るるの日記

なんでも書きます

(反面教師)信長は天皇のような権威が欲しかったが、秀吉は天皇の権威を利用し全国統一した

2022-01-27 15:53:03 | 日記
■織田信長の後を継いで全国統一を完成させた豊臣秀吉は、尾張の地侍の家に生れた木下藤吉郎だ。信長に仕えて信長の有力武士に出世し、信長が室町幕府を滅ぼした1573年、羽柴姓に改めた(信長の重臣・丹羽長秀と柴田勝家にあやかったもの)

■1582年本能寺の変を知ると
対戦中の毛利氏と和睦
山崎の戦いで明智光秀を討つ
そして、信長の後継者争いに名のりを挙げた

1583年、柴田勝家を賤ヶ岳の戦いで破る。ついで柴田勝家に味方した織田信孝(信長3男)を自刃させ
信長の後継者の地位を確立した

■同年、石山本願寺跡に大坂城を築きはじめた
信長は早くから大坂の地に目をつけ、石山本願寺に引き渡しを求めていた。信長の遺志を受け継いだ秀吉は、1583年から3年がかりで大坂城を完成させた→大坂の陣で焼失
★天守閣は5層9階建て
★下から3階まで石垣の中にある
★内部は金箔で飾る
★天守には黄金の組立て茶室
★築城当時には毎日石を積んだ1000隻の船を宣教師が見た

■1584年、尾張の小牧・長久手の戦いで織田信雄(信長次男)、徳川家康の軍と戦ったが、戦局が膠着し和睦
秀吉は東国を、軍事的に征服する方針を転換し
♦️【朝廷の持つ伝統的な支配権を利用した】
1585年、朝廷から関白に任じられ
1586年、豊臣の姓を与えられた

♦️関白になったとき秀吉は、天皇から日本全国の支配権をゆだねられたとして、【惣無事】=「全国平和」を呼びかけ、互いに争っていた戦国大名に停戦を命じ、その領国の確定は秀吉の決定にまかせることを強制した【惣無事令】
すべての階層で合戦・私闘が禁じられ、戦国の世も終息に向かったのでこの惣無事命令は、豊臣平和令ともいう
惣無事令は、秀吉が全国を平定する根拠となった

♦️秀吉は信長の後継者としての道を歩みながらも、軍事的征服のみに頼らず、伝統的支配権を利用して新しい統一国家をつくりあげた

1588年、秀吉は京都に新築した聚楽第に後陽成天皇を迎えて歓待し、その機会に諸大名に天皇と秀吉への忠誠を誓わせた

♦️1591年、全国統一を終えた秀吉は関白の地位を甥の豊臣秀次にゆずり、聚楽第も与えた
1593年、秀吉に実子秀頼が誕生したことから、秀次との関係が悪化
1595年謀反を企てたという理由で秀次を処刑した。聚楽第も破却
豊臣政権の政庁は伏見城に移った

♦️豊臣政権は秀吉の独裁化が著しく、政府組織の整備が十分に行われなかった
秀吉晩年に、やっと五奉行・五大老を置き重要政務を合議させる制度ができた


徳川家康が本願寺を東本願寺と西本願寺に分けたので、一向一揆を組織したのような力は押さえられた

2022-01-27 14:43:05 | 日記
信長の石山本願寺攻めに際し、石山から退去を決めた顕如

本願寺は豊臣秀吉のとき、京都堀川に移された(西本願寺)。顕如が死去すると、長男の教如は本願寺門主の座を弟の准如にゆずり隠居した

その後、教如は徳川家康から京都烏丸に別の寺を与えられ(東本願寺)ここに本願寺は東西両派に分かれることになった

現在
西本願寺は、真宗本願寺派本山として「お西」と呼ばれ
東本願寺は、真宗大谷派本山として「お東」とよばれている



織田信長の最大の敵は仏教組織だった→織田信長が一番欲しかったのは万人が認めて従わなければならないような価値を持つ自分

2022-01-27 14:26:08 | 日記
織田信長と対面したイエズス会宣教師たちによれば、信長は
中背
華奢
髭は薄い
声は甲高い
睡眠時間は短い
酒は飲まない
不潔や不整理を極度に嫌う
(果物の皮をふき忘れたために、信長に斬られた下女がいたくらい)
自尊心強く全てを見下す
家臣の進言に目をかさない
身分の低い者と気さくに話す
霊魂や来世を信じない徹底無神論者
【父が危篤のとき、信長は僧侶たちを呼んで病気回復の祈祷を行わせたが、数日後父は亡くなった
信長は僧侶たちを寺院に監禁し、「今度は自分たちの命について、愚像に祈るがよい」と言ったあと、僧侶らを射殺した】

