1615年幕府は【禁中並公家諸法度17条制定】し朝廷の基準を明示した
■皇親政治にならぬよう親王をおさえる
■摂家の役割の重視
■武家の官位を幕府の許可制にして
諸大名が直接に朝廷と結びつくことを防止
■幕府は、摂家に朝廷統制の主導権を与え
【武家伝奏】という職に就かせ、これを通じて朝廷を操作した
♦️武家伝奏♦️公家から2人選ばれ、幕府から役料(年500俵)を受けた
彼らは朝廷と幕府をつなぐ窓口となり、京都所司代と連絡をとりながら、幕府側の指示などを朝廷側に伝え、朝廷側の願書などを幕府側に提出した
武家伝奏の職務は多忙となったため
1663年、議奏を設置し4~5人の公家が武家伝奏を補佐した
幕府はこうして朝廷が権力をふるったり、他の大名に利用されることがないように、天皇や公家の生活や行動を規制し、京都に封じ込める体制をとった。そのため朝廷側の財政は必要最小限にとどめられたし、天皇の行幸は幕末まで認められなかった
♦️後水尾天皇は譲位し、娘に即位させる願いがあった
1629年、5月7日、後水尾天皇は譲位の意思を固め、武家伝奏を江戸に派遣して幕府に伝えた。譲位の理由は
★数年病んでいた天皇の身体の腫物治療に灸を用いたいが、灸は天皇在位中には行えない。だから譲位を望む
★譲位したあとは一宮興子内親王(徳川秀忠の娘和子が母)が即位することなる。「女帝の儀くりしかるまじき」と記した
しかし5月の譲位要望は、幕府に断られた。秀忠の結論は「女性天皇誕生には同意するものの、6歳の孫娘ではいかにも時期尚早である」ということだった
1629年11月8日、後水尾天皇は幕府の同意を求めずに突然譲位した。公家たちには知らされておらず、武家伝奏の中院通村だけがこの日の譲位の相談を受けていた
12月27日、やっと徳川秀忠・家光からの返答が京都に届いた。天皇の意に沿うことが言明されていた。譲位は承認された。859年ぶりの女性天皇・明正天皇の誕生となった
幕府は役割を果たさなかった武家伝奏の中院通村を交代させ、さらに摂家に厳重な朝廷統制を命じた
ここに朝廷統制の基本的な枠組みは確立し、幕末まで維持された