幕府の財政

★直轄領400万石から徴収する年貢
★これに幕府の直属の家臣(旗本)の知行地300万石を加えると700万石
全国石高は3000万石の4分の1を占めた

★鉱山からの収入

★商工業者からの献金

★貨幣の鋳造

■幕府の軍事力

★将軍直参旗本と御家人

※将軍に会える【旗本】5205人
※会えない【御家人】1万7399人
1000石旗本1人に23人出陣する規定なので、約7万人の軍勢
(関ヶ原の戦いで西軍8万5千人は、旗本だけでこれに匹敵)

■幕府の職は1ヶ月交代で勤務
★老中
幕府中枢・幕政統括
定員4名

★若年寄
老中を補佐し、旗本を監督
定員4名

★大目付
大名を監察

★目付
旗本を監察

★寺社奉行(実務)
寺社の統制
定員4名

★勘定奉行(実務)
財政と行政にあたる
定員4名

★町奉行(実務)
江戸の市政担当
定員南2名・北2名

実務担当は三奉行というよー
老中・三奉行・大目付らは重要な裁判を担当します

★京都所司代
朝廷の統制、西国大名の監視
定員1名

★大坂・駿府に城代(各1名)と町奉行(1~2名)

★伏見・長崎・佐渡・日光に
遠国奉行(各1~2名)

★幕府直轄地
関東・飛騨・美濃には郡代
その他には代官が
勘定奉行の下で直接民政を司った
(40名~50名)

■藩は大名の領地・領民・支配機構で、大名による領地一円支配が進められた。有力武士を家臣団に編成し、城下町に集住させ、藩政を分担させた。幕府法に反しないかぎり、藩法を制定し、大名独自の政治が行うことができた


3代将軍家光までに将軍と諸大名との主従関係確立し、幕府と藩が土地と人民を支統治支配する幕藩体制確立した

2022-01-28 16:34:29 | 日記
■諸大名と有力武士を弱体化させる

★徳川家康は、諸大名の軍事的拠点となる要素を取り除かせ、大きな力をつけないように、大名の居城を1つに限る一国一城令を出す
これは諸大名にとっても支城を拠点とし、大名と対抗するような有力武士を弱体化させた

■大名を厳しく統制する
★武家諸法度(政治道徳、治安維持、儀礼などの規定)

1615年、徳川家康は【金地院崇伝(僧侶・家康の非常に優れた側近)】らに命じ武家諸法度の草案を起草させ検討
7月7日将軍秀忠が諸大名を伏見城に集め、金地院崇伝に朗読させ公布
これによって幕府と諸大名の関係は、私的な従属関係から、公的な政治関係となる

★家康死後、2代将軍秀忠は、武家諸法度に違反した、広島城主福島正則を改易し、信州川中島へ転封した
これで、将軍より年功の有力大名をも処分できる力を示した

■巧妙に大名を配置
※260前後の大名の分類
★親藩
徳川一門の大名(三家)
尾張・紀伊・水戸

★譜代
徳川氏伝統の家臣で、将軍直属の重職に任じられたが、石高は5万石内外と少い(井伊家の35万石は例外)

関ヶ原の戦い前後37家
幕末は145家

★外様
関ヶ原の戦い前後徳川氏の家臣に
有力な者が多く危険性があるので
辺境の地に配置した

■3代将軍・家光の力による大名統制

1623年、将軍職を家光にゆずった秀忠は、大御所として幕府権力の基礎を固め、1632年死去した

★家光は外様29名、一門と譜代19名を改易して力による大名統制を進めた
【九州を将軍の意が及ぶ地にするため、
※肥後の加藤忠弘(清政の子)を改易し出羽庄内に配流
※肥後には小倉から細川氏を転封
※小倉には譜代の小笠原氏を転封】

★軍役規定を改定
大名に課された軍役は、百姓などに転嫁され、農村を疲弊させた

※1000石の旗本の出陣
槍2
弓1
鉄砲1
人23人

※1万石の大名の出陣
馬上出陣武士10
鉄砲20
弓10
槍30
旗2

※平時には江戸城の修築、河川工事などを負担

■参勤交代の義務づけ
※国と江戸を1年交代で往復
※関東の大名は半年交代
※対馬・徳川宗家は3年交代
※毎年4月を交代期とする
※妻子の江戸居住を強制
※水戸家は常に江戸藩邸に詰める

