田舎の子どもたちの遊びは多種多様だったが、チャンバラも忘れられない一つだ。
ほとんどの家に、屋敷の裏には竹林があった。
でも、友だちの家の竹林は孟宗竹が多く、チャンバラ用の刀を作るには向いていなかった。
そこで、真竹の竹林を持つ我が家が、刀の材料調達からチャンバラの戦いの場としても利用された。
数ある真竹の中でも、刀としてふさわしいものは容易に見つからない。
うまい具合に曲がったものがあると、やったあ!という感じである。
竹用のノコギリとナタ、それにナイフは必需品だ。
もちろん、ナイフ以外は祖父から借りたものだ。
因みに、ナイフは高学年になり自分で使い方が分かるようになると、どの家でも買い与えてくれたものだ。
今では信じられないかもしれないが、男の子はそれを持って上手に使いこなすことが成長の証でもあった。
チャンバラは、剣道とは異なるものの自ずとルールのようなものができていた。
防具を着けているわけではないので、頭や手足をおもいっきり叩くのは反則だ。
刀と刀を打ち合わして音を立てるのが主なやり方だ。
竹の刀をベルトに差して竹林を走り回ったり、竹藪の窪地を隠れ家にして潜んだり、チャンバラは常に刀を出して戦うだけでななかった。
仲間内であっても、敵味方を作って互いに隠れながら戦うのが面白かった。
しかし、時には敵味方を忘れ一緒になって「竹登り」を楽しむこともあった。
竹の上の方まで登ると大きく揺れるため、それを利用して隣の竹に乗り移るのも醍醐味の一つだった。
ある時、隣のの連中とチャンバラの戦いをすることがあった。
相手が戦いを申し入れてきたからだ。
互いに10人前後の武士団を作り、いつも以上に戦場を広げた戦いとなった。
しかし、結果は無残な敗北に終わった。
敵のチャンバラは野蛮そのもので、私たちのような戦いを楽しむものではなく、かなり本気で刀を振るってくるのであった。
竹の刀はみるみる打ち砕かれ、使い物にならなくなったり、素手に血が滲むほど打たれたりしたのだ。
それに、小学校3,4年生が中心だった私たちに対し、敵は高学年も何人か入っていた。
どうやら、近隣の私たちがいつも楽しそうにチャンバラをしている様子を垣間見た連中が仕掛けた意図的な戦いであったようだ。
そういえば、あの頃の私たちの仲間意識は強かった。
何をやるにも、みんなで知恵を働かせ力を出し合っていたものだ。
それができたのも、代々と伝わる遊びの種類やルールを律儀にリーダーが受け継いできたからである。
自分で言うのもおこがましいが、ある時期は私がリーダーだったこともある。
そう、田舎のガキ大将だったのである。
-S.S-