■織田信長の後を継いで全国統一を完成させた豊臣秀吉は、尾張の地侍の家に生れた木下藤吉郎だ。信長に仕えて信長の有力武士に出世し、信長が室町幕府を滅ぼした1573年、羽柴姓に改めた(信長の重臣・丹羽長秀と柴田勝家にあやかったもの)
■1582年本能寺の変を知ると
対戦中の毛利氏と和睦
山崎の戦いで明智光秀を討つ
そして、信長の後継者争いに名のりを挙げた
1583年、柴田勝家を賤ヶ岳の戦いで破る。ついで柴田勝家に味方した織田信孝(信長3男)を自刃させ
信長の後継者の地位を確立した
■同年、石山本願寺跡に大坂城を築きはじめた
信長は早くから大坂の地に目をつけ、石山本願寺に引き渡しを求めていた。信長の遺志を受け継いだ秀吉は、1583年から3年がかりで大坂城を完成させた→大坂の陣で焼失
★天守閣は5層9階建て
★下から3階まで石垣の中にある
★内部は金箔で飾る
★天守には黄金の組立て茶室
★築城当時には毎日石を積んだ1000隻の船を宣教師が見た
■1584年、尾張の小牧・長久手の戦いで織田信雄(信長次男)、徳川家康の軍と戦ったが、戦局が膠着し和睦
秀吉は東国を、軍事的に征服する方針を転換し
♦️【朝廷の持つ伝統的な支配権を利用した】
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1585年、朝廷から関白に任じられ
1586年、豊臣の姓を与えられた
♦️関白になったとき秀吉は、天皇から日本全国の支配権をゆだねられたとして、【惣無事】=「全国平和」を呼びかけ、互いに争っていた戦国大名に停戦を命じ、その領国の確定は秀吉の決定にまかせることを強制した【惣無事令】
すべての階層で合戦・私闘が禁じられ、戦国の世も終息に向かったのでこの惣無事命令は、豊臣平和令ともいう
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惣無事令は、秀吉が全国を平定する根拠となった
♦️秀吉は信長の後継者としての道を歩みながらも、軍事的征服のみに頼らず、伝統的支配権を利用して新しい統一国家をつくりあげた
1588年、秀吉は京都に新築した聚楽第に後陽成天皇を迎えて歓待し、その機会に諸大名に天皇と秀吉への忠誠を誓わせた
♦️1591年、全国統一を終えた秀吉は関白の地位を甥の豊臣秀次にゆずり、聚楽第も与えた
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1593年、秀吉に実子秀頼が誕生したことから、秀次との関係が悪化
1595年謀反を企てたという理由で秀次を処刑した。聚楽第も破却
豊臣政権の政庁は伏見城に移った
♦️豊臣政権は秀吉の独裁化が著しく、政府組織の整備が十分に行われなかった
秀吉晩年に、やっと五奉行・五大老を置き重要政務を合議させる制度ができた