これにより大名は莫大な出費をしたが、江戸と街道筋の宿場はにぎわった




徳川家康は反面教師の二人(信長・秀吉)を見て、時を待てた「人間は必ず死ぬ」「自分が死んだら終わりにしないための世襲制確立」

2022-01-28 15:17:13 | 日記
■秀吉の死を待つ家康

徳川家康は豊臣政権に協力した
1590年に関東に移封された。江戸を拠点とし約250万石の領地を支配する大名となり、領国経営を充実させ
豊臣政権の五大老の筆頭としても重きをなし、力を蓄えた
1598年、秀吉が死去すると、家康の地位は浮上した

■天下分け目の戦い

徳川家康と対立したのが、豊臣政権を実務的に支えてきた五奉行の一人石田三成だ
三成は小西行長らと相談し、五大老の一人毛利輝元を盟主にして、西国諸大名を見方につけ兵を挙げた(西軍)
〈8万5千人〉

東軍は徳川家康と、彼に従う
福島正則、加藤清正、黒田長政らだ
〈10万4千人〉
東軍は会津・上杉景勝との戦いのあと
1600年9月、東西両軍は美濃の関ヶ原で激突した
小早川秀秋の裏切りにより
東軍の大勝

■処分

★石田三成・小西行長→処刑
★宇喜多秀家→島流し
★毛利輝元→領地削減
★上杉景勝→領地削減
★西軍諸大名90家440万石→改易(武士の籍を抜き、財産没収)
★東軍武士は加増、新たに28の大名が取り立てられた

■家康・天皇から全大名の軍事指揮権を認めてもらう

1603年徳川家康は、全大名に対する指揮権の正統性を得るため、天皇から【官職・征夷大将軍の宣下】を受け江戸幕府を開く
関白ではなく征夷大将軍を選んだのは、征夷大将軍は武士の棟梁という官職だからだ。家康はいちはやく【豊臣政権から独立】し、諸大名を戦争に動員し指揮する武士の棟梁という正統性を得たかった

■家康、諸大名に自分が全国の支配者であることを明示

★諸大名に主従関係の確認を進めた
※諸大名に江戸城と市街地造成の建築工事を命じて、それに従うかをチェック

★1604年、国単位に国絵図と郷帳(土地台帳)の作成を命じて、全国の支配者であることを示した

■「将軍職は徳川家の世襲制」であることを諸大名に示す

秀吉の子・豊臣秀頼は65万石の一大名になった。とはいえ、、依然として大坂城におり、名目的には秀吉以来の地位を継承しているかに見えた

1605年、家康は将軍職が世襲制であることを示すため、自ら将軍職を辞し、子の徳川秀忠に将軍宣下を受けさせた
駿府に隠居して大御所と称した家康は、実権を握り続けた

■大坂の陣
「徳川家の下になるくらいなら、死んだ方がまし」

1614年10月【方広寺鐘銘事件】をきっかけに、ついに大坂冬の陣を起こし、12月いったん和議を結んだ
1615年4月、大坂夏の陣を起こし5月大坂城陥落。淀君、秀頼の自害によって戦いは終わった

【方広寺鐘銘事件】
方広寺は秀吉が国家鎮護を祈願するため1589年創建されたが1596年の地震で倒壊した
1612年本堂は再建され
1614年巨大な鐘も完成
その鐘に「国家安康」「君臣豊楽」「子孫殷晶」の部分がある
「家康の名を二分して、国安らかに、豊臣を君として子孫殷晶を楽しむ」の意味であると、家康は豊臣氏を責めた、、(確かに)
その責任を、「豊臣氏の国替え」か「淀君の江戸人質」か二者択一で迫り、大坂方を開戦にふみきらせた





千利休は茶道に対する責任をとったのです「弟子が黄金の茶室をつくるとは、、」

2022-01-28 13:32:46 | 日記
裕福な町衆の遊び

千利休は、茶の湯の儀礼を定め
茶道を確立した。侘茶方式である
侘茶は簡素・閑寂を精神とする
★千利休が作った茶室【妙喜庵茶室】が洗練した【草庵風茶室】(風情をとりいれ、簡素な、広さ4畳半以下の茶室)として有名
★秀吉は黄金の茶室を作り、内裏や大坂城、名護屋城などで茶会を催すなど、千利休とは異なる趣向で茶道を愛した
茶の湯は豊臣秀吉や諸大名の保護を受け大いに流行し、茶室・茶器・庭園に優れたものがつくられた

千利休は秀吉の側近的人物だったが、秀吉に切腹を命じられ、死んだ
なぜ切腹を命じられたかは明らかではない
、、が
私は
千利休の愛する侘茶茶と
秀吉好みの黄金の茶室の
極端さに
切腹された理由が浮かび上がってくるような気がする