るるの日記

なんでも書きます

資本主義の胎動はもう止められない→なぜ幕府もいち早く商業をしなかったのか?→儒教では商業は卑しいとされる(士農工商)

2022-01-31 14:18:00 | 日記
♦️農業生産を経済の基礎とし、そこから年貢を取り立てることによって成り立つ幕藩体制の仕組みは、天保期に本格的な行き詰まりを示した

★原因は農村人口減少
農村の人口減少
耕作できない田畑を生み出す
農村荒廃

★原因は商品生産
※問屋商人が生産者に資金や原料を前貸しして生産を行わせ、発展した(問屋制家内工業)
※問屋商人は作業場を設けて、賃金労働者を集め、分業・協業による生産を行った
(工場制手工業)

♦️農村荒廃、資本主義的な工業生産の発展などの社会・経済構造の変化は幕藩領主にとっては体制の危機であった。資本主義の胎動はもう止めることはできない

■藩政改革は多くの藩でおこなわれた
★薩摩藩
※調所広郷(ずしょひろさと)が1827年から改革に着手。商人から500万両の借金を無利息250年払いで借り、黒砂糖の専売制を強化した

※幕府が蝦夷地から独占的に集荷していた俵物を、薩摩藩は松前から長崎に向かう船から買いあげ、これを琉球を経由に清国に売る密貿易を行い藩財政をたてなおした

※薩摩藩は島津斉彬の代になると、殖産興業政策(産業保護育成政策)が進められ、1856年、鉄溶解炉の築造に成功。造船所やガラス製造所など工場を建設

※島津忠義は、鹿児島紡績工場を建設(イギリス人技師指導)
※長崎のイギリス人貿易商グラバーから様式武器を購入し軍事力の強化をはかった

★長州藩・村田清風を登用
※140万両の借金を37年払いにし、紙や蝋の専売制を改正

※越荷方(こしにかた)という役所を設け、他国廻船をもたらす物産を抵当に、廻船業者などに資金の貸付を行う
またはその物産を買い取って委託販売をし利益をあげる
などを藩財源とした

※様式武器を購入し軍事力の強化をはかった

★佐賀藩
陶磁器の専売を進めて藩財源とした
日本初の反射炉を築いて大砲製造所を設けた

★土佐藩
大砲の鋳造、砲台の築造

その他
★宇和島藩
★福井藩

♦️これら諸藩は有能な中下級藩士を幕政に登用し、藩の財政難打開のために強引な方法で借金を整理し、さらに藩自身が商業や工業に乗り出して富裕化をめざし、それにより軍事力を強化しようとした
これらは雄藩として幕末の政局に強い発言力と実力をもって登場することになる






〈大名に芽生えた自我〉幕府がひいきする大名と外様大名の境界線

2022-01-31 12:55:58 | 日記
幕府は1840年
川越藩主松平家を庄内へ
庄内藩酒井家を長岡へ
長岡藩牧野家を川越へ移す
三方領知替えと呼ぶ転封を命じた

〈三方領知替え〉
3大名を玉突き式に移す譜代大名の転封の一形式。江戸時代7回行われている

徳川家斉の娘の縁組み先の大名を優遇し、川越藩松平家も徳川家斉の子を養子にしたことを利用して、豊かな地庄内への転封を希望
外様大名などが強く反発
庄内藩領民も松平家の入封を嫌い、酒井家がとどまることを求め反対運動を展開
幕府は転封を撤回
幕府が大名に転封を命じながら実行できなかったことは空前の出来事
幕府権力の低下
藩経済の自立化を示す

水野忠邦は将軍・幕府の権威を再強化するため巨額の費用をかけて
67年ぶりに将軍の日光東照宮参詣を挙行した

その上で

上知令を出し、江戸大阪周辺の大名の支配地約50万石を直轄地とし、財政収入を増やし、大名には年貢収入の劣る代地を与えようとした
またまた諸大名の反対のため実施できず、水野忠邦は失脚
幕府権力ますます示した