そんな織田信長は
戦国大名のなかで全国統一の願望を最初に抱き、実行に移した
信長は尾張守護代の家臣・織田信秀の子です

1555年から戦い開始(24歳)

★1555年、守護代を滅ぼしてその居城・清州城を奪い、尾張を統一
★1560年、今川義元を桶狭間で破る
★1567年、美濃の斎藤氏を破り、斎藤居城である稲葉山城を岐阜城と改名し移る

(33歳)

【「天下布武」の印判を使用し
天下を自分の武力によって統一する意志を明らかにした】

★1568年、暗殺された前将軍足利義輝の弟で、信長の力を頼ってきた足利義昭を立てて入京

【足利義昭を将軍に就け、全国統一の第一歩を踏み出した❗️が、、
まず、伝統的な権威を手に入れようとする❗️】

信長は幕府から距離をおき
朝廷に対しては、荒廃した内裏の修理を進めて尊王ぶりをアピール
正親町天皇の皇子誠仁親王を形式上の養子にしたり、伝統的な権威を自らの手中におこうとした

★1570年、信長は近江の浅井長政と越前の朝倉義景連合軍を破る

★【寺院勢力をぶっ潰す❗️焼打ち】

(37歳)

1571年、浅井・朝倉連合軍に加担した比叡山延暦寺を焼打ち
強大な宗教的権威と経済力を誇った寺院勢力を屈服させた

★【室町幕府をぶっ潰す❗️】
1573年、足利義昭は将軍権力の回復をめざして、浅井・朝倉・武田と結んで信長に反抗したが、【武田信玄の急死】により進軍を中止
信長は浅井・朝倉を討ち
足利義昭を京都から追放
室町幕府を滅ぼした

★1575年、信長は三河長篠合戦で、宿敵武田信玄の子・武田勝頼軍に勝利

★1576年、近江に増大な安土城を築きはじめ、1579年に岐阜城を子の信忠にゆずって安土城に移った
本能寺の変の際に焼失

45歳

〈安土城〉
※琵琶湖岸の小山の上に築かれた
※中央には7階建ての壮大な天守閣
ここは信長の居所
天守閣の外壁や瓦には金箔
内部には狩野永徳に描かせた障壁画
など数々の豪華な装飾
※城外には摠見寺を建立
本尊は信長自身
城下の人々を参拝させた

★信長最大の敵は宗教団体
石山本願寺を頂点に
全国各地の真宗寺院を拠点とした
一向一揆であった

1570年、石山本願寺は第11代門主の顕如が、諸国の門徒に信長と戦うことを呼びかけて挙兵
前後11年に及ぶ石山戦争が展開された
1574年、信長は伊勢長島の一向一揆を滅ぼす
1575年、越前一向一揆を平定
1580年、石山本願寺を屈伏させ、顕如を石山から退去させた
約1世紀にわたり存続した加賀の一向一揆が解体したのも、このときである

(46歳)

1582年、甲斐の武田勝頼を天目山にて滅ぼす
その3か月後、、毛利氏征伐に向かう途中滞在した京都本願寺で、家臣の明智光秀にそむかれて敗死

(48歳)

♦️織田信長は、強力な軍事力をつくりあげ、優れた軍事指導者として、次々と戦国大名を倒した

♦️伝統的な政治経済の秩序や、権威に挑戦してこれを破壊し、新しい支配体制をつくることをめざした

♦️宗教政策では、延暦寺や一向一揆を制圧したほか、日蓮宗に対しても安土城下で浄土宗と論戦を行わせ(安土宗論)、そこでの敗訴を理由に激しい弾圧を加えた
仏教勢力には終始徹底した態度でのぞんだ。よって仏教から弾圧を受けていたイエズス会宣教師に対しては好意的な態度をとり、その活動を支援した

信長に仕えたアフリカ人

2022-01-27 12:38:05 | 日記
イエズス会宣教師が、ポルトガル人によってアフリカから連れて来られた黒人奴隷を、初めて織田信長に会わせた

信長は体に墨を塗っているものと思い込み、それが肌の色だと説明されてもなかなか信じようとしなかった

黒人はぎこちないながらも日本語を話せたことから、信長に気にいられ信長に仕えることになった

黒人は、本能寺の変のときも刀を手にして明智方の兵とよく戦ったが、ついに捕らえられてしまった

明智光秀の判断で命を助けられ、宣教師のもとに返されたらしいが、その後の消息は不明である

本能寺の変という日本の舞台に、大航海時代に奴隷だったアフリカ人が居合わせていた事実を、私たちも記憶の一隅にとどめておく必要があるだろう

鉄砲とキリスト教がやってきた「ザビエルはマラッカで日本人のアンジローと出会ったことがきっかけに日本行きを決意した」アンジローって誰?

