るるの日記

なんでも書きます

戦国時代はさまざまな人々が潤った

2022-01-27 10:36:18 | 日記
■まず物資を調達する
戦国時代は木綿の需要が高まった
兵衣、鉄砲の火縄などの武具に必要だからだ。輸入品であった木綿をもたらす商人の役割が重要となり、各地で木綿栽培が急速に普及した
このように
戦国大名はさまざまな物資を調達する必要があり、領国内に分散していた商工業を見直し、有力な商工業者(御用商人)に統制させた

■拠点の整備
戦国大名は次に城、城下町の建設、鉱山開発、大河川の治水灌漑などの事業を行った
金山→越後・佐渡・甲斐
銀山→石見・但馬
治水灌漑→甲斐の堤防「信玄堤」

戦国大名は、城下町を中心に領国を1つのまとまりをもった経済圏にし、城下には家臣の主な者が集められ、商工業者も集住し、領国の政治、経済、文化の中心としての城下町が形成した
★朝倉氏→一乗谷(福井)
★北条氏→小田原
★今川氏→府中(静岡)
★上杉氏→春日山(上越)
★大内氏→山口
★大友氏→府内(大分)
★島津氏→鹿児島

新しくつくられた地方の中小寺院の門前町が繁栄した
★伊勢神宮→宇治・山田
★信濃善光寺→長野
★延暦寺→琵琶湖畔の坂本

★浄土真宗→寺内町
中核をなす寺院の周りに僧侶や門徒の商工業者の居住地が整然と配置され、戦国大名の城下町とよく似た構造を持っていた
※京都の山科
※摂津の石山(大阪)
※加賀の金沢
※河内の富田林
※大和の今井
※和泉の貝塚

■港や宿場町が発展した
地方と京都など遠隔地商売が活発化したため発展し、商工業者たちが市政を運営を行った
※堺
※博多
※薩摩の坊津
(明や琉球などの貿易で栄えた)

※尾道・兵庫
(瀬戸内海水運の要地)

※淀・山崎
(京都の西陸揚港)

※坂本・大津
(京都の東陸揚港)

※小浜・敦賀
(琵琶湖の水運を介して京都との連絡が容易だった、日本海水運基地)

※津軽の十三湊
(蝦夷地交易と日本海水運の中継地)

※桑名・大湊・江尻・神奈河・品河
(太平洋沿岸)



戦国大名は法律を定め、大名自身の行動をも規定し、それを自ら遵守し、それに拘束されることによって正統な権力者として認められた

2022-01-27 09:36:28 | 日記
戦国大名は富国強兵のために新しい体制をつくることにつとめた

★分国法(家法)を定めた
戦国大名の定めた法律である
家臣・領民だけではなく大名自身の行動も規定していた。戦国大名は分国法を自ら遵守し、それに拘束されることによって、初めて正統な権力者として認められた


分国法の一部
領国平和実現のために
※喧嘩両成敗
喧嘩をした者は理由がなんであれ双方を死罪に処す

※連座制
個人の罪は、同じ村に住む者全体の罪

など

★花押から印章へ
戦国大名の性格の違い


武田氏の龍丸印は「昇龍」を刻んである。これはその右の北条氏の「虎印」(禄寿応穏の4字を収めた方形印の上に虎がうずくまっている)に対抗したもの。まさに龍虎相打つ形である
上杉氏は「獅子印」を用いており3者が対立していた情勢が印章にも示されている
織田信長の「天下布武」の印は、統一者らしい気風がよく反映されている
これに反して徳川家康は「忠恕」といった道徳的な文字を刻んだ印を用いている
大友宗麟の印章は洗礼名フランシスコの頭文字を組み合わせ「FRCO」と示している



