るるの日記

なんでも書きます

時代変動を利用して大きな富を得た豪商気風の桃山文化

2022-01-28 13:08:33 | 日記
■秀吉は晩年に伏見城を築いてそこに住んだ。のちにその城跡に桃の木が植えられたので、この地を桃山と呼ぶようになった
信長・秀吉の文化を桃山文化という

【豪華さと現世主義】
★桃山文化は、戦争・貿易など、時代の変動を利用して大きな富を得た
豪商の気風と経済力とが反映された
豪華さが桃山文化の第一の特徴だ

★寺院勢力が弱められ、仏教色が薄れ、現実的で力感がある絵画や彫刻などが制作された
現世主義こそ桃山文化の第二の特徴だ

■桃山文化の象徴【城郭】

それまでは軍事的理由から山城だったが、領国支配の利便を考慮して平地につくられるようになった
★天守閣を持つ本丸
★土塁・水濠で囲む
★いくつかの石垣でつくられた郭(城の囲い)をもつ
★軍事施設であり、城主の居館・政庁としての機能もあわせ持つ
★書院造を取り入れた居館
★殿舎建造
★襖・壁
金箔地に青・緑を彩色する方式(金碧画)の障壁画が描かれた
画家
※狩野派
※海北友松
※長谷川等伯
※雲谷等顔

★欄間
透かし彫りの彫刻

■活字印刷
★銅活字印刷が朝鮮侵略の際に朝鮮から伝えられた
★ヨーロッパ活字印刷技術が宣教師によって伝えられた
日本や中国の印刷は、木版に文字を彫り、それに墨を塗って紙に刷りとる木版印刷が中心だった
銅活字印刷やヨーロッパ活字印刷は
漢字とひらがなからなる日本語表記は複雑で定着せず、再び木版印刷が主流となった



「日本領土だけでは知行地が不足する」という焦り→秀吉の心配性からの誇大妄想で朝鮮侵略をした

2022-01-28 12:17:05 | 日記
♦️豊臣秀吉は日本を中心とした新しい東アジアの国際秩序をつくることを志した

1587年、秀吉は朝鮮に対し「入貢」と「明出兵の先導」を求めたが朝鮮は拒否
秀吉は出兵を準備し、肥前の名護屋に本陣を築いた

前後7年に及ぶ日本軍の朝鮮侵略は、朝鮮の人々を戦火に巻き込み、多くの被害を与えた
日本は膨大な戦費と兵力を無駄に費やした結果となり、豊臣政権を衰退させる原因となった

朝鮮侵略は秀吉の誇大妄想によって引き起こされた面が強い。その誇大妄想は「日本の知行地不足を解決するため、領土拡大をしなければ」という焦りで引き起こされた

■〈秀吉の途方もない計画〉
【後陽成天皇を北京に移し、豊臣秀次を中国の関白に任命する】

★1592年、15万余りの大軍を朝鮮に派遣。釜山→漢城(ソウル)→平壌を落とした

★朝鮮水軍の活躍、義明軍の抵抗、明の援軍などにより、日本軍は補給路を断たれ、次第に戦況は不利となる
小西行長を中心とする現地軍は休戦し、秀吉に明との講和を勧めた

■1593年和平交渉始まる
〈秀吉の途方もない条件〉
★明の降伏
★明の皇女と、天皇との婚姻
★勘合貿易の再開
★朝鮮南部の割譲
この要求は講和を急ぐ小西行長や明側の将軍の手で握りつぶされ
明王には正確に伝達されなかった

■1596年、明は日本に使者を派遣
秀吉に対して
★「汝を封じて日本国王となし、その朝貢を許す」という態度をとったので、秀吉は激怒し交渉決裂
1597年、秀吉は再び朝鮮に14万余りの兵を送ったが、日本軍は最初から苦戦を強いられた
1568年秀吉死亡すると撤兵した

