■足利高氏が足利尊氏と成る
御家人代表が足利高氏であり、
護良親王は畿内の武士たちを統率した
足利高氏は御家人に挙兵を促した功績を高く評価され、天皇の諱(いみな・実名)尊治の一字を許されて尊氏と名のった
■護良親王の勘は正解だったのに、、
護良親王は足利尊氏を警戒し、強引に征夷大将軍に就任し、武士の掌握に乗り出すが、将軍を核とした武士政権を否定する後醍醐天皇は、親王の行動に批判的であった
護良親王は失脚、鎌倉に流された。鎌倉に赴任していた足利直義は親王を拘禁。やがて殺した。護良親王亡きあと、武士の代表としての足利尊氏の座は不動のものとなり、新政権に失望した武士たちの期待が寄せられた
■新政への不満は、地方武士の反乱として噴出した
★1335年北条高時の遺児北条時行は信濃で挙兵して武蔵に進出し、足利直義の軍を破り鎌倉を占領した
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足利尊氏は東へ下る許可と、征夷大将軍への任命を後醍醐天皇に求めたが、天皇は要請を却下
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足利尊氏は勅許を得ぬまま兵を率いて京都を出発し、各所で北条軍を破って鎌倉を奪回
ついに新政府に反する態度を明らかにした
■後醍醐天皇に愛された新田義貞
新政府は足利尊氏討伐するため、新田義貞を派遣。
〈新田氏は足利氏と出自を同じくする名門だが、鎌倉時代は恵まれない状況にあった
後醍醐天皇は、そんな不遇の新田義貞に注目して、新政府で重要な地位を与え、足利尊氏を牽制する役割を担わせていた〉
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足利軍と新田軍は箱根の竹ノ下で戦う
新田義貞は敗れ京都へ敗走した
足利尊氏は追いかけ京都に進入
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1336年、足利尊氏は奥州から上京してきた北畠顕家らに敗れ、いったん九州に落ち延びた
■足利尊氏と九州武士で政府軍を破る
九州は足利氏と縁のない土地であったが、武士たちは次々と尊氏のもとにはせ参じた
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勢いを取り戻した足利尊氏は、大軍を率いて東上し、摂津の湊川で楠木正成を戦死させ、京都を制圧した
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足利尊氏は後醍醐天皇を廃し、持明院統の光明天皇を擁立
1336年11月7日、京都で室町幕府が成立した
12月末、後醍醐天皇は京都を脱出し、吉野にこもり、「自らが正統の天皇の位である」と主張。吉野にも朝廷が出現した〈南朝〉
以後約60年間両朝は抗争を続けた