戦国大名とは、上の権威に頼るのではなく、下からの支持を得る能力がある者

2022-01-27 08:48:46 | 日記
■室町幕府内部が政権争いにあけくれている間に、地方では戦国大名が力をつける
各地方では戦国争乱のなかから、地域に根をおろした実力ある支配者が台頭し、領国をつくりあげ独自の支配を行う地方政権が誕生した
これが戦国大名だ

戦国大名は島津、大友、今川、武田、六角などを除くと、いずれも守護代か国人から身をおこした者だ
幕府の権威失墜は、守護職の意義も低下させた

戦国大名として権威を維持していくためには、上の権威に頼るのではなく、下からの支持が必要であり、戦国大名には、新しい軍事指導者・領国支配者としての能力が強く求められた

★戦国大名の軍事力増強
戦国大名は従来の家臣に加え、新しく服属させた国人や、地侍を家臣として抱えていくことで、その軍事力を増強した

※国人→知行地を与えられ、給人と呼ばれる上級家臣を構成

※地侍→年貢の中間得分の収得を保障され、足軽など下級家臣を構成

※下級家臣は上級家臣に預けられる形で組織化した

※大名→家臣の収入額を貫高に換算し、把握し、地位と収入を保障
家臣には貫高に見あった軍役を負担させ、戦国大名の軍事制度の基礎が確立した

♦️幕府の政権争い
★幕府では、9代将軍足利義尚が病死。10代将軍に善尚の叔父義視の子・義稙が就くも、細川政元と対立し、将軍の地位を奪われた
細川政元は初代堀越公方(伊豆)足利政知(6代将軍足利義教の子)の子・義澄を11代将軍に据えた
この政変で、将軍の権威は完全失墜
幕府主導権は細川氏の手に移る
【細川氏→清和源氏足利氏支流】
細川政元は細川氏内部の対立から暗殺され、幕府主導権は細川氏家臣
三好長慶に移る
さらに三好長慶の家臣・松永久秀に幕府主導権は移る。松永久秀らは13代将軍足利義輝を暗殺 〈操りにくかったから〉
このように政治的混迷がつづく

♦️各地の有力大名による分国

■【北条氏】が関東の大半を支配

鎌倉公方の足利成氏が、関東管領の上杉憲忠を殺害し古河公方(下総)に逃げた
8代将軍義政は、足利成氏追伐のため、兄弟の足利政知を派遣したが、鎌倉に入れず、伊豆の堀越に堀越公方を構えた
以後、鎌倉公方は
※古河公方
※堀越公方
に分かれ争う

関東管領上杉氏も
※山内
※扇谷
に分かれ争う
京都から下ってきた北条早雲が(伊勢新九郎長氏・北条氏を名乗るのは子の氏綱から)
足利政知死後に、堀越公方を継いだ足利茶々丸を滅ぼして伊豆を奪い
相模に進出して小田原城を本拠地とした
その子・北条氏綱は武蔵を征服
孫・北条氏康のときは関東の大半を支配した

■上杉謙信が越後を統一
越後の守護上杉氏の守護代長尾氏の長尾影虎が、北条氏に追われて越後に逃れていた関東管領上杉憲政から、上杉氏の家督と、関東管領の地位を譲られ、上杉謙信と名乗った

■武田信玄は甲斐・信濃・西上野・駿河

甲斐の武田信玄は信濃にも領国を拡大し、西上野や今川氏の領地である駿河にも進出。上杉謙信とも川中島などで戦った

■斎藤道三は美濃
美濃守護・土岐氏を追放

■毛利元就は中国地方
守護大名・大内義隆が、重臣・陶晴賢に国を奪われ、さらに安芸の国人の毛利元就が陶氏を滅ぼし国を奪い、山陰地方の尼子氏とも戦闘を繰り返しながら、中国地方に勢力を広げた

■その他
★伊達氏→東北
★今川氏→駿河・遠江
★六角氏→近江
★朝倉氏→越前
★織田氏→尾張
★松平氏→三河
★長宗我部氏→四国
★大友氏→九州
★竜造寺→九州
★島津氏→九州