るるの日記

なんでも書きます

朝敵?足利尊氏、九州武士の協力で後醍醐天皇政府軍を破る

2022-01-25 11:49:48 | 日記
■足利高氏が足利尊氏と成る

鎌倉幕府は滅亡しても、武士全体の力は少しも衰えていなかった。そもそも倒幕は、御家人や悪党という武士の参加があって成就したのである
御家人代表が足利高氏であり、
護良親王は畿内の武士たちを統率した
足利高氏は御家人に挙兵を促した功績を高く評価され、天皇の諱(いみな・実名)尊治の一字を許されて尊氏と名のった

■護良親王の勘は正解だったのに、、

護良親王は足利尊氏を警戒し、強引に征夷大将軍に就任し、武士の掌握に乗り出すが、将軍を核とした武士政権を否定する後醍醐天皇は、親王の行動に批判的であった

護良親王は失脚、鎌倉に流された。鎌倉に赴任していた足利直義は親王を拘禁。やがて殺した。護良親王亡きあと、武士の代表としての足利尊氏の座は不動のものとなり、新政権に失望した武士たちの期待が寄せられた

■新政への不満は、地方武士の反乱として噴出した

★1335年北条高時の遺児北条時行は信濃で挙兵して武蔵に進出し、足利直義の軍を破り鎌倉を占領した
足利尊氏は東へ下る許可と、征夷大将軍への任命を後醍醐天皇に求めたが、天皇は要請を却下
足利尊氏は勅許を得ぬまま兵を率いて京都を出発し、各所で北条軍を破って鎌倉を奪回
ついに新政府に反する態度を明らかにした

■後醍醐天皇に愛された新田義貞
新政府は足利尊氏討伐するため、新田義貞を派遣。
〈新田氏は足利氏と出自を同じくする名門だが、鎌倉時代は恵まれない状況にあった
後醍醐天皇は、そんな不遇の新田義貞に注目して、新政府で重要な地位を与え、足利尊氏を牽制する役割を担わせていた〉
足利軍と新田軍は箱根の竹ノ下で戦う
新田義貞は敗れ京都へ敗走した
足利尊氏は追いかけ京都に進入
1336年、足利尊氏は奥州から上京してきた北畠顕家らに敗れ、いったん九州に落ち延びた

■足利尊氏と九州武士で政府軍を破る

九州は足利氏と縁のない土地であったが、武士たちは次々と尊氏のもとにはせ参じた
勢いを取り戻した足利尊氏は、大軍を率いて東上し、摂津の湊川で楠木正成を戦死させ、京都を制圧した
足利尊氏は後醍醐天皇を廃し、持明院統の光明天皇を擁立
1336年11月7日、京都で室町幕府が成立した

12月末、後醍醐天皇は京都を脱出し、吉野にこもり、「自らが正統の天皇の位である」と主張。吉野にも朝廷が出現した〈南朝
以後約60年間両朝は抗争を続けた


「自我に目覚め、力をつけた武士の時流」に逆行した後醍醐天皇

2022-01-25 10:29:43 | 日記
♦️後醍醐天皇は天皇政治の理想的時代である醍醐・村上天皇の治世を模範とし新しい政治を行った
建武の新政だ
公家政権の復活である

★土地の所有権の確認は、天皇の綸旨(指令書)を唯一の根拠とした〈土地の領有を認定する権限は天皇によって掌握された〉

★知行国否定

★幕府否定(天皇を脅かすため)

★院政否定(天皇を脅かすため)

★摂政・関白廃止(天皇を脅かすため)

★停止していた太政官八省を復活させ、長官として上級貴族を任命し、天皇指揮下に再編成

★地方支配組織の要として、実態を失っていた国司を重視し、上級貴族や側近を登用
武士が任じる守護も併設

★中央機関
※記録所
国政の重要事項を議決

※雑訴決断所
所領問題処理機関
公家と多くの武士が用いられた

※恩賞方
倒幕に功のあった人の恩賞を行う
公家、武士が用いられた

★天皇に忠誠を尽くすことによってのみ、経済的権益を入手できた

♦️新政は3年ほどで崩れた
〈原因〉
■天皇権力の性急な強化に無理が生じたから
※「土地の保障は天皇の綸旨による」という布告を聞いた人々は、大挙して京都に集まり綸旨発給を求めた。なかには戦乱のどさくさに紛れて領地を不当入手する者もいた
政務は停滞し、人々の信頼は失っていった。天皇個人がいかに有能であったとしても、実際に政務を行う現場では限界があるのだ!

