るるの日記

なんでも書きます

道理→武力に勝る武士が集まると、乱は多発する

2022-01-22 12:00:50 | 日記
■桓武平氏の発展
天皇家と結んで、めざましい発展を示したのは、伊勢・伊賀を基盤とする桓武平氏一族である

★平正盛
※伊賀国の荘園を白川上皇に寄進して政界進出の基盤を築く
※配流先の出雲で反乱を起こした源義親を討って武名を上げたら
※官職に就き伊勢平氏の地位を高めた
★正盛の子・平忠盛
※瀬戸内海の海賊を平定
※受領という立場として、千一体の千手觀音像を安置する得長寿院を造営したことで宮中に昇ることが許された
※武家という貴族の身分を獲得し、院近臣として重く用いられるようになった
忠盛の子・平清盛
さらに平氏勢力を飛躍的に伸ばした

■源氏の巻き返し
平正盛に討たれた源義親の子で、源義家の養子となった源為義は、摂関家と結びついた
為義の子・源義朝は東国に下って鎌倉を本拠地にし、関東武士との主従関係を築きあげた

■鳥羽法皇はこうした源平の武士を組織し、専制的な権力を築いたが1156年鳥羽法皇死去。まもなくその専制的権力を求める争いが劇化
かねてから皇位継承をめぐり鳥羽法皇と対立していた【崇徳上皇】が動いた。崇徳上皇は摂関家継承をめぐり兄・藤原忠道と争っていた藤原頼長と結ぶ
さらに源為義、平忠正らの武士を集めた
対して鳥羽法皇に引き継いで朝廷の実権を握った【後白河天皇】は、藤原通憲を参謀にし平清盛、源義朝らの武士を動員し崇徳上皇を破った
崇徳上皇は讃岐に流され
藤原頼長、源為義らは殺された
政治の実権を握った藤原通憲は、平清盛の武力を背景に荘園整理、悪僧・悪神人の乱暴の取締りを行った
荘園整理は王土思想(土地はすべて天皇の領土)によりながら、天皇の名のもとで行い、院や天皇が認めた荘園は公認した

■次は後白河上皇の近臣間の対立が激しくなる
平清盛と結ぶ藤原通憲に反感を持った近臣の1人藤原信頼が源義朝と結び、清盛の留守を狙って兵をあげ、通憲を自殺させた
清盛は京都に帰還すると、信頼らを滅ぼし、東国に逃れる途中の義朝を射ち、義朝の子・源頼朝を捕らえ伊豆に流した
武家の棟梁としての平清盛の地位と権力は急速に高まった

■これまで京都を舞台にした合戦がなかったので、これらの乱は貴族に衝撃を与え、武士が政治争いに使われたことで時代の大きな転換を人々に印象づけた



神仏の威力を恐れる無気力な貴族と、神仏の威力を恐れない僧侶

2022-01-22 10:52:45 | 日記
■天皇家権力
この頃、貴族の給与支給が有名無実化し、貴族の収益を確保するため
上級貴族を【知行国主】として一国の支配権を与え、その国の収益を取得させた(その近親者を国守に任じ、現地には目代を派遣)

また、院自身が国の収益を握る【院分国】も始まった
このため、公領は、院や知行国主や国司の私領のようになり、それは院政を支える基盤となった
院政のもう1つの基盤は大量の荘園だ
院に荘園の寄進が集中
寄進を受けた上皇は、それら荘園を近親の女性に与えたり、寺院に寄進した
【八条院は両親(鳥羽法皇と美福門院)から多くの荘園を譲られ大荘園領主となり、また女院という院号も与えられ特別待遇された】