内憂外患・再び生活細部に及ぶ厳しい統制→この繰り返し

2022-01-31 12:23:10 | 日記
凶作や飢饉
大塩平八郎の乱
深刻化する財政難
アヘン戦争などの情報
幕藩体制を揺るがす内憂外患の
本格的な危機
徳川家斉の死後、将軍徳川家慶の信任を得たのは老中・水野忠邦である

■忠邦はあらゆる階層に「厳しい倹約令と風俗統制令」を出した
※高価な菓子・料理、華美な衣服🈲
※江戸の寄席211軒→15軒
※歌舞伎三座を風俗を乱す元凶として場末に移転
※役者が町中を歩くときは編笠被る
※すべての出版物を幕府が検閲し、幕府に不都合な書物を取り締まる
※人情本作者を処罰

■江戸の人口を減らし、農村の人口を増やす
※百姓が離村して江戸の住民になること🈲
※すでに農村を出て江戸に住んでいる者には帰郷を命じた(長年住んでいる者以外)
※出稼ぎは領主の許可制
※人別改強化

■物価高騰対策
物価高騰原因は品質が劣る貨幣の大量鋳造と、商品流通の変化にあったのに、幕府は問屋の株仲間による商品流通の独占し、物価の操作を行っているのが原因だとし、株仲間の解散を命じた。仲間以外の商人たちによる自由な取引により物価下落を期待した

★商品流通の変化
〈基本〉
商品は、全国の生産地から大阪市場に集荷され、大阪問屋から江戸問屋へ送られた
〈変化〉
生産地から大阪に商品が届く前に
他の場所で売買されたり
廻船業者が地方商人と結んで、江戸の仲間商人や、江戸以外へ直接運んだ
それらによる物価操作し物価高騰


■やはり、、このような生活細部に及ぶ厳しい統制と、倹約令による不景気は人々の不満を高めた



飢饉→米買い占め→餓死者がでる→役人は窮民救済どころか米を幕府に流す始末→元役人・大塩平八郎の乱

2022-01-31 11:27:19 | 日記
天保期に入ると、なぜか毎年のように凶作となった
1832年~1833年には、とうとう収穫が平年の半分以下となり、厳しい飢饉となった。百姓一揆やうちこわしは年間100を越えた

天保の飢饉

1836年の飢饉はとくに厳しく餓死者が相次ぎ、大規模な一揆が起きた。しかし豪商らは米を買い占めて暴利を得、大阪町奉行所などは救済策をとるどころか、幕府の指示で大阪の米を大量に江戸へ送っていた

大阪町奉行所の元与力で陽明学者の大塩平八郎は自らの本を売って民衆救済にあてるなどしていたが、「窮民救済と幕政の根本的な転換」をかかげ、自分の塾生洗心堂の門弟や、民衆を動員して、武装蜂起した。大塩勢は大砲を撃ち、豪商宅を焼き、市中に火を放ちながら進軍したが、幕府軍により半日で鎮圧された
幕府の重要直轄地大阪で、幕領の元役人大塩平八郎が反乱を起こしたことは、幕府や諸藩に強い衝撃を与えた

財政危機になったら、貨幣を大量に鋳造すればいい→物価上昇

2022-01-31 11:02:32 | 日記
■財政と物価
1793年、松平定信が老中辞職したのちも寛政の改革路線はつづく

1818年、水野忠成が老中になると、
財政は臨時経費増大により、再び行き詰まった
幕府は品質を落とした小判など貨幣を大量に鋳造し、550万両にのぼる利益を得た
物価上昇する。が、商人の経済活動はいっそう活発となり、庶民文化が花開く
今度は物価問題が、幕政の重要課題となる

■将軍は
1837年、家斉は将軍を
12代徳川家慶に譲ったが
家斉は大御所として、死ぬまで幕府の実権を握りしめた

■世界では
18世紀後半は世界の転換期
イギリス→「市民革命」達成
アメリカ→「独立宣言」公布、西部の開拓し太平洋岸に進出
フランス→「フランス革命」
ロシア→シベリア開発
産業革命も始まり植民地争奪戦
欧米諸国は東アジアに接近
日本近海をロシア船やイギリス船が現れ東アジアの秩序は動揺
幕府は外交体制の変更を迫られる時期を向かえようとしている