■桓武平氏の発展
天皇家と結んで、めざましい発展を示したのは、伊勢・伊賀を基盤とする桓武平氏一族である
★平正盛
※伊賀国の荘園を白川上皇に寄進して政界進出の基盤を築く
※配流先の出雲で反乱を起こした源義親を討って武名を上げたら
※官職に就き伊勢平氏の地位を高めた
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★正盛の子・平忠盛
※瀬戸内海の海賊を平定
※受領という立場として、千一体の千手觀音像を安置する得長寿院を造営したことで宮中に昇ることが許された
※武家という貴族の身分を獲得し、院近臣として重く用いられるようになった
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忠盛の子・平清盛
さらに平氏勢力を飛躍的に伸ばした
■源氏の巻き返し
平正盛に討たれた源義親の子で、源義家の養子となった源為義は、摂関家と結びついた
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為義の子・源義朝は東国に下って鎌倉を本拠地にし、関東武士との主従関係を築きあげた
■鳥羽法皇はこうした源平の武士を組織し、専制的な権力を築いたが1156年鳥羽法皇死去。まもなくその専制的権力を求める争いが劇化
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かねてから皇位継承をめぐり鳥羽法皇と対立していた【崇徳上皇】が動いた。崇徳上皇は摂関家継承をめぐり兄・藤原忠道と争っていた藤原頼長と結ぶ
さらに源為義、平忠正らの武士を集めた
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対して鳥羽法皇に引き継いで朝廷の実権を握った【後白河天皇】は、藤原通憲を参謀にし平清盛、源義朝らの武士を動員し崇徳上皇を破った
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崇徳上皇は讃岐に流され
藤原頼長、源為義らは殺された
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政治の実権を握った藤原通憲は、平清盛の武力を背景に荘園整理、悪僧・悪神人の乱暴の取締りを行った
荘園整理は王土思想(土地はすべて天皇の領土)によりながら、天皇の名のもとで行い、院や天皇が認めた荘園は公認した
■次は後白河上皇の近臣間の対立が激しくなる
平清盛と結ぶ藤原通憲に反感を持った近臣の1人藤原信頼が源義朝と結び、清盛の留守を狙って兵をあげ、通憲を自殺させた
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清盛は京都に帰還すると、信頼らを滅ぼし、東国に逃れる途中の義朝を射ち、義朝の子・源頼朝を捕らえ伊豆に流した
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武家の棟梁としての平清盛の地位と権力は急速に高まった
■これまで京都を舞台にした合戦がなかったので、これらの乱は貴族に衝撃を与え、武士が政治争いに使われたことで時代の大きな転換を人々に印象づけた