キリスト教が、豊臣秀吉と合わなくなってきた

2022-01-28 11:31:04 | 日記
■秀吉の国家体制に合わなくなったキリスト教取締りは、外国と交流しながらだったので徹底できず

★1587年、豊臣秀吉はキリスト教が、国家体制の妨げになると考えるようになり、まず大名のキリスト教入信を許可制にした

★キリシタン大名の高山右近には棄教を迫ったが、拒否したため所領を没収した。これはキリシタン大名の増加と連携を警戒する秀吉による、みせしめであった
一般人の信仰は「その者の心次第」として禁じなかった

ところが秀吉は、表向きは「宣教師が神社仏閣を破壊している」という理由、本音は「キリスト教と南蛮貿易の分離」ねらいで、突然【宣教師追放令】を出して宣教師の国外追放を指令した
一方豪商らの東アジア諸国との貿易を奨励した。これがキリスト教取締りを不徹底にし、キリスト教はなお各地に広がった

■「スベイン宣教師がキリスト教を利用し日本侵略しようとしている」噂をポルトガル人が流す→スベイン宣教師を処刑

1596年、スベイン船が土佐に漂着したとき、ポルトガル人の嘘から「スベイン人が領土拡張のために、宣教師を利用している」という噂が伝わる
これを知った秀吉はスベイン系フランシスコ会を中心とする宣教師・信者26名を捕らえ、長崎に送って処刑した
背景にはフランシスコ会とイエズス会の対立があったが、この事件は日本の支配者層の間にキリスト教に対する警戒心を植えつけた

【どんぶり勘定ではダメ】大切な米の生産のために、土地を整理し、農民を管理した

2022-01-28 10:52:14 | 日記

■豊臣秀吉政権の経済的基盤

各地に設けられた約200万石の直轄地
★年貢
秀吉直臣への扶持米・戦時の兵糧米・大名に与える知行地

★鉱山
佐渡・石見・但馬などの鉱山を直轄地にして、金・銀の生産にともなう収益を独占
貨幣鋳造

★重要都市を直轄にして、豪商を統制下に置き、その経済力を活用
※堺の千利休・小西隆佐
※博多の島井宗室・神屋宗湛

■検地

★検地帳は石高で記載された。その結果、生産力が米の量に換算された【石高制】が確立

★直臣を検地奉行として派遣、検地規則の検地条目を出して、各地で統一した基準のもとに地検を行わせた

★1尺(30.3センチ)の検地尺を基準に
1歩→6尺3寸(191センチ四方)
30歩→1畝
300歩→1段
10段→1町

★枡は京枡に統一
単位→石・斗・升・合

★村ごとに田畑・屋敷等の等級を調査し、石高を定めた
竿入検地を原則とし、田畑に上・中・下・下下の等級をつけた

※上田1段は1石5斗
※中田1段は1石3斗
というように、生産力を米で表した
1段あたりの生産力を石盛
石高→石盛に面積を乗じて得られた量
年貢納入額→石高に年貢課税率を乗じた

★一地一作人の原則
1つの土地に複数の権利が重なり合う状態を整理し、1つの土地に1人の権利者だけを認めた
検地帳には実際に耕作している田畑と、屋敷地が石高で登録された
実際に耕作している者は、百姓として登録され、名請人といった
名請人は自分の田畑の所有権を法的に認められることになったが、石高に応じて年貢の負担を義務づけられた
実際の納入は村高に応じて、村が一括して納入する村請制がとられた

★秀吉は全国統一を終えた1591年、全国の大名に対し、領国のそれまでの検地の成果を記した【検地帳・国絵図】を提出させた
すべての大名の石高が正式に定まり、大名はその石高にみあった軍役を奉仕する体制ができあがった

刀狩令

百姓から武器を没収することで、百姓一揆を防止し農業に専念させるため行われた

■人ばらい令で、身分の確定
兵農分離・農商分離完成
★武家奉公人が町人・百姓になること禁止
★百姓が商人や職人になることを禁止
★武家奉公人・町人・百姓の職業別に戸数、人数を調査する全国的戸口調査が行われた