■新政府に参加した人々の立場がまちまちで、強調して政務にあたれなかった
※公家→貴族政治の復活(伝統的政策)
※武家→武家政治の出現(革新的政策)
をそれぞれ望む
彼らすべての要望を満足させることは不可能

■幕府の存在否定
武家の実力が公家を凌駕していたこの時代に、天皇親政の理想を掲げた施政方針そのものが時流に逆行するものだった

★内裏造営のため、全国に重税を課す

★新銭発行という場あたり的な経済政策



「鎌倉幕府滅亡」戦いは空間だけではない。時機は必ず熟す

2022-01-25 09:35:48 | 日記
■即位した大覚寺統の後醍醐天皇

宋の朱子学を学んだ天皇は政治に強い意欲を示し、父・後宇多上皇の院政を廃して天皇親政を開始した

★平安時代に理想を求めた天皇は、幕府を嫌う
★朱子学の大義名分論からも幕府への不満を持つ
★幕府が後二条天皇の皇子を皇太子に定め、その次の皇太子を持明院統の量仁親王と定めたので、後醍醐天皇は自分の皇子に皇位を譲って院政を行うために、幕府を否定した
★幕府は人々からの批判が高まっている状況で、後醍醐天皇は武力による倒幕を決意した

■倒幕までの道のり
★正中の変計画→明るみに出て失敗
天皇が近臣・日野資朝、日野俊基らと協議した倒幕計画は、六波羅探題を襲おうとするものだったが、1324年この計画は明るみに出て資朝、俊基は幕府に逮捕された
幕府はこのときは寛容で資朝こそ佐渡に流したが、俊基を許し、天皇も問責せず

★元弘の変→天皇配流
後醍醐天皇は親王2人を延暦寺座主に任じ、僧兵の力を引き寄せようとした。日野俊基は山伏の姿になって、畿内の武士を説いてまわった
この企ても、武力による倒幕に反対する、近臣・吉田定房の密告によって露見
幕府は六波羅探題に天皇の捕縛を命じた
天皇は近臣たちと京都を脱出
山城の笠置山にはいり、畿内の武士たちをつのった
河内の悪党・楠木正成が挙兵した
しかし、その他に天皇の呼びかけに応じようとした者はなく、頼みの僧兵も動かず
※天皇は捕らえられ隠岐島に流され
※楠木正成は姿をくらました
※日野俊基、日野資朝は首をはねられた
※幕府は、持明院統の光厳天皇をたてた

★倒幕の時機は熟した
♦️北条氏に不満を持つ武士、とくに畿内の悪党の動きがここからにわかに活発になる。楠木正成は河内の千早城で再び挙兵し幕府と戦った。戦いの作法にとらわれない縦横無尽な悪党戦法であった

♦️大和の山間部では、護良(もりよし)親王が兵を挙げ、悪党勢力の結集をはかった

♦️播磨では、悪党出身の赤松円心が立ち上がった

♦️地方でも反幕府の機運は高まっていった
肥後の菊池氏
伊予の土居氏・得能氏

♦️後醍醐天皇は隠岐島を脱出し、伯耆の名和長年に迎えられ、船上山にこもった
天皇のもとには多くの武士が馳せ参じた

■幕府と足利高氏
幕府は船上山を攻撃するため、足利高氏を京都に派遣した

〈足利高氏〉
源氏の名門
頼朝亡きあとの源氏の正嫡
代々北条氏(得宗家)と縁戚関係

鎌倉を出発した足利高氏は、密かに後醍醐天皇と連絡をとりながら京都に進み、幕府を討つ意志を表明した。同時に各地の有力御家人に使者を送り、倒幕の協力を求めた
足利高氏の離反は、形成を凝視していた全国の武士たちに決定的な影響を与えた。彼らは倒幕軍に身を投じ、各地の幕府の拠点を攻撃した
足利高氏は赤松円心らと六波羅探題を攻め落とし、関東では足利高氏の子・千寿王のもとに武士たちが集結
源氏一門・新田義貞がこの大軍を指揮し鎌倉へ攻めこんだ。
北条軍は敗れた
北条高時をはじめとする北条氏一族
主だった御内人は、次々と自殺
鎌倉幕府は滅亡した

♦️1鎌倉幕府滅亡は1333年5月足利高氏挙兵から1ヶ月のちのことだった。後醍醐天皇は伯耆をあとにし、途中、光厳天皇の廃位を宣し京都に帰った
ここに後醍醐天皇を中心とする公家政権が誕生した