2022-01-27 12:23:16 | 日記
♦️日本が戦国時代の頃のヨーロッパ
■ヨーロッパは近代社会に移行しつつあったが、ヨーロッパに隣接する地域には、強大なイスラーム勢力が存在し、ヨーロッパ(キリスト教世界)を圧迫していた

■ヨーロッパ諸国は海路アジアを目指した
〈当初の目的〉
★イスラーム商人仲介貿易によってヨーロッパにもたらさせていた高値の香料を直接アジア地域から入手するため
★アジアにキリスト教世界を拡大するため
■ヨーロッパ諸国は、新航路を開拓し海外貿易を拡大するとともにキリスト教の布教や、植民地獲得を求め、世界的規模の活動を始めた

■新航路開拓した人々
★1492年、イタリア人のコロンブス
スペイン女王イサベルの援助によって、大西洋を横断し、西インド諸島へ

★1498年、ポルトガル人のヴァスコダガマ
アフリカ大陸南端を回って
インド西海岸のカリカットへ

★16世紀始め、ポルトガル人のマゼランは、スペインの船隊を率いて
アメリカ大陸南端を回って太平洋へ出て、フィリピン諸島に
さらに西へ進み世界周航した

♦️東アジアでヨーロッパ人が貿易参入して、鉄砲がきた!

明→朝貢以外の貿易を禁止
東シナ海の中国・日本・朝鮮・台湾・琉球・ベトナム・フィリピンなどは、広く中継(密)貿易を行っていた。そこにヨーロッパ人が参入する

■ヨーロッパ人が日本に来た最初
1543年、ポルトガル人を乗せた中国船が種子島に漂着。この船は密貿易商人で、倭寇(日本の海賊)の頭でもある中国人【王直】の船だった
九州の五島・平戸が王直の活動拠
ポルトガル人は、王直の船に同乗し漂着したのである

このとき、島主の種子島時尭は、ポルトガル人の持っていた鉄砲を求め、家臣にその使用法と製造法を学ばせた【鋳物師の八坂金兵衛が、ポルトガル人船長に、娘を人身御供に献じて製法を教わった】
これを契機にポルトガル人は、毎年のように九州の諸港に来航し、日本との貿易を開始した

戦国大名の間に鉄砲が急速に普及
まもなく国産化に成功
堺、紀伊の根来・雜賀、近江の国友などで大量生産された

■南蛮人との南蛮貿易を行った地域
★肥前の松浦、大村、有馬、
★豊後の大友
★薩摩の島津
の領国が行った

〈主要港〉
松浦→平戸
大村→横瀬浦、福田、長崎
有馬→口之津
大友→府内
島津→鹿児島、山川、坊津

♦️南蛮貿易はキリスト教宣教師の布教活動と一体化して行われた

1549年イエズス会の宣教師フランシスコザビエルが鹿児島に到着し、大内義隆・大友義鎮ら大名の保護を受け布教開始した
その後も宣教師はあいついで来日し、教会やコレジオ(宣教師養成学校)、セミリオ(神学校)などをつくり、熱心に布教した

■【イエズス会】■
1534年、スペイン貴族イグナティウス・ロヨナがザビエルら同志7人とともにパリで創立したカトリック教団の1つ。1540年に教皇パウロ3世に公認され、会員は軍隊的訓練を受け、厳格な規律を守り、教皇を首長と仰ぎ、旧教勢力の拡大・新教撲滅の信念に燃え積極的な布教活動を行った

■【フランシスコ・ザビエル】■
ザビエルの東アジア布教に果たした功績は大きい。1904年【世界の伝導事業の保護者】とされた

1506年生まれ。ナバラ王国の貴族の子。パリに留学中イグナティウ・スロヨラと出会ってイエズス会に参加
1541年、ポルトガル国王の要請に応じ布教のためインドのゴアへ赴いた
1547年、マラッカで日本人のアンジローと出会ったことがきっかけに日本行きを決意。2年後アンジローとともに鹿児島に上陸した
1551年、2年3ヶ月にわたる日本での布教活動を終えゴアに戻る
翌年、中国布教を志し中国に出発
しかし、上陸を目の前にして病にかかり、上川島で46歳の生涯を閉じた

■1582年キリスト教信者の数
肥前・肥後・壱岐→11万5千人
豊後→1万人
畿内→2万5千人

■洗礼を受けたキリシタン大名もいて、大友義鎮、有馬晴信、大村純忠の3大名は、4人の少年使節を、ローマ教皇のもとに派遣した
かれらはローマで、教皇グレゴリウス13世に会い、1590年に帰国した
明智光秀の娘、細川忠興夫人の細川ガラシャは熱心な信者だった