■大寺院権力
大寺院では国家から支給されていた収入が、国司の滞納によって途絶え、経済的基盤を荘園に求めるようになった
争って数多くの荘園を所有するため
地方の寺院を支配下に置き、さらに下級の僧侶を僧兵として組織した。僧兵は多くが地方武士出身で武士と変わらぬ武力を発揮し、法皇の仏教への篤い信仰を背景に、国司と争ったり、神木や神輿を先頭に立てて朝廷に強訴を行い要求を通そうとした
かつて鎮護国家を唱えていた大寺院のこうした行動は、法律を守っていたら経済がたちいかなくなるから、実力で争うという社会となったからだ
神仏を恐れ、無気力になっていた貴族の力では、大寺院の圧力に対抗することができず、武士を用いて鎮圧させたため、武士は中央政界への進出を招いた

■武士権力
武士は一族や地域の結びつきを強め、諸国の在庁官人も多くが武士となり、地方の担い手は武士の手に移っていった
奥州藤原氏など

♦️こうして院政期には私的な土地所有が展開し、院・大寺社・武士など権力が分化し、社会を実力で動かそうとする風潮が高まった

他力の時代・天皇家が摂関家から政権を取り戻した原因「摂関家に皇子が生まれなかった」から・貴族がいい暮らしができるのは「上皇の力」

2022-01-22 09:52:59 | 日記
■摂関家の藤原頼通の娘には皇子が生まれず、摂関家を外戚にしない【後三条天皇】が即位した。天皇は学識にすぐれた人材を登用し、摂関家にはばかることなく国政に取り組んだ

★荘園の増加が、公領を圧迫しているとみた天皇は、厳しい荘園整理令を出した。今まも荘園整理令が出されたが、国司にゆだねられていたため不徹底だった。そこでこの整理令は国司まかせでなく、中央で徹底的な審査を行った
審査は天皇の側近をあて
荘園領主から証拠書類を提出させ
国司からも報告を取り寄せて
その2つを合わせて審査した

現地には使者が派遣されて調査し報告書が作成された(荘園の田畑の量、家の数、有用樹木の数量、荘園の絵図)
こうして荘園として認められ
基準に合わない荘園は停止
この整理令はかなりの成果を上げた
この整理によって、貴族や寺社の支配する荘園と、国司の支配する公領とが明確になっていった
こうした荘園整理が可能だったのは、国司の要求を天皇が受け入れつつ、天皇が主導権をもって行ったからである

■後三条天皇は白河天皇に位を譲り病気のため早く亡くなってしまった
国政を継いだ白河天皇は弟への皇位継承を嫌って、幼少の堀河天皇に譲位したのち上皇(院)として院庁を開き、幼少の天皇を後見しながら政治の実権を握る院政を行う

■やがて堀河天皇の死後、白河院は孫を鳥羽天皇に据え、本格的に院政を開始
このように院政は、自分の系統に皇位を継承させるために始まったもので、白河→鳥羽→後白河と3上皇の院政が100年余りつづいた
院庁下文(院庁から下される文書)や院宣(上皇の命令)が権威をもち、朝廷の政治に大きな影響下を与えた

■白河上皇は仏教をあつく信仰し、出家して法皇となり、多くの大寺院や堂塔、仏像をつくり、熊野詣や高野詣を繰り返し、盛大な法会を行った
院政時に天皇家が造営した法勝寺など「勝」の字のつく6寺は【六勝寺】と称される(院の仏法による支配の象徴)

■上皇のまわりには富裕な院近臣一団が集まり、上皇の力を借りて収益の豊かな官職任命された
白河上皇は、「自分の意のままにならぬのは鴨川の水、山法師、賽の目の3つ」だと語った
治水、延暦寺の僧兵、賭博だけが自分の意思通りにはならないという上皇の専制ぶりだ

■このように、それまで朝廷を支配してきた藤原氏の勢力は衰えざるを得なくなった。しかしまったく衰えたのではなく天皇の外戚かどうかに関わらず、天皇を補佐する地位は確立している


