ガキ大将ぶりは中学生になってもしばらく続いた。
ちょうど「帰宅部」の頃だった。
勉強より何より、外遊びの習慣はそうそう簡単に止められるものではない。
学校から帰るとすぐ外に出た。
中学生になったのだから、もう幼稚な遊びはしない。
テレビで見た陸上競技会でやっていた棒高跳びをしてみることにした。
私のアイデアには仲間がみんなで協力してくれた。
幸いにも、我が家と道を挟んだお隣さんの屋敷が建物を撤去した空き地になっていた。
ここに棒高跳びのピットを造るのだった。
まずはじめに、リヤカーを引いて近所のバッケ(崖の端で地層がむき出しになった場所を称していたが、後に古代日本語《アイヌ語》に由来することを知った)から砂をたくさん採取してきた。
着地した際の安全確保のためだ。
次に山へ行って、適当な木を2本伐採してきた。
支柱にするためだ。
支柱には釘を何本も打ち込んで、高さを何段階か設定できるようにした。
最後に、バーとポールは我が家の竹山から適当なものを数本切り出してきて作った。
バーにはできるだけ細くまっすぐな竹を用意し、ポールはある程度の強度が必要だが小さい子にもできるようにあまり重すぎない竹を何本も作った。
放課後、申し合わせたかのように小学生から私たち中学生まで集まってくる。
時には、噂を嗅ぎつけて大きな先輩もやって来るが彼らはあくまでもお客様、ここはガキ大将が仕切る子どもの遊び場だ。
きっと、近所の大人たちもこの遊びは見て知っていたはずだが、何も文句は言わなかった。
お陰で、私たちは飽きるまで続けることができた。
さて、肝心な棒高跳びの競技であるが、慣れてくるに従い高さはぐんぐん上がり、ついには支柱のてっぺんまで行ってしまった。
弟や下級生にも跳び方のコツを教えた。
この遊びが楽しいのは、一人ではなく年の差を超えた多数の仲間でやっていたからだろう。
多少の怪我はしたはずだが、大事に至ることなく続いた。
この様子をカメラに収めるべく、父から借りたミノルタで写真を撮り合った。
時は折しも60年安保を通り過ぎ、東京オリンピックの前夜とも言える時期であった。
高度経済成長の転換期にさしかかった頃である。
こんな時期に私は、中学生にもなってこんなことをやっていたのである…。
-S.S-