るるの日記

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徳川綱吉政権・武士の価値観の大変化「死や血を忌み嫌う」「権力による慈愛」そして「富士山噴火🌋」

2022-01-30 10:39:40 | 日記
17世紀後半
5代将軍・徳川綱吉政権成立


♦️社会全体の価値観の変化♦️
■代がわりの武家諸法度発布
秀忠による最初の発布以来、代々の将軍は第1条で「文武弓馬の道、あいたしなむべき事」と命じてきた
綱吉はこれを改めて「文武忠孝を励し、礼儀を正すべき事」とした
武士に要求された武道から
【忠孝・礼儀】へとかわった
★主君に対する忠
★父母に対する孝
★礼儀による上下の秩序
が平和な時代の支配の論理となった
この支配思想は、儒教を根拠としたものである
★綱吉は湯島聖堂を建て林信篤を大学頭に任じたのも儒教重視をものがたる
綱吉は儒教のほかに
仏教、神道、陰陽道も支持した

■1687年から22年間、犬に限らず、小さな虫にいたる生類の殺生や虐待を禁じた。これは人間の弱者にも向けられた
「殺生を禁じ、生あるものを放つ」仏教の「放生の思想」に基づく生類憐み令は【権力による慈愛政治】である
しかし、民衆にとってはいきすぎた動物愛護命令は迷惑なものであった。特に犬小屋の犬の飼育料を負担させられた関東の農民や町民の迷惑は大きかった

■喪に服し(服喪)穢れを忌む(忌引)
近親者が死んだときなどに穢れが生じたとして服喪日数や、穢れが無くなるまでの忌引の日数を決め、自宅謹慎した
死や血を穢れたものとして排除する考えを広く社会に浸透させた

■綱吉政権は、戦国時代以来の「人を殺すことが価値であり、主人の死後、殉死することが美徳」とされた武士の論理を否定し、殺生や死を忌み嫌う風潮をつくりだした
死んだ牛馬を片づける皮多
清掃・清めにたずさわる非人
の仕事が必要かつ重要な役割となる
同時にこの仕事自体に穢れ感がつきまとう、という考えも広まり
皮多、非人の人々を忌み遠ざけるという誤った差別意識も強化されてしまった
幕藩の公文書では「穢れ多い」という「穢多」という身分呼称を用いた
彼らは自ら穢多と称さない
穢多とは差別する側が用いた言葉であると認識する必要がある

■幕府は天皇・朝廷の儀式を復活させ、尊重するようにした
★192年ぶりに賀茂葵祭復活
★221年ぶりに東山天皇即位時で大嘗会が復活
天皇即位の儀式である大嘗会は、1466年後土御門天皇が挙行した後、戦乱期のため9代の天皇が行えなかった

■鉱山の金銀産出量低下
鉱山収入減少
明暦の大火後の江戸城・市街の再建費用
寺社造営費用
直ちに幕府財政波状を招く
財政収入増のため貨幣をつくる
小判に含まれていた金の比率を減らし発行し、幕府は500万両の増収をあげた
人々の生活は圧迫

■富士山噴火🌋1707年11月
前日から地震が繰り返され、ついに爆発した。富士山の降砂は上総、下総、安房にも及んだ。その手前の武蔵、相模、駿河では砂は深く降り積もり被害は甚大であった
幕府は復興のため、全国に諸国高役金を掛けた。100石につき金2両ずつの割合で復興金を納めるよう命じたのである
約49万両集まった
復旧に6万3千両支出されたことは明記されている
残りの40数両はどこへ?
将軍権力と勘定奉行荻原重秀の不明朗が同居した綱吉政権最末期であった

殉死美風から殉死不義無益へ「追腹の者あれば、それは亡き主人のおちどである」

2022-01-30 08:51:02 | 日記
■4代将軍・徳川家綱・11歳
1651年4月3代将軍・徳川家光死去
11歳の徳川家綱が14代将軍を継いだ
家光までの支配のあり方は、戦争に備えた軍事指揮権を発動して、全大名を武力で従わせる方式をとってきが、戦国期以来の戦争は、3代将軍までにほとんど解決した

家綱を支えるのは
大老・酒井忠勝
老中・松平信綱
後見人・保科正之(叔父)

■御家断絶防止政策
御家断絶の原因になっていた【末期養子の禁止を緩和した】
御家断絶し主人を失った武士は牢人となる。主人のいない自由な牢人が集団となると問題を起こしやすいから、家を断絶させないようにした
当主が生の末期、その当主が50歳未満の場合は末期養子を入れて家の存続をはかることを許可した

■殉死の禁止
「殉死は不義無益。もし主君のあとを追って切腹する追い腹の者があれば、それは主人の戒めが足りなかったもので、その亡き主人のおちどである。その跡目の息子もこれを止めなかったことは不届きである」

【殉死】
将軍と大名の主従間
大名と家臣の主従間
家臣と従者
との間にみられた
※徳川家光死後、老中堀田正盛・阿部重次ほか、側近が殉死した

※仙台藩主・伊達政宗が死去した際は、殉死者が15人あり、その15人のために殉死した者が5人いた

※熊本藩主・細川忠利死去に際しては19人の家臣の殉死者があった

武士世界の価値として、殉死を美風とみなす空気が続いていた。これを家綱は殉死は無益なことと否定したのみならず罰した。「主人の死後は殉死することなく、跡継ぎの新しい主人に奉公すること」を義務づけた
主人個人に奉公する考え方を改め、【主人の家に忠誠を尽くす】ことが望まれた。結果、主人の家は代々主人であり続け、家臣は代々主家に奉公し続けることが当然のこととした