武力ある者が権力を持つ「平氏より強い源氏が東国武士団を形成」

2022-01-22 08:29:00 | 日記
■10世紀2つの大きな流れが発生
★地方の各地に、成長した豪族や有力農民が、勢力拡大のために戦うようになった
彼らは兵(つわもの)と呼ばれ、従者を率いて戦いを繰り返した

★畿内近国で成長した豪族が、朝廷の武官職となり、貴族に武芸をもって仕えるようになった
彼らも兵や武士と呼ばれ、宮中警備にあたったり、貴族のボディーガードや、都の警備にあたった

■2つの流れは、各地に一族の結びつきを中心とにしたた連合体
【武士団】をつくった

地方では、大豪族や任期修了後もそのまま任地に土着した国司の子孫などを中心に大きな武士団が成長し始めた。なかでも東国(関東地方)では、良馬を産したことから武士団の成長が著しかった

■桓武平氏【平将門の乱】
東国に早くから根をおろしたのが桓武天皇の曽孫(ひまご)の高望王(たかもちおう)が平姓を与えられたことで始まる桓武平氏である

■東国・桓武平氏の平将門の乱
935年、下総を根拠地として一族と戦いを繰り返し、叔父の国香を殺した
常陸の国司に反抗していた豪族の藤原玄明(はるあき)が将門に援助を求めてきたので、将門は玄明と939年反乱を起こした
将門は常陸の国府を襲って国印を奪い、さらに下野・上野の国府を攻め落とし、東国の大半を征服し
新皇と称した
朝廷軍が東国に到着前、国香の子の平貞盛が、下野の豪族藤原秀郷の力を得て将門を倒した

■元伊予の国司【藤原純友の乱】
藤原純友は瀬戸内海の海賊を率いて反乱をおこし、伊予の国府を奪い
東は淡路まで占領
西は大宰府を攻め落とした
ここでも、朝廷軍が到着前に
小野好古や、清和源氏の祖・源経基らによって純友は討たれた

■朝廷は、朝廷の軍事力の低さと、地方武士の実力を知り、武士を積極的に侍として奉仕させるようになった
地方では、地方武士を国司のもとに組織するとともに、諸国の治安維持を分担させた

10世紀後半~11世紀前半にかけて
武士の家は「兵の家」として定着し、武士の間には「弓矢の習い」「兵の習い」という慣習も生じた

主従関係も明確になり、中央貴族の血を引く者を【棟梁】とし、武家(軍事貴族)を形成し、勢力を築く傾向が強まった
源経基(源氏の祖)の子・満仲は摂関家に仕えていたが、その子・頼光と頼信兄弟はさらに摂関家に近づき、その保護を得て棟梁としての権威を高めた

■平氏より強い源氏は【東国武士団】を形成

★平氏一族は東国を地盤とし栄えていた
平忠常が下総に勢力を広げて反乱を起こしたとき、朝廷は平直方に追伐させようとしたが効果がなく、改めて源頼信に討たせようとしたところ、平忠常は戦わずにして降伏
源頼信の武名を恐れたものとみられ、これをきっかけに源氏が東国に進出していった

★陸奥では豪族安倍氏の勢力が強大で国司と争っていたが、源頼信の子・頼義が陸奥守となると安倍氏はいったんはこれに服したが、再び乱を起こした
安倍頼時死後は貞任・宗任兄弟が頑強に抵抗したため、乱は長期戦に
源頼義は、子の義家とともに東国の武士を率いて安倍氏と戦い、出羽の豪族【清原氏】の助けを得て、やっと安倍氏を滅ぼした
安倍氏にかわって陸奥・出羽両国で大きな勢力を得た清原氏一族に内紛が起きた
※清原真衡が弟・家衡と争い真衡死亡
※次は家衡が、母の連れ子・藤原清衡と争う
※そこに陸奥守・源義家が藤原清衡を助け家衡と戦い、苦戦の末に内紛を平定
これらの戦いを通じて
源氏は東国武士団との主従関係を強め、武士の棟梁としての地位を固めた